Saturday, March 29, 2008

かかわりあいの政治学1――自己決定論をさかのぼる


  自由とは自分のことについての自由であり、自己決定とは自分のことについての決定である。そうでないと意味をなさない。また、他人が自分のことを決めてよいとなったら、むしろ反対の意味になってしまう。
  さて、障害の有無であれ性別であれ、ある性質の子を生まないという決定は、何についての決定か。それは自分のことについての決定ではない。どんな子なら生まれてよいか、どんな子は生まれてこれないかという、他者についての決定である。胎児を殺してならない存在=人だと主張する中絶反対論者の立場に立たなくとも、このことは言える。それは、他者のあり方の決定であり、どんな他者を自らが、そして社会が迎えるかという決定である。自由の尊重とは他者のあり方を勝手に決めてならないということだ。ならば、この行いはむしろ自由の尊重と反対の行いである。
  むろん親は子に強く関係する。しかし、だから子のことをなんでも親が決めてよいとは言えない。また子のことを親が決める権利がいくらかあるとして、少なくともそれを親の自己決定権だとは言わない。こうして、自らの自由、自己決定という論理から、出生前診断・選択的中絶を正当と言うことはできない。

立岩真也「自己決定という言葉が誤用されている」

http://www.arsvi.com/0w/ts02/2004023.htm

「自分のこと」とは何か。自分に関係することだろう。「親は子に強く関係する」。だから、「ある性質の子を生まないという決定」が親にとって「自分のことについての決定ではない」と言うことは、論理的に間違っている。親にとって、「子のこと」の多くは「自分のこと」だ。もちろん、それが「自分のことについての決定」と見做し得るからといって、「子のことをなんでも親が決めてよいとは言えない」。むしろここで問題にすべきなのは、何が「自分のこと」なのかを決するのは「関係」であると一旦捉えたならば、「自分のこと」と「他人のこと」を明確に分けることが困難になるということである。

「子のことを親が決める権利がいくらかあるとして、少なくともそれを親の自己決定権だとは言わない」という文言は、酷く混乱がある。それを親の自己決定権と呼ぶかどうかは、権利の根拠に拠る。そこで想定されている「子のこと」に対して親が強い関係を持っているために親に一定の権利が付与されるのであれば、それはそこでの「子のこと」が親にとって(重大な)「自分のこと」であると認められたからであろう。それを親の自己決定権と呼ばずに何と呼ぶのか。これが、対象となる「子のこと」に対する親の関係とは全く別の根拠(例えば社会一般の利益)に基づいて付与された権利なのであれば、話は別である。

そもそも、決定が下されるべき対象が「自分のこと」であるかどうかと、それゆえに決定する権利を獲得できるかどうかは、別の水準の問題である。「自分のこと」については自分で決定できるべきだというイデオロギーは、事実として広範な支持を得ているに過ぎず、在り得る規範的立場の一つに過ぎない。さらに言えば、「自分のこと」=「自分に関係のあること」は、「関係」の種類や程度によって多様な分布をしており、その中のどれを重視して決定権を付与すべき理由に選ぶのかは、政治的な問題である。選択的中絶を行うかどうかを悩んでいる夫婦の横を通りすがった第三者が、「その子をおろすかどうかは私にとって酷く重要な関心事なので、私に決定させるべきだ」とのたまって「自己決定権」を主張しても、論理的には不整合なところが無い。

別に、センシティブな議論をまぜっかえすつもりは無い。ただ、安易に自己決定権を振りかざしたり、「自己決定権は幻想だ」などと噴き上がってみたりする前に、自己決定権がどういう理路と前提によって成立しているのかを、遡って考えてみるべきだろう。私はそこに「関係」の問題があると見た。「関係」を持ち出すからといって、自己決定は不可能だなどと短慮する輩と一緒にしないで欲しい。自我は社会的に構成されているとか、個人は常に他者との結び付きや社会的文脈に拘束されざるを得ないなどと言ったところで、それは無価値な言い草だ(So What?)。そんな当たり前の前提を持ち出して誰かを批判したつもりになっている様は、本当にくだらないと思う。

個人は社会の中で作り上げられていくとしても、それでも個人として在るのだ。それ以上でもそれ以下でもない。そして、個人として在るにもかかわらず、「関係」は「自分」のみに留まらず、他者にも伸びて行く。他者を絡め取り、時に叩き付ける。そこに問題を嗅ぎ取るべきだろう。中絶について言えば、決定に対して最も重大な「関係」を有しているのは、子だろうと思う。そして、次に(産む)親。そういう認識は、動かせないだろう。そして、自己決定の原理からすれば、最も決定に対する影響力を有するべきである子の方は、意思すら示すべくもない。つまり彼らには、誰に決定権を与えるべきかという政治闘争における武器となる「権力」が、決定的に不足している。最終的に決定に対する最大の影響力行使(決定権)を認めるべき主体が親に定められがちなのは、この闘争の結果である。

政治だからどう、ということではない。ただ事実として、政治なのだ。それだけのこと。それだけのことについて、「関係」という観点が持ち得る意味の大きさが、今まで見過ごされてきたように思う。いや、「関係」や「かかわり」という言葉を用いて考えた人は掃いて捨てるほど居たが、そのどれもが私の好みや問題意識とは遠い―あまりにも遠い―道徳的に過ぎる所作だった。そういう先達とは違う仕方で、考えてみたい。それは本当に雑然とした形でいいから、「関係」という概念をテコにして、身の回りの問題を考えてみたい。敢えて名付けるなら、「かかわりあいの政治学」――。何だか陳腐だけれども、ひとまずこれをタイトルとして仮置きしておこう*1


*1:シリーズとして継続する自信は到底無い。余裕があれば続き(といっても別のテーマで)書ければいいな。


Tuesday, March 4, 2008

事実が必要とされない理由


死刑や治安悪化言説についても当てはまる現代に共通の問題として、「必ずしも事実が求められていない」ということが挙げられる。求められているのは事実よりも物語であることが多い。死刑の犯罪抑止力を証明する根拠が無いことをいくら説いても、死刑存置派が減ることはなく、治安の悪化を示すデータが見当たらないことをいくら訴えても、治安悪化神話の支配的影響力は衰えない。

もちろん、「事実」を指し示す言説があまり行き渡っていないという面もあるだろう。マスコミの影響力を「主犯」として最も問題視する立場の人々は、その点を強調する。だが、森達也が各所で指摘しているように、マスコミがあるステレオタイプの報道図式を採用し続けるということは、何だかんだ言いつつもそれを求める層、マスコミの紋切型報道を支える土壌が確実に存在しているということである。そういう土壌こそ、マスコミによって耕されたのかもしれない。だが、どちらが先かは一概に言えるものではなく、各種の「神話」は、マスコミによる報道とそれを求め・受容する側との相互作用の中で作られてきたと考えるべきだろう。

そうした循環構造を見ずに一方向的な関係を想定するのは、単に楽観的に過ぎると言うだけではなく、怠惰であると言うべきだろう。マスコミ批判だけを繰り返して事足れりとしている人は(そういう人がいるとしてだが)、置き去りにしておけばいい。私は全くフォローしていないが、「ニセ科学」批判においても、単に「ニセ科学」を批判して「正しい情報」を提示するに留まらず、「ニセ科学」的なものを受容する層の分析に歩を進めていることと思う(きっと、そうだろう)。「事実」なり「正しい情報」なりを提供するだけではなく、土壌を分析しつつ、そこに手を入れていかなければ目的を達成できそうにないという点では、経済政策や社会政策についても同様のはずだ。

それで、「事実が求められていない」件だが、その理由を端的に言えば、今がポストモダンだからである。最近は安直に理解したポストモダン論を一括りに罵倒するような言論が増えているように見えるが、その一因は多分、ポストモダン論に新鮮味が失われたからだろう。なぜ新鮮味が失われたかと言えば、それはポストモダンはもう「来るべき時代」ではなく、今・この時間になってしまったから、目の前にある当然の現実のままになってしまったから、だ。よく勘違いしている人がいるが、「ポストモダン」論と「ポストモダニズム」は違う(「グローバリゼーション」論と「グローバリズム」が違うように)*1。ポストモダン的事態を肯定するか否かにかかわらず、ポストモダンとしての現代を認識することはできる。もちろん、「現代は、過去と比べて「ポストモダン」と呼べるだけの差異を持っていない」という異論はあり得るが、その次元で争うのはここでは止めておこう。「今がポストモダンだ」ということにしておかないと*2、ここで語りたいことが語りにくいから。

語りたいのは、必ずしも事実が求められない理由であり、その理由は「全てが相対化されてしまっているから」ということに尽きる。別に再帰的近代化などと言わずとも、何もかもが相対化され尽くしているのは現代に生きていればわかる。ここ10~15年に生まれた世代にとっては、生まれたときから世界は世界そのものだろう。自分の居る位置を認識するに当たっての視野が、特定の街や国に限られていない。積極的に求めなくても、あらゆる地域・あらゆる分野についての情報が大量に飛び込んでくる。加えて、ビデオカメラやらデジカメやら写メールやらブログやらで、絶えず自己参照・自己言及が強いられる。これでは、相対化を避けろと言う方が無理だろう。居ながらにして、様々に異なったライフスタイルや価値観が自然と目に入る。その時、何かの伝統やイデオロギーを純真素朴に信じる方が難しい。でも、だからこそ、信じられる「何か」が強く欲求される*3。その「何か」に代入されるのが、各種の物語である*4

事実ではなぜダメなのか? 事実は相対化されてしまうからである。我こそは「事実」を知っていると主張する人々は、異口同音にマスコミを「偏っている」として批判するものだ。色んな立場から様々な情報(それも専門的な)が行き交うと、私たちは何を信じていいか分からない。鈴木(謙介)さんが、事実をめぐる論争は結局「情報戦」と化して、一種、不毛なことになる(うろ覚え)みたいなことをどこかで述べていたのも、ここからしてみると理解できる。人は信じたいものを信じる。何を信じていいのか分からないのなら、なおさらである。でも、何のために信じるのか? それはアイデンティティを形作るためだ。全てが相対化されざるを得ない状況の中で、アイデンティティの断片を相互に繋ぎ止めるために、信じられる物語が必要とされるのである*5

「必ずしも事実が求められない」ような事態がもたらされるにあたって、学問の側から一役買った立場を具体的に挙げれば、構築主義/構成主義だろう。その役割が顕著だったのは歴史認識問題で、歴史にとって重要なのは客観的な「事実」なのか、主観的ないし多元的な「物語」なのかについて、左右入り乱れての論争が展開された(ことと思う)。一方で右派(の一部)が、「日本民族」とか「天皇」などといったことは所詮フィクションかもしれないけれども、国民が団結し、国家が統合を得るためには、必要な物語なのだと主張する。他方で左派(の一部)が、たとえ客観的な証拠とは食い違う部分があったとしても、個々の人間の「語り」にはその人にとっての真実が含まれており、それは本人のアイデンティティを構成するとともに、歴史を多元化して豊かにするものだと主張する。「物語」ではない(より)客観的な歴史を希求する立場の人々は、両者から挟撃されることになった。

北田暁大などは、それが右派によっても使われるようになったことを以て、構築主義/構成主義に一つの限界を見出しているようだが、そうした戦略論的・情況論的問題意識からのみ「限界」を突きつけていいものかは疑問である*6。構築主義/構成主義が一つの学問的立場である以上、政治的立場にかかわらずそれを応用できるのは至極当然のことだ。構築主義/構成主義が限界に行き当たったと見做すなら、その理由はむしろ、ポストモダン論と並行して(あるいはその一員として)機能した末に、目の前に在る当たり前のポストモダン=現代に還元されてしまったからだと考えた方がいい。だって、「全てのものは社会的に構築/構成されている」なんて、言われて/言ってみると、とんでもなく当たり前のことじゃないか?*7 So what? 重要なのはその先だろう。そこで「それなら何でもアリだっ!」となって極端な物語を提示したり支持したりするようになるのか、そうでないのか*8

どうも結論が見えて来ないが、現代の社会学者が「アイデンティティ」(と「コミュニケーション」)ばかりを採り上げて論じるのには、それなりの必然性がある。「社会」学が本来「関係」の学だということもあるが、情報の送り手だけではなく受け手固有の問題も重視されなければならない以上、いわゆる「正しい情報」そのものはあくまで前提であって、議論の主旨や目的にはなり得ないのだ(全ての場合がそうだとは言えないにしても)。じゃあ事実が必要とされていないなら、「より良い」物語を普及させればいいのか、それとも、物語云々に拘泥するのを止めて物理的な水準でコントロールを働かせればいいのか、あるいはもっと別の方法があるのか、そういうことは今の私には言えない。ただ、(これは国家論について考えていった場合にも行き着くところだが)例えば宮台真司が「幸福論」とか言い出したり、東浩紀が独特の国家観を示したりすることには、ある種の蓋然性があるということを、あまり見くびらない方がいい*9


*1:東浩紀はこの区別に注意を促していた。

*2:本当は時期/時代の名前は何でもいいのだが。

*3:以下も参照。スピリチュアル的なものとモノ・サピエンス的なもの http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20070429/1177836073

*4:ジョック・ヤングは、差異や多様性が称揚されるとともに商品としてパッケージ化され、消費されることを通じて、差異は「本質化」され、アイデンティティとして強調されるようになると指摘している。ジョック・ヤング『排除型社会』洛北出版、2007年、153頁、263頁以下。

*5:代表的な「ニセ科学」とされる血液型言説が、少なくない日本人にとって自己像をまとめ上げるための手段の一つとして用いられているのは示唆的である。

*6:もちろん、北田がこうした観点からのみ限界を見出しているとは思わないが。

*7:もちろん、数の上では、そう考えない人の方が今でも多いのかもしれないけど。

*8:そう言えば昔、「居直り」について論じたことがあったな。

*9:あぁ、こういうふうに鈴木、北田、宮台、東、とその筋ではキャッチ―な名前ばかり出して話すせいで、ある角度から偏見を持って見られるんだろうな。


死刑の現在性



浜井浩一「死刑という「情緒」の前に データでみる日本社会の実情」

芹沢一也「犯罪季評 ホラーハウス社会を読むcase8 変容する権力と死刑の関係」


既に先月号になったが、『論座』2008年3月号から、死刑についての論考二本。
この内、芹沢の連載では、近代以降の死刑の変質を、①矯正を主たる目的とする近代的刑罰観の確立とともに、死刑の存在役割が「矯正不可能な者」を消去する作業に移行していったこと、②それゆえに死刑の執行が公開の場から閉ざされた密室への「退行」を余儀なくされたことによって*1、特色付けている。これは丸々フーコーの描いた図式を用いたもので、以下で採り上げたような宮崎哲哉の発言の補足として読まれるといいだろう。


被害者及び死刑

http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20071206/p1


矯正不可能だから殺そう、と言うのは、まさしく「死の中に廃棄する」ような権力の働きである。前のエントリで私は罰を「二度と罪を犯さないようにする」ための処置であると定義≒解釈し、そうした前提に基づいて死刑を自己破壊的な刑罰と断じたが*2、これに対しては次のような反論が可能かもしれない。曰く、矯正不可能な犯罪者(異常者)に対しては、二度と罪を犯さないようにすることが「できない」のであって、仮にこれを死刑とせずに収監して矯正の対象としても、矯正が完了してはじめて釈放され得るという論理に従えば、彼は結局死ぬまで釈放されないだろう(実質的終身刑)。「結果」が同じならば、最初から死刑にしてしまって、被害者感情の慰撫に多少なりとも役立てた方が、随分とマシなのではないか?

このタイプの反論は、私が指摘したような死刑の特質(刑罰としての非論理性)を認めた上で成り立ち得る、一種プラグマティックな死刑擁護論だ。重要なのは論理の一貫性よりも別なところに在る、という立場においては素朴な被害者感情慰撫論と共通だが、いわゆる「情緒」へのコミットの度合いでは少し違う角度からの立論として見做せる。これに対する有効な再反論があり得るだろうか。よく解らない。そもそも論理の問題を一旦棚上げにしてしまう(と言うより煮詰め尽くしてしまう)と、後はもう選択の問題、決断の問題、意思の問題に尽きてしまうようにも思える。森達也の暫定的結論も、「私は~したくない」だった。しかし、意思の問題に還元してしまう手前には、未だ考えてみる必要と余地が残されているようにも、思える、ので、どうしたらいいのかな…、というところで留まっているんだが。


*1:しかし、看過できない例外として、アメリカはどうなる?

*2:死刑の非論理性、または「罪を憎んで人を憎まず」の(不)可能性について http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20080224/p1


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