Monday, January 22, 2007

責任論ノート―責任など引き受けなくてよい


道徳的責任の性質



人の道徳的責任を問う、という行為は、本来的に不安定性を伴う。道徳的責任がどのような場合に発生し、どのような場合に果たされたことになるのかについての判断は、社会ごと、個人ごとに異なる。これに対して、法的責任の場合は、その発生は法が確定するものであり、法的行為によってそれを果たしたことになるので、比較的明瞭である。そのため、規範的議論においてその所在、内容、範囲などについて問題となるのは、主に道徳的責任の方である。

一般的に、道徳的責任の所在、内容、範囲は、当該社会内における支配的な道徳的感覚に基づいて定まる。通常、AがBに対して、Bが事象Cについての責任を負っていることを認めさせるためには、論理や感情に訴えて、Bを説得する必要がある。だが、ここでBがその責任を負うことを拒んだとしても、当該社会のメンバーの多数がBに責任が帰せられるべきであると考えるならば、一般的には、BはCについての責任を負っていると見なされる。ここでBはこの責任を負うことをあくまで拒むことはできる。だが、それによって当該社会内におけるBの評価や地位は低下することになるだろう。社会一般によって認められた責任を負うことを拒むことは、現実にBを不利にするのであるから、責任拒否がもたらすコストがBにとって許容しうる範囲を超えるのであれば、Bは自らの責任を認めた方が賢明である。

ここから明らかになるのは、道徳的責任の追及を支えているのは、社会的権力によるサンクションであるということである。ある人がある責任を引き受けることを拒んだ際に、そのことを責め、その人の不利益に働き得る何らかの力による裏付けがなければ、責任が責任として機能することはない。その力は相手の道徳的感覚(良心)に訴えるような規範であってもいいし、評判や評価といったものでもいい。ともかく、そのような現実の力による裏付けがあってはじめて、道徳的責任の追及が可能になるのである。

当該社会において支配的である道徳が要請する責任を拒むことは、その社会内部で生活し続ける限り、非常に大きなコストを背負うことになるため、通常は責任を引き受けることが賢明である。それは、その責任を自らが負うことが正当であるか否かについての規範的判断とは区別される、合理的判断である。だが、ここで道徳的責任にまつわる規範的議論と切り離される形でこうした合理的判断が行われているのではない。合理的判断の前提となる社会的権力は、社会内における支配的な道徳的感覚に基づいているのであるから、そうした道徳的感覚を形成したり変化させたりすることができる規範的議論は、社会的権力と強く結び付いている。規範は権力の裏付けを必要とすると同時に、権力の矛先を定める基盤でもあるのである。

このように考えてくると、ある責任を引き受けるということがどういう意味を持っているのかも解ってくる。責任を引き受けるということは、賢明な処置としての処世術であり、通過されるべき儀式なのである。ある一定の条件下に置かれた人は、自らの責任を認め、その意思を何らかの行動によって示す。すると、その意思表示によって責任は消化されたと見なされ、社会的に一応の完結が図られる。この儀式が行われないままであると、批判や非難が寄せられることとなる。また、責任の規模が非常に大きいと見なされている場合には、こうした定型的な儀式を終えただけでは責任は消化されないと考えられる場合もある。逆に、儀式が終了し、一応の完結が見られた後で、さらに批判や非難が寄せられるならば、そうした声は過度の責任の追及として、不当であると見なされる。儀式を軽んじてはならないのである。


無限責任と無責任



規範的議論においては、当該社会における支配的な道徳的感覚が要求する以上に、道徳的責任が追及されるべき範囲を広く考えようとする立場がある。それは、「強い責任理論」とか「無限責任論」などと呼ばれる立場である。そうした立場によれば、私たちはあらゆる他者に対して「応答責任」を有していると考えられるが、こうした考え方は結果として「責任のインフレ」を引き起こすとして、しばしば批判される*1。この立場を極端にすれば、私たちはあらゆる存在に対して逃れられない責任を有しているのだから、特定の責任を殊更強調する必然性はないことになる。すると、他者に対する無限の責任を求めるということは、最終的には誰に対しても責任を負わないということと同じになる。無限責任論と無責任論とは、コインの表と裏なのである。

私は無限責任論よりもむしろ、その果てにある無責任論の方に魅力を感じる。道徳的責任の内容と範囲は、私たちが生きる社会内の人々の道徳的感覚と社会的権力作用の産物でしかないから、最終的には恣意的なものである。理論的には、それはどこまでも広がり得るし、どこまでも狭められる。ならば私は、ただ私の行為/不行為の帰結は全て私に降りかかって来るであろうという事実的な認識だけを有して、規範的には、あらゆる道徳的責任を引き受けることを拒絶したいと思う。

だが、そう言ってみたところで、現実を生きる私たちには、社会的権力としての道徳的責任の追及が常につきまとうのである。道徳的責任は、規範的にはそれを受け入れない者にも容赦なく適用される。道徳的責任は「規約」であり、それを受け入れる者には適用され、それを受け入れない者には適用されないものだ、というのは嘘である。正義や道徳はあくまで一つの権力として機能するので、「規約」の体を取りつつ、それを受け入れない者にも適用されていく。したがって、私は無責任論者として道徳的責任に規範的正当性を認めるわけではないが、賢明な処世術として、それらに従いながら生きていくほかないだろう。


*1:北田暁大[2004]『責任と正義』勁草書房。




Saturday, January 20, 2007

九条燃ゆ前に(2)


(1)へ


現実主義的理想主義的護憲論



現代の護憲派を理論的側面でリードしている渡辺治は、大塚のような理想主義的な護憲論と、内田や長谷部のようにある程度現実を容認するような護憲論との、あいだを行く。渡辺は、9条は解釈改憲によってボロボロになっており、自衛隊を認めた上で野放図な海外派兵などを防ぐために新たに歯止めをかける必要があるとする「解釈改憲最悪論」に反論し、もし9条が何の役にも立たなくなっているのであればわざわざ改正する必要はないはずであると言う。改正しようとする動きがあるということは、9条に未だ力があるということを意味する、と。その上で渡辺は、憲法は現実と全く一致するということがないものだと主張する。憲法は現実と緊張関係を持っているからこそ、その実現に向けて努力すべき規範として意味を持つ。それは男女平等を定めた14条や生存権を定めた25条と同様である、と。

渡辺によれば、現代の改憲論の主要な目的は、多国籍企業のグローバル展開に伴い、アメリカとともにグローバル市場秩序の安定を確保するために、軍事大国化と自衛隊の武力行使目的の海外派兵を可能にすることにある。こうした「支配層」の思惑を長い間阻んできたのは9条とそれに基づく平和運動にほかならず、明白な憲法違反である自衛隊の拡大は9条が歯止めとなって抑えてきた部分が大きい。解釈改憲も強力な運動に対する余儀ない対応として採られてきた苦肉の策であり、例えば集団的自衛権の行使を認めるような解釈変更なども、心配されているように官僚の判断でいくらでもできるような性質のものではない。したがって、明文改憲を許さないことは今でも極めて大きな意義を持っており、「解釈改憲状態の方が、明文改憲よりずっといいに決まっているのである」*1

最近、改憲論への包括的な反論を行っている愛敬浩二も、渡辺の議論に負うところが多い*2。特に、改憲に関わる「支配層」の思惑についてはほぼ渡辺の分析を丸呑みしている。もっとも、こうした分析は渡辺や愛敬だけでなく共産党や社民党も多くの部分を共有しており、精緻さを別にすれば比較的一般化しているとも言える*3。愛敬は渡辺と同じように自衛隊を違憲であると考えているが、それを制約するような「新しい九条」を制定したとしても、それが改めて解釈改憲にさらされない保証がどこにあるのかとして、「解釈改憲最悪論」に抵抗している。また、長谷部の9条=「原理」論に対しては一定の理解を示しつつも、9条が「準則」と了解されているからこそ実際は「原理」として働くのであるとして、その実践的問題点を指摘している。こうした「現実主義」的立場、現実政治的視点は愛敬の強調するところであり、こうした立場からすれば、「戸締り論」のように一般的・抽象的議論からいきなり軍備の是非に関する選択を迫る議論は、政治論として馬鹿げている上に改憲派(「支配層」)の思惑を隠蔽するものだとして、厳しい批判を受けることになる。

以上のような渡辺=愛敬の護憲論を一言でまとめるとすれば、「手段的絶対平和主義的護憲論」とでも言えよう。渡辺も愛敬も、自衛隊は違憲であると考えており、そうした現実の方を9条の理念に近づけていくことを主張しているので、その意味では絶対平和主義の立場に立っている(愛敬はそう明言している)。しかし、愛敬が一般的・抽象的議論としての軍備の是非論を扱うことを拒んでいることからもわかるように、現実問題として非武装が実現できるし実現すべきだと彼らが信じているようにはあまり見えない。むしろ彼らが強調するのは政治的な歯止めとしての9条の効力である。これは愛敬についてより顕著であるが、彼らは9条を厳格に(つまり絶対平和主義的に)解することによってこそ歯止めとしての効力が強まると考えており、その意味で彼らの絶対平和主義的立場は手段的に選択されていると言える。おそらく彼らも自衛力の必要を認めており、その点、内田や長谷部と大きく考えを異にするものではないが、9条と自衛隊を整合的に捉えるような一種の「譲歩」は政治戦略上望ましくないと判断しているものと思われる。

こうした理解の上で、彼らの議論の問題点をいくつか指摘したい。まず渡辺について。渡辺は14条や25条を引き合いに出しながら憲法と現実は常に緊張関係にあるものだと言うが、9条の現実との乖離を問題にする人々は単に「乖離」だけを問題にしているのではなく、9条の実現が「不可能」であることを問題にしているのではないか。14条も25条も完全な実現は不可能に近いが、その実現要求を個別のケースに応じて争うことができる。これに対して9条は個別的に争うことができず、(「準則」として解釈する限り)端的に実現していないとわかる。したがって、9条と性質を大きく異にする14条や25条を引き合いに出す論法は説得力に欠けるように思われる。渡辺自身も自衛隊を違憲だと言っており、その即時および近時の廃止を目指していない以上、9条は実現不可能ゆえに常に違憲状態を発生させる条文であることになり、この点を問題視する意見が根強いのは無理もないように思われる。

また、渡辺が分析する改憲派の思惑については大きく外れているとも思わないが、後に高橋哲哉の議論について改めて述べるように、「支配層」の思惑に問題の全てを還元するような議論は受け入れ難い。「支配層」と呼ばれるような人々でなくとも「国際貢献」やその他の海外派兵、軍事大国化などを支持する人々はそれなりに存在していると思われる。そして彼らは「支配層」に「だまされている」わけではない。この点を無視するならば、「支配層」ではない人々に広くアピールするような護憲論の展開は到底かなわないであろう。

愛敬については一点だけ述べておく。9条改正については抽象論ではなく現実を踏まえた議論をするべきであるという主張には確かに理があるが、それが一般的・抽象的議論を封じるような意味合いで述べられていることは批判されるべきである。愛敬自身が述べるように、立憲主義が多数決では覆しがたいようなルールを予め定めることによって通常政治の逸脱・暴走を防ぐ目的を持つとすれば、憲法に関する議論はかなりの程度一般的・抽象的性格を持たざるを得ないはずであり、持つべきでもあるはずである。通常の政治過程における現実的・政治的な判断に大まかな枠をはめるルールである憲法の規定については、想定されるあらゆる事態に応じた一般的議論を尽くすことが求められる。もちろん特殊日本的な歴史的文脈や政治的・社会的事情は有り得るとしても、(例えば「戸締り論」のような)一般的・抽象的設定から議論を始めることは、特段批判されるべきではない。むしろ「戸締り論」のような軍備の一般的是非を問うような議論を回避して「支配層」の思惑に焦点を絞り込もうとする愛敬の振る舞いこそが、それ自体として強い政治性を有するものであることは指摘しないわけにはいかない。


啓蒙主義的護憲論



高橋哲哉もまた、渡辺や愛敬と同様に「支配層」の思惑を過大視する。高橋は、国家の戦争とは、「国家の権力者たち、そして彼らと利益を共有する者たちが自分たちの権力や利益を確保し、あるいは拡大するために国民を犠牲にして行う」ものであると述べる*4。その証に、高橋によれば、彼ら国家の支配者たちは決して戦争の際に最前線に身を置くことはないのである。さらに高橋は、軍隊=自衛隊は決して国民を守るものではないと言う。軍隊=自衛隊の第一次的な任務は国家=国体を守ることにあるのであり、それはつまり「国家の支配層、権力者やそれにつながる人々」を守るために末端の国民を犠牲にしていくということを意味するのだ*5

ここで高橋は迷いなく国家=国体=支配層と結んでしまっている。しかしながら、「国体」を一般化して「国家体制」と考えるのならば、それは政治体制や憲法秩序を意味するはずであり、特に根拠も示さずに直接に「支配層」と同一視するのは不自然である。例えば長谷部は、「憲法自身が一貫して守るよう要求できる「国」とは現在の憲法の基本秩序であり、日本国憲法の場合でいえば、リベラル・デモクラシーと平和主義である」と述べている*6。このような考え方を採るとすれば、自衛隊が守るべき国家=国体=憲法秩序とは(平和主義はともかく)リベラル・デモクラシーであることになり、より具体的に言えば「人権」や「自由」や「民主主義」であることになる(長谷部の考えに反対するのであれば、国体と「支配層」をイコールで結ぶ根拠をきちんと示さなければならない。最前線に赴かないことがその根拠として十分でないことは、近代戦の常識や議会制民主主義の原則に照らして明らかである)。つまり、軍隊が国民ではなく国家を守るものだとしても、民主主義国家における国家とはその民主主義的秩序そのものであることになるから、軍隊は(少なくとも理論上は)必ずしも「支配層」を守るものではない。むしろ、民主主義国家においては、軍隊は国家=リベラル・デモクラシー=人権・自由・民主主義を守るためにこそ、国民を犠牲にするのである。

高橋のように、また渡辺や愛敬のように、戦争の責任を全て「支配層」の権益に帰してしまうタイプの主張は、リベラル・デモクラシーや各々の国民を免責するイデオロギーとして働くと同時に、高橋たち自身の思想の「正しさ」を最終的に保証する装置としても働いてしまっている。高橋は「支配層=悪の元凶」論を採用することによって、国家のために国民が犠牲にされる醜悪な側面がリベラル・デモクラシーにも備わっていることに目を瞑り、民主主義下において国民が自覚的に戦争を選択する可能性を除外し、戦争一般を「支配層」が自らの利益のために国民を犠牲にする形に一元化してしまう。このような構図においては、たとえ国民が一見自覚的に戦争を選択したように見えても、それは何らかの形で「だまされた」結果であるとされてしまう*7。そして、「だます支配層」と「だまされる国民」というこの構図の中で、高橋のように「だまされてはいけない」と叫ぶ者たちは「支配層」の思惑を暴く啓蒙者(より露骨に言えば「正義の味方」)として確固たる地位を占めることになる。この地位が都合が良いのは、たとえ自分たちが少数派であってもそれは多くの国民が「だまされている」からであることになり、実際に戦争に突入するなどの最悪の事態においても、その責任を「だます支配層」と「だまされる国民」の両者に帰してしまうことができるからである。

高橋らが用いるこうした構図は、左翼や「進歩派」が伝統的に継承してきた構図である。そこでは、「だます支配層」、つまり国家権力者や大企業のトップなどがいつでも悪の元凶であり敵視される一方で、「だまされる国民」、つまり啓蒙されるべき大衆も軽蔑されている。高橋のような啓蒙主義者たちにとって、「正義の味方」である自分たちの「正しさ」を理解せず、「支配層」の思惑を見抜けずに「だまされる」蒙昧な大衆は、いつでも最大の障害なのである。こうした態度を私は左翼と進歩派の慢性的な病であると考えているが、この病についての議論は本筋から外れるものだろう。ただ、「現実におもねる」ことなく「思想」を持ち、「支配層」に「だまされない」ように歴史を学んで批判的思考を養わねばならない、と呼びかける彼らの姿勢は、多くの国民には「われわれのいる位置まで上がってきなさい」と偉そうに説教するうっとうしい存在にしか映らないだろうことは確かだ。


「新しい歯止め」論と護憲の方法



理論的に考えても、実践的に考えても、護憲派が最もアピールするべき相手は、平和のためにこそ9条改正が必要であると考える人々である。彼らは別に「支配層」に「だまされている」わけではなく、おそらく自分なりに平和実現の方法を考えた結果として9条を改正すべきであるとの結論に至ったのであろう(もちろん日本の「国益」や自分の身の安全を考えて9条改正を支持するに至った人々も別に「だまされている」わけではない、と私は思う)。こうした人々は解釈改憲最悪論をとっていることが多い。彼らは国際情勢や政治状況の変化に応じて、従来の歯止めとしての9条に代わる「新しい歯止め」が必要であると考えている。護憲を主張するのであれば、こうした主張に対して説得的に答えていかなければならない。

これまで私が批判してきた渡辺や愛敬、内田の議論は、実際のところ、それなりに説得力を有していないわけではない。だが、それが恒常的な違憲状態を維持する点で、難がある。あるいは、法的には解釈によって違憲は回避されているから問題はないと考える場合でも、解釈改憲最悪論の不安を十分に払拭しきれない点で、なお困難は残る。私自身は、解釈改憲最悪論に対して渡辺や愛敬が主張する「明文改憲最悪論」や、改憲すればそこから新たに解釈改憲の危険があるという主張には、一定の説得力があると考えている。この点については伊勢崎賢治も、軍隊の保持を禁止している現行憲法下でさえ軍事的な海外派兵が実現しているのであるから、「たとえ平和利用に限定するものであっても海外派兵を憲法が認めてしまったら、違憲行為にさらに拍車がかかるのではないか」として明文改憲に反対している*8

しかしながら、おそらくそうした主張だけでは十分ではない。渡辺にせよ、愛敬にせよ、内田にせよ、伊勢崎にせよ、9条の歴史的・現実的歯止め効果を強調するのであるが、それだけでは「新しい歯止め」論を支持する人々に対する十分なアピールにはならないだろう。従来の歯止めとしての9条ではもはや十分ではないと考えている人々に対しては、従来の歯止めの効力が未だ残っているという(いささか消極的な)訴えかけをするだけではなく、また別種の「新しい歯止め」を積極的に提案していく必要がある。9条を改正することが平和に寄与しないことが確かであるとしても、9条を守っていれば十分であるという消極的な姿勢は説得的でない。9条改正以外の方法によって「新しい歯止め」が形成可能であることを示すことができれば、解釈改憲最悪論を支持する人々の中の一定数にはかなり説得的に訴えかけることができるだろう。もちろん、ここで言う「新しい歯止め」は従来の歯止めとしての9条やその他の積み上げを否定するような性格のものではなく、それらを生かし、それらと結び付きながら「新しい歯止め」として機能し得るものでなくてはならない。

明文改憲最悪論や9条の歴史的・現実的歯止め効果の強調に加えて、9条改正/遵守以外の形で「新しい歯止め」を構想し提案していく。これが私の考える説得的な護憲の方法についての結論である。けれども、実際のところ、私にはこの「新しい歯止め」がどのような内容であるべきなのか、皆目見当がつかない。無責任と言われるかもしれないが、この先は護憲派の読者自身による更なる思索に委ねたい。


(完)



*1:渡辺の主張は以下による。渡辺治[2005]『憲法「改正」』旬報社。今井一編[2004]『対論!戦争、軍隊、この国の行方』青木書店。

*2:愛敬浩二[2006]『改憲問題』ちくま新書。


*4:高橋・斎藤[2006]102頁。

*5:同、111‐114頁。

*6:長谷部[2006]23‐24頁。

*7:高橋・斎藤[2006]40‐141頁では、「だまされない」ようにするべきことが強調されている。

*8:伊勢崎賢治[2004]『武装解除』講談社現代新書、236頁。




Friday, January 19, 2007

九条燃ゆ前に(1)


理想主義的護憲論



平和をたぐり寄せるためには「9条」を手放すことは出来ないと私は考えている。だが、こうした考えを代表する「護憲」派は説得的な主張を展開できているのだろうか。まだ間に合ううちに、改めて検討しておく必要がある。

日本国憲法第9条についてのいかなる改正にも反対する「護憲」論者の中でも、非武装中立論のような理想主義的な主張を正面から唱える者は少なくなってきている。そうした流れに抗して、大塚英志は敢えて理想主義的に護憲を語る*1

大塚によれば、9条とは「ことば」の問題である。一切の武力行使を放棄した9条は、ことばを信じ、ことばによって他者と話し交渉して合意点を見つけていこうとする選択肢を示した。ところが、戦後の日本はこうした「ことばによる外交」の道を採らず、9条を実現してこなかった。戦争を放棄した主権国家としてのあり方の可能性は放棄されてきたのである。こうした武力によらない外交解決という理想論は現実的ではないとして笑われる傾向にあるが、理想論を笑うことは現実におもねることにほかならない。より困難でラディカルなのは理想論を語ることであるから、理念と現実の乖離に臨んでは、理念ではなくて現実の方をきちんと修正せよという原理主義的選択を再評価する必要がある。そうした原理主義的選択として、9条を前提に非武装中立の外交をするという理想主義を復興する選択肢が再び選ばれるべきなのである。

大塚は社民党などは非武装中立を放棄していったと言うが、少なくとも遠い将来の目標としての非武装国家については社民党も共産党もそれを放棄しているわけではない。「将来の非武装の日本を目指す」「現実を平和憲法の理念に接近させる着実な努力こそが求められている」といった社民党の宣言は大塚の主張と一致する*2。また、「世界史的にも先駆的意義をもつ九条の完全実施にむけて、憲法違反の現実を改革していくことこそ、政治の責任である」とか「独立・中立を宣言した日本が、諸外国とほんとうの友好関係をむすび、道理ある外交によって世界平和に貢献するならば、わが国が常備軍によらず安全を確保することが、二十一世紀には可能になる」といった共産党の宣言も基本的には同じことを言っている*3

こうした言葉に接する限り、即時の非武装中立や自衛隊の廃止を求める勢力はもはや無きに等しいとは言え、将来的・潜在的なものとしての理想主義的要求は未だ根強いと言えそうである。実際、大塚が言うような「ことばによる外交」論は昔から一貫して見られる主張であり、最近では井筒和幸が、「ちゃんとした「大人の国」は戦争しない、その代わりにどうするかというと外交するわけです」と述べている*4。こうした立場は要するに「いかに<脅威>をつくらないか、いかに日本に攻めてくる国をつくらない(その国にとっても日本が大切な存在になる)かという観点で外交努力をしていく必要がある」という主張に終始することになるが*5、「それで外交に失敗したらどうするのか」という端的な反問に対して一般的にあまり積極的に答えようとしないために、説得力はあまり大きくない。

この反問に対して、非武装を維持したままで積極的に答えようとした者も過去にはたくさんいる。その主張は、粛々と降伏論、パルチザン的抵抗論、非暴力不服従論、逃亡論と様々だが、いずれも非現実的であるとか、特定の価値観(絶対平和主義)を全国民に押し付けるものであるなどという理由で有力な反論を与えられている*6。そうしたこともあって、今ではとりあえず自衛力の暫定的保有は認める者が多い。しかし、外交努力によって将来には非武装を実現するとは言っても、外交に失敗する可能性はいつでも想定できるわけだから、失敗したときどうするのかという反問に対する有力な一般的回答を用意しない限り、問題は全く解決していないことになる。要するに社民党や共産党も含めて多くの論者は問題の先送りという形でのみ理想主義を保持しているわけであり、同時にそれを手段的に用いているわけであるが、それについてはまた後で触れよう。


二つの現実主義的護憲論



大塚のように「武装か、非武装か」という選択を迫るのは子どもの論理だと言うのは、内田樹である*7。内田は、9条と自衛隊の間にある矛盾を積極的に評価しようとする。内田によれば、自衛隊という武力は9条という「封印」とともにあることによって正統性を得ているのであり、その意味で両者は相補的である。

どういうことか。内田の論理をたどれば、こうである。法律はわるいことをさせないためにあり、9条は戦争をさせないためにある。改憲派は憲法に「戦争をしてもよい条件」を書き込もうとしているが、それは刑法に殺人罪とともに「人を殺してもよい条件」を規定するようなものである。ときには人を殺さなければならないことがあるのは事実であるが、刑法には「人を殺してもよい条件」は規定されていない。それは、「人を殺してもよい条件」を定めてしまえば、「人を殺してはいけない」という禁令が無効化されてしまうからである。したがって、我々は「人を殺してはならない」という理念と「人を殺さなければならない場合がある」という現実との両立不可能な要請を同時に引き受け、同時に生きなければならない。どちらかに「すっきり」すればよいというものではない。9条と自衛隊もまた、そのような矛盾した要請であり、9条(「戦争をしてはいけない」)という封印があってこそ止むを得ない場合の自衛(「戦争をしなければならない場合」)に正統性が付与されるという意味で、両者は相補的な存在なのである。

内田はその他にも色々と言っているが、主張の核心は以上に尽くされている。しかし、彼の刑法解釈は間違っていると言わざるを得ない。刑法には「総則」と呼ばれる部分が初めにあり、そこで「正当防衛」などの「犯罪が成立しない条件」が一般的に規定されている。これが殺人罪に適用されることでいわば「人を殺してもよい条件」が導かれる。また、刑法199条自体、読み方によっては「死刑又は無期若しくは五年以上の懲役」と引き換えにであれば「人を殺してもよい」と言っていると解釈することは不可能ではない。したがって、刑法には明示的にではないにせよ「人を殺してもよい条件」が定められていると言える。これに対して、刑法と性質が異なる(総則も罰則規定も無い)憲法においては明示的に「戦争をしてもよい条件」を定める必要があると考えることは、是非はともかく一つの立場として有り得る。

刑法の例が不適切であることから明らかなのは、例外条件(「人を殺してもよい条件」)の規定は必ずしも一般規定(「人を殺してはならない」)の無効化を意味しないということである。つまり、「戦争をしてもよい条件」を9条に新たに明記したとしても、「戦争をしてはならない」という一般的禁令が完全に無効化するとは限らない。刑法において「人を殺してもよい条件」と「人を殺してはならない」という禁令が両立しているように、憲法においても「戦争をしてもよい条件」と「戦争をしてはならない」という禁令は両立し得ないわけではない。そして、現実に両者は解釈改憲によって両立してきた。9条のそもそもの画期的意義は、「戦争をしてはいけない」という一般的禁令に留まらず、戦力不保持を定めることによって現実に戦争ができる能力自体を封じ、いかなる例外条件も認めない絶対的禁令として現れた点にある。それが自衛力の保持を禁止していないと解釈された時点で、絶対的禁令は例外条件を許容する一般的禁令に変化したのである。したがって、実際には、内田の言う「戦争をしてもよい条件」は既に定められていると考えるのが自然である。

ところが、総則によって例外条件がある程度明示的に定められている刑法と異なり、9条においてはあくまで解釈によって「戦争をしてもよい条件」が定められているために、解釈変更によっていくらでもその条件を拡張できるのではないかという不安が広がっている。度重なる解釈によって、いわば封印が弱まっているのではないか、そのうち実質的に封印が破られるのではないか、という不安である。こうした不安に基づき、「新たな封印」として明示的な自衛隊への制約を求める立場に対して、従来の封印の意味ばかりを強調する内田の主張がどれほど説得的であるかは疑問である。

他方、長谷部恭男は、自衛のための実力組織を保持することを否定しない「穏和な平和主義」を採るべきことを主張する。その上で長谷部は、「従来の政府解釈で認められている自衛のための実力の保持を明記しようというだけであれば」、その改正には「何の意味もない」から9条の改正は必要ないと言う*8。長谷部によれば、9条は「ある問題に対する答えを一義的に定める準則」ではなく、「答えをある特定の方向へと導く力として働くにとどまる原理」であるから、自衛力の保持は憲法には抵触しない*9。9条が「準則」だとすれば、それは絶対平和主義を「唯一の「善き生き方」である」として「特定の価値観を全国民に押しつけるものと考えざるをえない」から、立憲主義の立場からは9条は「原理」として解するほかない、とされる*10

しかし、9条を(特にその2項を)「準則」でないと解するのは無理があるように思われる。少なくともその条項は当初「準則」として受け取られたし、現在でも国民の大半は「準則」として受け取っている。そして、仮に9条を「準則」だと解釈しても、それは国家に対して戦争放棄・戦力不保持・交戦権否認を求めているだけであり、各国民に対して絶対平和主義的に振る舞うことを要求しているわけではないから、特定の価値観を押し付けるものだとまでは言えないであろう。歴史的に見れば、9条はもともと「準則」として解されていたのが、解釈改憲によって「原理」と見做されるようになってきたと考えるのがもっとも自然である。とすれば、長谷部は内容面においては9条改正支持派であるとも言える。彼が改正に反対するのは、基本的には、既に解釈によって認められていることを明記するだけであれば無意味であるという、形式面における理由に基づくにすぎない。

このような長谷部の形式的護憲論は、自衛隊の野放図な海外派兵に対する新たな歯止めが必要とする議論に対して、十分な説得力を持ち得るだろうか。むしろ長谷部自身によって「いったん譲歩を始めると、そもそも憲法の文言に格別の根拠がない以上、踏みとどまるべき適切な地点はどこにもない」と言われているように*11、「原理」としての9条解釈などでは、更なる解釈変更によってますます歯止めとしての9条が切り崩されていくのではないか、という不安は払拭され難いように思われる。


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*1:以下、大塚の主張は全て、大塚英志[2005]『憲法力』角川書店、第10章による。



*4:高橋哲哉・斎藤貴男編[2006]『憲法が変わっても戦争にならないと思っている人のための本』日本評論社、36頁。

*5:同、74頁。

*6:長谷部恭男[2004]『憲法と平和を問いなおす』ちくま新書、第8章。

*7:以下、内田の主張は全て、内田樹ほか[2006]『9条どうでしょう』毎日新聞社、による。

*8:長谷部恭男[2006]『憲法とは何か』岩波新書、20頁。

*9:長谷部[2004]171頁。

*10:長谷部[2006]71‐72頁。

*11:長谷部[2004]163頁。



Wednesday, January 17, 2007

平和を諦める


平和主義とは何か



俗に言う「平和主義」は平和を愛好する思想という意味で使われているが、厳密な意味での平和主義はそれとは異なる。平和主義はまず「絶対平和主義」と「相対平和主義」の二つに分けられる。前者は、戦争や軍隊の保持をいかなる条件においても許容せず、その廃絶を目指す思想であり、後者は、戦争や軍隊の保持という選択肢を排除しないが、それに出来る限り制限をかけようとするものである。ただし、私は、後者は平和主義の名に値しないと考える。国家の廃絶を目指さないが、それに出来る限り制限をかけようとする思想を「相対アナーキズム」とは言わない。ここでは、絶対平和主義のみを平和主義の名に値する思想として扱う。

さて、平和主義の定義についてさらに詳しく検討しておこう。一般的意味での「平和」とは戦争が無い状態を指す。したがって、この定義に基づく「平和主義」は、戦争とその手段および原因になり得る軍隊の廃絶を目指す。しかし、平和学の第一人者であるヨハン・ガルトゥングは、そうした従来の「平和」概念を「消極的平和」であるとして、戦争に限らない暴力の欠如=「積極的平和」こそが平和主義の真の目標であると説く*1

このように暴力の欠如が「平和」であると定義し直すならば、「平和主義」の意味自体も変わってくる。ガルトゥングによれば、平和を妨げているのは戦争などの「直接的暴力」だけでなく、あらゆる不自由や不平等を生み出すような体制や状況を含む「構造的暴力」もまた、平和に対立する暴力の一種である。ガルトゥングの主張に対しては、「平和」の意味範囲を無際限に広げすぎるなどの批判も向けられているが、ひとまずこうした考え方があることを視野に入れると、(絶対)平和主義にも二種類あることがわかる。すなわち、戦争および軍隊の廃絶を目指す「狭義の平和主義」と、構造的暴力も含んだ暴力すべての廃絶を目指す「広義の平和主義」である。


平和主義の不可能性



いずれの平和主義も、端的に言って不可能か、それに限りなく近い理想を掲げている。このような極めて高い理想を掲げることには、いくつかの難点がある。解りやすいところでは、あまりに高い理想を掲げることで、現実にたいする冷静な認識を曇らせやすい、という点が挙げられる。ただし、理想を語るか否かに関わらず現実認識が曇る危険性は常に誰にでも有り得る以上、この点はそれほど重大とは言えない。

続いて挙げられるのは、理想として掲げられるユートピア自体が、欺瞞を含んだ擬似ユートピアである危険性が高く、仮にそれが実現されても理想の実現とは言い難い、という点である。例えば、狭義の平和主義にとっての理想でありユートピアであるのは、戦争と軍隊の廃絶された世界である。しかし、実際には軍隊が廃絶されたからといって、真に問題であるはずの暴力が廃絶されるわけではない。軍隊の廃絶された世界でも法が存在し、警察が存在するだろう。軍隊が無い代わりに、超強力な警察と国境警備隊が整備されるとすれば、狭義の平和主義の意味はよくわからない。この点は、国家の廃絶にばかり気を払って、非国家的アクターの暴力を軽視するアナーキズムと共通する問題である。

戦争を本当に無くそうと思ったら世界政府をつくる必要があるが、その際、世界警察は非常に強力な暴力を保持しなければならないだろう。それは、狭義の平和を守るために必要とされる暴力だ。別に世界政府でなくとも、国連の集団安全保障体制がこの暴力に対応する。戦争を無くそうとするのが、人死にを、暴力を無くそうという目的に基づいているとすれば、戦争が無くなりさえすればユートピアの実現だと言うのは、他の暴力を無視した欺瞞でしかない。軍隊の廃絶ばかりにこだわるのは、フェティシズムでしかない。狭義の平和主義が目指す理想は、きわめて限定的な暴力撤廃でしかなく、とても「理想」と言えるものではない。このように考えてくると、高い理想を掲げることの問題性と併せて、狭義の平和主義が平和主義の名に値しない立場であることも明らかになる。

高い理想を掲げることがもたらす問題の三点目は、掲げられる「理想」自体が恣意的に設定されることの不可避性である。つまり、それが誰にとっての「理想」であり、どこまでの範囲に及んで、どの程度の水準を目指すものなのか、ということが暗黙の内に、誰かによって恣意的に定められることが避け難い、ということである。例えば、広義の平和主義のように、あらゆる暴力の廃絶を理想に掲げるとしよう。しかし、「暴力を廃絶すべし」という規範的命令が適用される範囲はどこまでなのか。多くの人々は、暗黙の内にそれを人間相互に限定してしまうが、その根拠は自明ではない。なぜ他の動物への、植物への、その他の物質への暴力行使は許されるのか。

また、そもそも広義の平和主義が廃絶を目指す「暴力」とは、どこまでの範囲を意味するのか。物理的暴力だけを指すとすれば、あまりにも狭い。身体だけでなく、その内面にまで干渉・介入してくる行為は、紛れもなく暴力的でる。しかし、そうすると私達は暴力から逃れられなくなる。あらゆる教育は暴力的であるし、誰かと会話をすることも暴力的要素を含んでいる。さらに現代思想の水準からすると、そもそも私達が必ずその内部に生まれてくる言語体系そのものが、本来固有な存在であるはずの他者を代替可能な次元に還元してしまうという意味で常に暴力的なのである*2

このような身も蓋もない言い方に対しては反発したくなるかもしれないが、間違いなく私達は暴力の内部で生まれ育っているし、その外部には決して出られない。ここにおいて、あらゆる暴力の廃絶という究極的な理想がどういう状況を指しているのか、誰も想像すらできないはずである。それにもかかわらず、私達が何らかの「理想」として「暴力の廃絶」を設定できるということは、極めて恣意的にその意味範囲と目標程度を限定している、ということを意味する。そして、そうであるとすれば、その「理想」「暴力」「廃絶」の定義という行為こそが、紛れもなく暴力的ではなかろうか。少なくとも、限定された目標範囲から外された存在にとってはそうであろう。残念なことに、「暴力の廃絶」という理想を掲げること自体が、何処かの誰か/何かに対しての暴力行使に違いないのである。

そうであるとすれば、もはや、最初に「理想」を設定するアプローチを採ることは出来ない。何らかの遠い目標を置くこと自体を批判しているのではない。「全き理想」というものを設定することが不可能である、と言っているのだ。「全き理想」のつもりで設定したものが必然的に何かの限定=暴力を既に含んでいる、という事実をひとたび認識した上で仮に何らかの「理想」(目標)を設定しようとすれば、その基礎に暴力行使があることを引き受けざるを得ない。すると、「理想」の前には必ず、かき消せない暴力という現実認識が先行することとなり、理想先行型アプローチは採ろうとしても採れないことになる。したがって、この点を自覚しない安易な理想語りは批判されなければならない。理想を語るためには、現実の引き受けが必要不可欠なのだ。

「全き理想」としてのあらゆる暴力の廃絶は不可能であるということは、広義の平和主義が破綻せざるを得ないことを意味する。広義の平和主義が暴力の定義や平和を享受すべき対象をある範囲に限定した瞬間、そこで語られるユートピアは狭義の平和主義と同様、擬似ユートピアへと堕する。平和主義の名に値するのは、あらゆる暴力の廃絶を掲げる最広義の平和主義だけである。そして、この意味での平和主義とは不可能性の追求であり、最初から破綻を約束されている。すなわち、平和主義の名に値する平和主義とは、現実には不可能な立場を意味するのである。

あらゆる暴力の廃絶が不可能である以上、平和を望む者は自らが行使する暴力について明確に認識し、それを引き受けなければならない。それは、まず最広義の平和、最も究極的な意味での平和を諦めるということを意味する。平和を望む者は、まず究極的な平和を諦めなければならないのだ。


*1:ヨハン・ガルトゥング[1991]『構造的暴力と平和』中央大学出版部。

*2:この点について一冊で理解することは難しいが、とりあえず高橋哲哉[2003]『デリダ』講談社や高田明典[2006]『世界をよくする現代思想入門』ちくま新書などから入って、デリダやウィトゲンシュタインその他について学ぶのがよかろう。




Monday, January 15, 2007

司法論ノート―利害関係者司法に向けて


刑罰の意味と役割



刑罰とは、社会秩序の維持を目的として、定められた「罪」が行われることを予防するために設定されているコストである。したがって、刑罰は基本的に目的刑でしか有り得ない。事前に罪とそれに応じた刑罰が定められている(罪刑法定主義)という前提の下で、合理的選択の結果として違法行為を為した者は、定められたコスト=刑罰を負わなければならない。多くの場合、既定の社会秩序に対する違反行為は社会道徳に対する違背行為と意味的に大きく重なり合って受容されるため、刑罰の執行は社会的には道徳的非難として受け取られる。こうした刑罰の社会的意味は、道徳的規律として副次的に社会秩序の維持に資するため、秩序維持を目的とする上では、刑罰=コストという認識が普及するよりも都合がよい。したがって、刑罰=道徳的非難という社会的意味の理論的外皮としてのみ(だが半永久的に)、応報刑論が維持され得る。だが、刑罰の中心的意味が違法行為についての強制的な対価徴収にあることを忘れてはならない。

しかしながら、ここで注意すべきは、コストとベネフィットを冷静かつ合理的に判断し、その判断に基づいた選択の結果として違法行為を為す者は、実際には多くないという点である。現実には、家庭環境、生育過程、教育程度、経済状況、交友関係、健康状態、精神状態など、さまざまな社会・経済的および個人的要因、また間接的および直接的要因、あるいはそれらの絡み合いによって、合理的判断が不可能または困難であったり、選択の範囲や時間的余裕が著しく限定されていたりすることから違法行為を為す者がほとんどである。したがって、裁判および処罰の過程においては、これらの個別事情(情状)に応じて既定のコストを削減した上で、削減したコストの代替として、再犯予防を目的とした教育・訓練・実践・治療などのフォローおよびケアを刑務に並行させなくてはならない。個別事情を考慮せずに違法行為だけに着目してコスト=刑罰を与えることは、非現実的な合理的人間像に基づいて個人だけに犯罪の責任を帰することを意味し、到底受け入れ難い措置である。


近代的刑事司法と被害者保護



現在、犯罪被害者の保護を訴える運動が盛り上がりを見せているが、その背景には、これまでは犯罪者の人権ばかりが守られて被害者の人権が無視されてきた、という認識が存在している。確かに、近代刑法は犯罪者の人権を保護することを大きな目的として、国家の権力濫用を防止するようにつくられている。それは、近代国家および近代刑法の成立過程に由来している。近代国家は、復讐その他の自力救済を禁じ、個人や社会に本来備わっている紛争解決能力の大部分を取り上げた。このため、処罰権力が国家に一元化され、犯罪は被害者に対する犯罪ではなく、国家に対する犯罪として扱われるようになった。 その結果として、刑事司法のプロセスは基本的に国家と犯罪者の二者関係となり、被害者が占める地位は極めて限定的なものに留まってきたのである。

犯罪被害者の地位向上は確かに重要な課題であるが、こうした歴史的経緯を踏まえると、現在の被害者保護運動の危うさも指摘せずにはいられない。近代的な刑事司法プロセスにおいて被害者が疎外されるのは、紛争解決能力を国家に一元化した結果であった。そこでは、加害者もまた受動的な立場であるにすぎないのであって、紛争解決に主体的に関わることができる地位は与えられていない。つまり、従来の刑事司法プロセスにおいては、当該紛争の当事者である被害者と加害者、その他の利害関係者は、当該紛争解決についての主体的な関与を制約されているのである。

そうであれば、犯罪被害者の地位向上は本来、国家から当該紛争の利害関係者全体に紛争解決能力を部分的に取り戻そうとする文脈の中に位置づけられるべきである。だが、現在の被害者保護運動の多くは、他の利害関係者から切り離す形で被害者だけに特別の地位を与えようとしているように見える。それは、被害者に対する国家による「保護」を求めようという発想に由来するものである。こうした発想においては、依然として国家が独占的な紛争解決主体であり続けるのであって、紛争解決プロセスにおける利害関係者の役割を極めて限定的なものに留める従来的刑事司法の性格は何ら変わらないことになる。

例えば、被害者が法廷で被告に直接質問ができるようになったとしても、両者の上位に位置する裁判官が独占的に裁きを下す構造は何も変わっていない。それは確かに被害者の地位向上ではあるかもしれないが、刑事司法の基本構造を組み替えるほどの変革ではない。もちろん多くの被害者保護運動は刑事司法のパラダイム転換など求めていないだろう。だが、国家による「保護」という形で被害者の地位向上を進めることが生みかねない危険は、十分に自覚しておく必要がある。実名報道/匿名報道の問題において顕著に見られるように、現在、国家の裁量余地が個人の「保護」を名目として拡大する傾向にある。被害者の地位向上の方法を国家による「保護」に求めることは、紛争解決能力の国家による独占を強めることで、国家の権力拡大傾向に棹を差しかねないのである。それゆえ、被害者の地位向上という課題は、国家中心の刑事司法から利害関係者中心の刑事司法への部分的移行という全体の文脈の中で達成されるべきものとして、再認識されなければならない。


修復的司法と利害関係者司法



利害関係者中心の刑事司法を建設するための基礎となるのが、修復的司法という考え方である。ハワード・ゼアによれば、従来の「応報的司法」においては刑罰が国と加害者との勝負によって決定されたのに対して、修復的司法においては、犯罪は人々の関係の侵害と把握され、被害者・加害者・地域社会の主体的関与による関係の修復が目指される*1。修復的司法プロセスにおいては、犯罪による侵害の修復という観点から、被害者と加害者が主体的な紛争解決主体と見做される。被害者と加害者は、地域社会や第三者の協力の下で継続的な対話を行い、被害の回復と加害者の更生を実現するための方法についての合意形成が図られる。

利害関係者中心の刑事司法は、基本的にこうした修復的司法の延長線上に構想することができる。加害者と対話などしたくないし会いたくもないと考える被害者の意思は尊重されるべきであるから、応報的司法を完全に放棄することはできない。だが、被害者をはじめとする利害関係者の希望によって選択可能な形で、応報的司法プロセスと並行する修復的司法プロセスの制度設計を行っていく必要がある。被害者と加害者の対話を重視する修復的司法は、被害者に「赦し」を強いるのではないかと危惧されることがあるが、応報的司法と修復的司法を制度的に並立させることによって、被害者に対する「赦しの圧力」が強まることを回避することができるだろう。修復的司法は応報的司法と対置されて語られるが、むしろ紛争解決主体としての被害者と加害者のニーズを重視する点を修復的司法の本旨と捉えて、応報的司法と狭義の修復的司法を並立させる制度の全体を広義の修復的司法として再定義することも可能に思われる。ただ、それでは「修復」を重視する修復的司法固有の特徴が希薄化されてしまうので、並立的制度の全体はやはり利害関係者司法とでもしておくのが妥当であろう。

修復的司法に対しては、加害者の更生など「被害者側にとってみればどうでもいいこと」であり、「加害者と被害者を同列にしている」ことは疑問である、といった批判が向けられている*2。だが、最初に述べたように、刑事司法は本来的に社会全体の秩序維持を目的としているのであって、道徳的非難や応報、被害者感情の慰撫といった役割を担うものではない。したがって、司法制度上、被害者だけを特別扱いすることはできない。それは、利害関係者を中心に据える刑事司法プロセスにおいても同様である。利害関係者司法は主要な利害関係者全てのニーズを重視するもので、被害者だけを特別視することがあってはならない。加害者と「「ああだこうだ」のやりとりは一切したくない」、「伝えたいことを伝えさえすればそれでいい」という被害者の感情は自然なものであろう*3。だが、相手に何かを伝えたいならば相手から何かを受け取らねばならず、加害者から何も受け取りたくないのであれば応報的司法を選択するしかない。修復的司法は加害者と被害者をはじめから「同列」に扱うものとして存在しているのだから、加害者に対する一方的な断罪や非難が修復的司法では困難であるというのは、欲求実現の方法の求め先を誤っただけであって、修復的司法に対する批判としては筋違いと言わざるを得ない。

さて、応報的司法プロセスは公的機関の運営によるほかないが、修復的司法プロセスは、法的枠組みの中で公的機関の協力を得ながら、民間主導で運用していくべきである。利害関係者間の対話を仲介するメディエーションや、利害関係者のケアといった役割を担うのは、非国家的主体の方が適している。利害関係者を中心に据えた司法プロセスの設計は、国家の役割を必要最低限に限定することを求める。そこでは基本的に、被害者や加害者は「保護」されるのではなく、紛争解決に「関与」していくのである(ただし、利害関係者自身の意思を尊重する本旨から、積極的な関与が強いられるようなことは避けられなければならない)。

なお、ゼアをはじめとする修復的司法の唱道者は、地域社会の役割を強調するが、現在の日本において地域社会の役割に大きな期待を寄せるのは非現実的であるし、地域社会の介入が望ましくない場合もある。紛争解決能力を国家から社会へと部分的に取り戻していくことは重要であるが、単純に中間団体や地域社会の影響力を増すことで個人への前近代的介入を招くようなことがあってはならない。国家と社会、双方からの個人への影響力を適度に制限するためには、利害関係者中心の司法プロセスの運営を、法的に権限と役割を明確化された専門的なメディエーション機関に委ねる必要がある。利害関係者司法の実現のためには、こうしたメディエーション機関やメディエーターの整備・養成が急務である。



*1:ハワード・ゼア[2003]『修復的司法とは何か』新泉社。

*2:藤井誠二編[2006]『少年犯罪被害者家族』中公新書ラクレ、116頁。

*3:同、117頁。




Saturday, January 13, 2007

所有論ノート―道徳的感覚の視点から


所有権意識と道徳的感覚



所有権という概念はどのようにして生まれるのだろうか。加藤雅信によれば、農耕社会・遊牧社会・狩猟採集社会に関わらず、食料生産極大化の社会的要請から資本投下の対象に対する資本投下者の所有権が観念される。ただ、これはあくまでも社会的に見た所有権概念発生についての話であって、個体的な所有権意識の問題は別にある。

個体的な所有権意識と言うとき、法的に保障された所有権を尊重しなければならないという意識以前に、事物の所有/占有についての道徳的な感覚が存在している。われわれは、そうした感覚に基づいて、あらゆる所有/占有の道徳的正当性についての判断を日常的に行っている。そうした感覚の根拠は、功績、必要、慣行、事実状態など様々な種類があり、規範的議論において主張される所有権の正当化根拠と重なる部分が多い。

例えば、ジョン・ロックの所有権論では、誰にも所有されていない無主の財を発見・開拓し、そこに労働によって価値を付加・創造することが所有権発生の根拠とされている。ロック的所有権論を受け継ぐマリー・ロスバードによれば、市場において獲得した財なども、財の所有権交換プロセスを遡っていけば最終的には労働による価値創造に行き着くのであり、そこで根拠付けられた所有権を譲渡・交換している限り、市場システム・私有財産制度は肯定される。数多の批判にもかかわらず、こうしたタイプの所有権正当化の議論が未だに多くの人々に支持されているのは、功績(価値創造)に応じて権利を得るという原理が、多くの人々の道徳的感覚に強く訴えかける力を保っているからである。


道徳的感覚と環境的要因



こうした道徳感覚は、外部環境の変化によって左右されることがある。卑近な事例を用いて説明しよう。

電車の中で平気で食事をしたり、化粧をしたり、熟睡したりする人々は、しばしば批判の的となる。 批判の内容は、公共空間に身を置きながら、まるで自分の部屋に居るかのように振る舞うことはみっともない、というものである。だが、そうした批判において想定されている「電車」とは、概ね横並び型座席の車両のみを指しており、新幹線などの前向き型座席の車両や地方路線に多いボックス型座席の車両を考慮に入れていない。

同じ電車であるにもかかわらず、前向き型座席やボックス型座席で食事を摂る人に対する批判はあまり聞いたことがない。それは、これらの座席と横並び型座席の間に何らかの相違が存在するからに違いない。おそらく最大の相違は、空間の切り取り方であろう。横並び型座席における車両内は、空いていれば端から端を見渡せるほど、仕切りのないオープンな空間である。それに対して前向き型座席とボックス型座席は、座席の構造上、相対的に車両内が見渡しにくく、空間が一定の閉鎖性、個別性を有している。それゆえ、より公開性が顕著な横並び型座席においては、前向き型座席やボックス型座席におけるよりも一層「公共的」な振る舞いを求められる傾向が生まれやすいのであろう。ここでは明白に、外部環境の変化が道徳的感覚の働きに影響を及ぼしている。


個体的所有権意識と環境的要因



環境的要因が道徳的感覚に影響を及ぼすということは、個体的な所有権意識も外部環境と無縁ではいられないということであり、さらに言えば、個体的所有権意識を社会的な所有権概念からそれ程画然と切り離して考えることはできないということでもあろう。

この点をよく示すのは、所有/占有についての道徳的感覚における必要という要素である。例えば飲食店や公共交通機関において、空席が目立つ場合には、二人掛けや四人掛けの席を一人で使っていたとしても、誰もそれをとがめることはない。だが、混雑している場合に必要以上に座席を占拠するならば、周囲の人々は強い非難感情を抱くであろう。つまり、空席が目立つ場合、すなわち財が豊富に存在している場合には、財を必要以上に占有することは特に不当であるとは見做されないが、混雑している場合、すなわち財が希少な場合には、財を必要以上に占有することは不当であると見做される。

同様に混雑している場合でも、必要以上の占有が存在せず、単純に満席であるのならば、座ることのできない人が非難感情を抱くことはないだろう。必要に見合った占有の帰結として財が不足するのであれば、特定の人を道徳的に非難することは難しい。つまり、事実的占有は、実際に占有の必要や使用の実績が示されることによって、道徳的な正当性を承認されやすくなる。逆に、たとえ法的所有権に基づくであっても、その占有に必要や使用実績が認められない場合、道徳的には不当であると見做されることがある。「使っていないんだから、もらってもいいじゃないか」という日常的感覚は、必要という要素に基づく道徳的感覚である。

このような道徳的感覚が抱かれるということは、個体的な所有権意識を社会全体の必要や生産性および効率性と切り離して考えることはできないということである。


Friday, January 12, 2007

個人は社会の前に存在する


個体の唯一性



他人の「固有性」は自明でないから、初対面で相手の固有性を把握することはできないと考えられるのが一般的である。ここで言う「固有性」とは、その人がその人である理由であり、代替可能な社会的属性などに還元されないその人固有の「かけがえのない」部分のことである。それは時に「この私性 thisness」と呼ばれることもある。

だが、改めて考えてみると、初対面の人についても、テレビで見た人についても、ある種の固有性は自明である。ある人を見たとき、私は彼が彼でしかなく、他の何者でもないということを瞬時に認識する。その時点では私は彼の「かけがえのなさ」がどの部分にあるのか知らないし、私にとっての彼は決して「かけがえのない」存在ではないが、彼という存在が根本的に代替不可能であることを私は既に知っている。

そこで私が彼に見出す固有性とは、実は全く抽象的かつ形式的なレベルのものであり、一般的に考えられている「この私性」とは異なる。「この私性」としての固有性は、ある個体から社会的属性をすべて取り除いた後に残る何かを意味している。多くの人はこのような部分が自分にも他人にもどこかに存在しているはずだと思っているが、実際のところそんな部分が存在しているのかどうかは不明である。もしかしたら、無いかもしれない。人間は誰でも、代替可能な社会的属性と社会的諸関係の集合体でしかないかもしれない。その場合には個体に「この私性」を見出すことはできないが、抽象的かつ形式的な固有性は変わらず見出すことができる。

抽象的かつ形式的な固有性とは、何であるのか。一旦、整理しよう。個体とは、社会的属性および社会的諸関係と、「この私性」としての固有性とが総合された存在である。後者は前者に還元されないとされるが、その存在自体は証明が困難である。だが、「この私性」としての固有性が存在するか否かにかかわらず、抽象的かつ形式的な固有性は必ず存在する。それは、社会的属性および社会的諸関係と「この私性」を総合した存在としての個体に宿る、端的な「唯一性」のことである。個体が個体として存在するということだけで見出すことができる「単独性」のことである*1

個体は、ただ個体として存在しているだけで他の何者でもなく、代替不可能である。この意味での固有性は、初対面であろうがテレビで見ただけであろうが、あらゆる個体に見出すことができる。それは個体が個体であるだけで有する固有性であるから、社会的属性や社会的諸関係に還元できない「この私性」を有しているかどうかとは無関係である。個体はただ個体であるというだけで、唯一無二の固有存在なのである。


場としての個体



ところで、ある人の決定とは、現実には様々な社会的文脈や人間関係の中で決定されたことであるから、孤立的な「自己決定」なんてそもそも不可能である、と言われることがある*2。私たちは個人である前に家族の一員であり、大小さまざまな規模の共同体の一員であって、家族の一員である「前に」個人であるような人間はこの世に存在しない、と。そもそも自我は先行して存在する共同体内部の諸関係に応じて獲得されるもので、それ以前の私には「私」という概念が存在しないのであるから、社会の前にまず個人が存在するかのように考えることは誤りである、と。

しかしながら、こうした立論にはあまり説得力がない。たとえ社会的諸関係が決定に多大な影響を与えたとしても、個人が最終的に判断を下す限りにおいては、それはあくまでも自己決定である。自己像は確かに多くの部分を他者に拠っているが、決して他者によって形成されるわけではない。他者や社会が大きな影響を及ぼすとしても、それを統合して自己像を形成していくのはあくまで自己でしかない。社会的諸関係というものは、個人の「唯一性」の中に組み込まれる形でしか個人に影響を及ぼすことができないのであって、個人の上位や外部にあるものでもなければ、個人に先行して存在しうるものでもない。

人間には自我概念が獲得される以前の時期が存在するとか、われわれは独立した個的生命体である以前には両親の一部であったとか、こうしたことは事実である。だが、そうした成長段階についての議論と区別される個人の存立そのものについての議論においては、個人が特に家族その他の共同体に属しなくても存立しうる独立した個体であって、個人である前に何かでなくてはならないことはないことを認めなくてはならない。

自我概念の成長段階から他者や社会的諸関係が大いに影響を及ぼしているのだから、個人が最初から主体的に様々な関係を取り結んでいくという構図は神話に過ぎない、という主張は正しい。だが、それは「まず個人が存在する」という出発点まで否定してよいことを意味しない。自我概念が未発達な段階であっても、その個人が存在しないわけではない。なるほど、赤ん坊に自我概念は無かった。だが、赤ん坊は最初からいた。なるほど、彼の自我は社会的に構築されてきた。だが、社会内における自らの位置を認識し、それに応じて自我を形成・再編してきたのは、彼自身以外の何者でもない。

社会的諸関係によって構築されるとしても、構築の場としての個人は先に存在しなければならない。個人は確かに社会的諸関係なくしては有り得ないが、それと同時に社会的諸関係も個人なくしては有り得ない。社会的諸関係による個人への規定と拘束は、前提となる個人がまず存在していなければ始まらない。したがって、「まず個人が存在する」という事実認識は、決して譲ることができないのである。


*1:「単独性」については以下を参照。柄谷行人[1994]『探究Ⅱ』講談社学術文庫。柄谷行人[1999]『ヒューモアトしての唯物論』講談社学術文庫。

*2:例えば、小松美彦[2004]『自己決定権は幻想である』洋泉社新書。




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