Wednesday, March 30, 2011

政治的なものと公共的なもの――権力と期待


政治的であることと非政治的であること



われわれの出発点を何処に置こう。「個人的なことは政治的である!」――よろしい。では、個人的なことの全てが政治的であるか? あるいは然り、あるいは否。「全てがそう、とは言わないまでも、全てが政治的にはなりうる」――結構。区別は本質的ではない。とはいえ、非政治的であるという意味で純粋個人的なものごともまた、「ありうる」わけだ。

ところで、非政治的なものごとは、政治学の対象たりうるか? たりえない――ならば、政治学は純粋個人的(私秘的?)なものごとに無関心である。そう言ってよい。政治学が個人的なものごとに関心を払うのは、そこに何らかの形で政治性――ある対象を非政治的と断ずる振る舞いも含めたそれ――が宿っていると認める限りである。

ところで個人的であること、――これは私的なことと言い換えて差し支えなかろうか? 両者の重なりは明らかでない・が、ここでは同じと見なそう。私的なものごとは、その全てが政治的というわけではないにせよ、すべからく政治的たりうる。例えば労働、例えば消費、例えば交際、例えば家庭、例えば生殖、例えば死、――あまねく生命・生活の全てが*1

したがって、政治学は親密圏を問題にしうる。しかしそれはふつう、私的であることには留まらない何らかの意味がその問題に伴っている限りにおいて、扱われる。私的なeveryday talkが政治的なものとして現れるのは*2、例えばジェンダー正義という価値規準が、個人的な人間関係の中に結び付けられているからであろう。純粋に私的な領域においては、個人間の同意に基づく限り、非対称的な人間関係も不当なものとはされないはずである――自由主義。それが問題とされるのは、ジェンダーや人種・エスニシティ、階級・階層などといった集団的に妥当する何らかの共通性(差異)が観点として曳き込まれ、そこに単なる個別の人間関係には留まらない意味が見出されるからである。

この曳き込みは、外在的な価値観の導入による私的自由への不当な介入を意味するのでは、必ずしもない。個人の自由意志の尊重それ自体が「人間」としての共通性に基づいて認められるものである以上、私的な自由はその範囲を自己完結的に決定できる性質を、本来的に持たないのである。その範囲は、政治的な対抗関係の産物でしかない(繰り返し:私的なものごとは、すべからく政治的たりうる)。


私的であることと公共的であること



さて、政治的であるということは、公共的であるということか?――あるいは然り、あるいは否。私的であることと公共的であることの、区別は本質的でない(非歴史的には妥当しない*3)・のみならず排他的でもない。私的なものごとがある時に公共的なものごとに変わるだけでなく、私的であるままに、それと同時に公共的意味を持つ、というようなことはありうる(首相の靖国参拝などは、その例にならないだろうか)。

これは公私二分論の解体ではなく、相対化である。ある対象を私的と断ずることは、それが非公共的であることを直ちに意味するわけではない。公私の別を定める、そのこともまた政治的振る舞いである。ある対象を純粋に私的と見なし、公共的意味を認めないこと、そこにも同様の政治性が宿る。私的なものごとはみな、政治的たりうる。私的なものごとがすべからく公共的たりうるかは、分からない(おそらく答えは否定的である)。ただし、公共的たりえないものごとでも、政治的ではありうる*4


公共的であることと政治的であること



かくして政治は、公私の全領域に可能的領野を拡げる。政治的であることは、公共的であることと合致しない。「しかし、その区別は本質的か?」――然り。政治的であることと公共的であることは、本質的に異なる。前者は権力に、後者は期待の層に属する。そして後者は、前者によって大きく規定される関係にある。

公共的(public)であることが政治的であることに規定されるとは、どういうことか。「もしそうなら、統治権力が対応すべき範囲が「公共」である、などと定義することなども可能なわけか?」――然り。「それは倒錯か、でなければ官治主義を前提とした「古い公共」の考え方ではないのか? 本来は公共的な範囲が先に考えられ、そこに権力が対応するはずではないか」――そうではない。政府が対応すべき範囲が予め決まっているのではない。権力の凝集が先にあり、その正統化は後から来るのだ。現に在る権力を根拠付け、その統治ないし支配に同意を取り付けるために、すべきとされる仕事が事後的にこしらえられる。

反論がある。例えば、街に火が回る。その火を消すことは、誰にとっても重要なことであり、明らかに公共的であると思えるだろう。もしこの街に制度化された統治権力が存在していなかったとしても、消火のような公共的事業に協力して従事する過程を経て権力が凝集され、結果として統治機構が整備されるようなことは想定できるのではないか。ならば、やはり政治に先立つ公共性が存在するということではないのか。

そうではない。公共的であるということは、「みんな」に関わっている(common)ということである。公共的な仕事とは、「みんな」のニーズを満たすべく対応することを指す。確かに街に火が回るとき、誰しもこれは「みんな」に関わることだと思うだろう。だが、そこで観念される「みんな」とは誰だ? どこまでを指す? 奴隷や被差別民は入るのか。家畜は入るかもしれないが、野良犬はどうだろう。高い壁で仕切られた向こうの貧民街で大火が起きたなら、富裕民は(たとえ壁向こうの全てが焼き尽くされようとも)自分の問題とは見ないかもしれない。公共性を規定する「みんな」の観念は、どこまでをその範囲に含めるかという、至って政治的な意識/無意識に左右されているのである。公共的であることは、かくのごとく、政治的であることに規定される。

無論、公共性には開かれている(open)という性質も含意されることがあるのは知っている*5。だが、私たちが「みんな」を観念する際に無意識的にであれ何らか特定の範囲のみが想定される以上、公共性は常に一定程度、閉じた共同性としての性格も帯びる。あらゆる方向に開かれているという意味での純粋公共性(無限の公共性)は、不可能である。公共性が政治に先立つことはない。むしろ、こう考えるべきなのである。開かれてあることは、自然に達成されることではなく作為の産物である。したがって、公共性とはあくまでも現実に対する批判を含んだ、規範的理念なのである、と*6

「政治が公共性に先立つことはいいとしよう。だが「権力の凝集が先にあり、その正統化は後から来る」とは言い過ぎではないか?」――それは検討に値する。確かに火事の例では、その政治性はともかくとして、「みんな」=「公共」の認知が権力の凝集に先立っているように思える。ならば、公共的な仕事の存在は、権力とは独立に観念できるのではないか。

ここで問題となるのは、迫り来る炎というイベントに遭遇することで、それに共通して(common)関わる「みんな」が観念された際に、そのことが即「公共public」の所在を捉えるに至っているかどうかである――解りにくかろう。前言を翻すようであるが、考えてみるべきなのだ。「みんな」に関わっていることの全てを、私たちは公共的な問題として扱うか? 恋愛や性愛は「みんな」に共通して関わる事柄であるが、危険や暴力を回避可能な限りで、その活動は純粋に私的な自由に任せられる。デートやらキスやらセックスやらの仕方が決まっているわけではない。睡眠や排泄も同様であろう。つまり、commonであることが、直ちにpublicであることを意味するわけではない。私的自由の範囲を決定するべく曳き込まれる共通性(差異)は、選択的に決定されるのである。

火を消そうとする人々は、まずそれが自らの利害であるからするわけであり、初めは個別の私的利害が遍在しているに過ぎない。その共通性の認識は、確かにcommonとしての「みんな」の存在を観念させるだろう。そして、予め組織化が為されていないところで組織立った消火活動が行われるとすれば、それは、そうすることが互いにとって共通の利益になると感得した人々によって自発的に為されたのである。この共通利益の感得には、声の大きな人が号令をかけ、逃げようとした人々を半ば無理矢理に従わせながら消火活動を行う場合も含まれる。たとえ脅迫によるものでも、逃げようとした人の側で、殴られたり後で罵られたりするよりも従った方がマシである(利益になる)という判断が働いたのならば、それは権力作用を媒介にした共通利益の感得なのである。この共通利益の自発的な感得メカニズムをconventionと呼ぶなら、それは権力を凝集・組織するメカニズムである。

ここから生起した権力機構は消火という特定の目的のために事実上成立したものであり、その駆動原理は特定の私的利害に基づいている。つまり、私的利益の集積とは一応区別される、全体としての公益(「みんな」のニーズ充足)に基づくものではない。publicとしての公共の把握が現われるのは、凝集した権力が目的達成後に残存して組織・機構が常態化するときに、それが奉仕すべき目的と範囲を規範的に枠付けるための想定として持ち出される時点においてである。公共的なものは、事実上の権力に対する「期待」として権力に割り当てられる形で出現するのであり、権力の凝集に先立って権力から独立した形で観念されることはない。

定義を修正しよう。公共的であるpublicということは、「みんな」に関わっている(common)・がゆえに、「みんな」で考えるべき、ということである。公共的な決定とは、何らかの政治的手続きを経て正統性を獲得(「みんな」の同意を調達)しなければならないとされる決定を意味する。それゆえ、公共の定義が「政府が対応すべき範囲」とされることがあるのは、理にかなっている。公共的な仕事には個々の自発的な活動によって行えるものもあるが、その多くは公共的な決定を経て組織された形態によって行われる。権力の制度化が進んだ領域では、公共的な決定の多くは統治機構を通じて行なわれることになるが、社会内の多様な個人・集団が政治的手続きを経ない形で事実上の影響力を保持している場合には、公共的な決定機会は統治機構外にも遍在していることになる。

つまり、政府以外に権力を保持する主体が存在しているなら、そうした主体にも「みんな」のニーズへの対応が求められるのは自然である。そうして公共的な仕事を担うべきとされた非政府的主体の意思決定は、政治的正統化手続きを要する範囲に含められることになる*7。したがって、公共的であることが政治的であることに規定されるという見方は、公=官の対応関係を疑わない「古い公共」の名残りなどではなく、むしろ事実上の権力が存在するところに公共領域を見出すことを通じて、公共性の担い手を多様化する「新しい公共」に結び付くと言えよう。


政治的なものの可能性――現代における



おさらいをしよう。公共的であるということは、政治的正統化を必要とするということだ。なぜ政治的正統化を必要とするのか、ではない。政治的正統化を必要とするものが公共なのである。公共的決定が「何らかの政治的手続きを経て正統性を獲得(「みんな」の同意を調達)しなければならない」とされるとき、いかなる「政治的手続き」が採られるのか、同意がいかにして調達される(と見なされる)のかは、ここでは問題ではない。公共的であることが幾重にも政治的であることに規定されていることが問題なのだ。

すなわち、公共的なものごとには政治的な手続きを経て正統性を付与せねばならないが、そもそも何が公共的であるのか(何を政治的手続きに付すべきか)の判断は、それ自体政治的に決定されるしかない。それゆえ、何を公共的と見なすべきであり、その判断がいかにして下されているかという次元と、公共的と見なされるものごとが(統治機構の内外を問わず)現にいかにして決定されているのかという次元において、公共的なものをめぐる議論は政治的なものの考察へと還元されることになるだろう*8

もちろん、公共的な仕事(権力に期待される・権力が為すべき仕事)の全てが、政治的手続きを経なければすることができない、ということではない。市場を通じて人々のニーズに応える企業は、サービスの対価を求める点で政府とは異なるが、その事業に内在ないし外在する形で、直接の対価を求めずにサービスを提供することを通じて公共的仕事を為すことができる(私的であると同時に公共的な行為)。しかしそれは、あくまでも企業の自発的な行為によることであり、そしてそうであることが、「古い公共」が前提とする公私二分論や、公=官の対応関係の帰結であった。

だが、グローバルな相互依存や情報化、科学技術の専門分化などを背景に、政府に限らない企業や団体が広範かつ大規模な影響力を社会に対して有していると前提するなら、そしてそのような力を持つ主体には当然に公共的な役割が期待され、その意思決定は政治的正統化手続きに付されるとの論理を適用するなら、その帰結として、もはやいかなる企業・団体も(あるいは家族、個人も?)、その決定過程を外部に開くべしとの要請をはねつけることはできないのである。

言うまでもなく、このことは「新しい公共」万歳、などと単純に諸手を挙げて喜べる事態ではない。このようにして政治的なものの遍在とその公共的意味を追認することが、社会内の(事実上の)公共的決定契機を既存のフォーマルな政治過程に乗せていくことを意味するのであれば、それは国家権力の介入可能範囲――それは政府の財政規模とは無関係である――を拡大することに繋がる*9。他方で、公=官の対応関係を否定して事実的な権力を公共性の担い手にさせていくことが、非政府的主体が個別日常的に行なっている業務と公共的ニーズへの対応を区別する基準を失わせる*10。全てが政治的でありうることに留まらず、今や全てが公共的であることになってしまうのではないか。私たちは、社会内の全てのものごとについて、いちいち「みんな」で集まって話し合うことをしなければならないのだろうか。

そこで最近一部で見聞きするようになった、「ジャスコの公共性」とでも呼べるものについて考えてみたい。要すれば、都市郊外や地方のショッピング・モールが地域のインフラとして老若男女誰にでも欠かせない存在となっている、ということを指摘する議論であり、その象徴としてジャスコが挙げられているのだと思う。従来、こうしたショッピング・モールのような大型店舗は商店街など地域の経済を破壊したり、画一的な造りのために地域文化を失わせたりするものとして、批判的に採り上げられることが多かったところを、そう単純に割り切れるものではない(画一的なように見えて実際には地域ごとに土着化(?)しているのではないか、など)として価値転換を迫っているのが議論の核心だと考えられる(詳しくは知らない)。

大型店舗の郊外への出店が地域経済・社会に悪影響を与えると一概に言えるかについては慎重な判断が必要だが、一般に言って近代的な「システム」(ここでは行政および市場のように規格化された形でサービスを提供する制度やメカニズムと受け取って欲しい)が生活に深く浸透するにしたがって、前近代的な地縁的・血縁的結合は崩れていくと考えられる。行政にせよ市場にせよ、そこには独自の論理(合理性)があり、その外部にある人間関係や情動は基本的に(そのままの形では)顧慮されない。しかし、実は近代的なシステムの円滑な駆動を、その外部にある前/非近代的な条件が支えている場合があり(この点は「社会関係資本」などの枠組みで指摘されている)、システム化による前近代性の破壊はシステム自体の基盤を掘り崩すような逆機能を生むことがある。

近年の司法制度の運用を採り上げながらこの点を指摘しているのが、和田仁孝である*11。和田によれば、本来近代法のシステムは「事件を素材として,法的問題を構成し,これに法的処理を施すという,ある意味で自己言及的なシステム」であり、被害の回復や真相の究明、正義の実現などを期待する人々の感覚からして「部分的な応答性しか有していない」。そのような部分的応答性しか持たない司法制度がまがりなりにも受容されてきたのは、「家族,地域共同体を初め,他のとりわけ共同性を残した社会的諸制度」が、法システムが満たせない様々なニーズを「吸収」することで、人々の期待が「あるいは手当てされ,あるいは抑圧されることで,ともかくも処理されていた」からである。それゆえ、「近代法の優越によって,共同的社会関係が払拭され,法的権利・義務・責任によってのみ規律される法主体的関係性がそれに置き換わっていく」にしたがって、「法はその機能的偏頗性,虚構性を覆い隠してくれた協働者を失うことになり,自身の限界を露呈していくことになる」。和田によれば、現在の裁判過程に感情が横溢しているのは、こうした基盤喪失によって法システムが本来応答を予定していなかったニーズが直接司法に向けられた結果なのである*12

和田の指摘を、法システムに限らない近代的システム全般の問題として受け取ることは、不自然ではないはずである。政治・行政や市場もまた、法と同様の「自己言及的なシステム」としての性格を持っている*13。「ジャスコの公共性」もこの文脈で捉え返すことはできないか。つまり、システム化による前近代的共同性の破壊が、システムへの従来予定されていなかった期待を生起させている、という意味で。

ショッピング・モールなどの大型店舗に限らず、コンビニなども同様であるが、そもそもこれらは市場原理によって地元の事情とは無関係に出店・撤退を自在に為し得るはずである。だが、そのような純粋な市場原理を貫けるのはシステム外の共同性(ないしは代替的な他のシステムの機能?)を人々が頼れる限りにおいてであろう。システム化の進行によって基盤が壊れ、一旦ジャスコやセブンイレブンが人々にとって枢要なインフラとなれば、これら企業の公共的役割が肥大化していくことは避けられない。

こうした公共性は、市場システム内部の目的合理性からすれば不純物でしかないが、システムが孤立して存在することはできない以上、対応策は(1)システム外の共同性を再建する(ないし他のシステムの機能を拡大する?)か、(2)目的自体を広げるしかない。(1)が可能ならば試みればいいが、近代化に逆行しない形でそれを為すには工夫がいるだろう。どう工夫すべきかは、私には分からない。そこで(2)であるが、これはすなわち、企業の公共性の担い手としての性格を正面から認めるということであり、前述の公共性の全面化の問題と結び付いている。

企業の目的を広げることはありうるとしても、目的を無限にすることはできない。資源は限られているからである。したがって目的は単純に拡大されるのではなく、ステークホルダーを加えた「政治的手続き」の中で再定義されるべきなのである。事実的な権力体の目的をステークホルダーによって再定義していくことは、公共性の全面化を避け、公共の範囲を適宜区切っていくために必要なことであり、どこまでの範囲でどこまでの役割を果たすべきなのかを限定することで事業の予測可能性を確保できるという意味で、企業などの非政府的主体にとっても有益である。

和田は「法専門的な法廷を維持しようとする法律家」と個別的に解釈された法廷像を現出させようとする被害者家族との間で、「「場」の構築をめぐって様々な抵抗と抑圧の試み」が行われていることを描いているが、これは、裁判の目的をめぐる対抗的・敵対的な形での再定義であると解せる。政治や経済のシステムにおいて、非政府的主体の事業目的を再定義する「政治的手続き」はどのようなものでありうるか明らかでないが、それは法システムについて和田が描くような対抗的形態でもありうるであろうし、何らかの制度化を目指すのであれば、より協調的な形態も考えねばならないだろう。

ステークホルダーを非政府的主体も含めたガバナンスの担い手であると考えるなら、公共publicのステークホルダーによる再定義は、いわばガバナンスの自己限定であり、現代における政治的なものの可能性を現実の中に秩序化していく作業である。



*1:そのような具体的なイシューの中に現れるミクロな政治を集めても、単一のマクロな権力構造を描けるわけではないということを重視する文脈から、存在するのは小さな政治だけだと言われることがある(川崎修「〈政治〉と「政治」」『「政治的なるもの」の行方』岩波書店、2010年、1章を参照)。だが、確かに「棟梁的な」、つまり社会全体を統括するような営みとしての(大きな)政治が存在しないとしても、個別のイシューに共通して見出されるミクロな「政治」性が存在するのであれば、なお「政治的なるもの」について語る一般理論の存在意義はあるように思う。

*2:田村哲樹「親密圏における熟議/対話の可能性」田村哲樹(編)『語る――熟議/対話の政治学』(「政治の発見」5巻)、風行社、2010年、2章。

*3:杉田敦は、経済(「家政」)や宗教(「教会政治」)が私的=非政治的な領域とされたのは、近代以降の歴史的規定であったことを指摘している。杉田敦「政治と境界線」『境界線の政治学』岩波書店、2005年、1章。

*4:例えば恋人や夫婦間で主導権を握るべく争われるゲームは、対立と解決の過程を含む点で、政治的性格を有しているであろう。市場取引もまた、資本を権力資源とした問題解決メカニズムとして捉えれば、政治と見なせる。

*5:齋藤純一『公共性』岩波書店、2000年。

*6:おそらくはこのことが、公共的なものと政治的なものを人々に混同させる要因であり、また、長く「棟梁的な」営みとしての政治(学)を支えてきたアイデンティティの源泉であった。森政稔が、統治性の両義性(権力性)を十分に意識しながらも、なお欠かすことはできないと説く、政治が社会に対して持つ「リフレクシヴな関係」も、この点と無関係ではないはずである(森政稔「〈政治的なもの〉と〈社会的なもの〉」『社会思想史研究』34号、2010年、8-22頁)。「社会の自己反省装置としての政治学」(宇野重規「いま、戦後政治学を読み直す」『UP』461号、2011年、2-7頁)の在り方については、他日を期したい。

*7:公共料金、公共放送、などといった呼称を想起しよう。

*8:なお政治から自立した公共性概念がありうると思うのならば、事実的な権力が、なぜ公共的であろうとするのか、すなわち人々の同意を取り付けることによる正統化の要請に従うのか、ということを考えてみればよい。それはそうすることが権力にとって都合がよいから、つまり正統化を経ずに統治・支配を続けることによる反発・転覆のコストおよびリスクに耐えられるほど強くないから、であろう。それは政治的対抗関係の所産である。

*9:政治の「社会化」と、その結果としての政治権力の再編成については、以下を参照。川崎修「「政治的なるもの」の変容」前掲書、2章。川崎修「「現代思想」と政治学」前掲書、3章。



*12:和田の指摘とは別に、政治の「社会化」=「社会の政治化」の時代における司法制度の決定的重要性はそれとして論じられる必要があるが、私にはその準備がない。

*13:法システムにおける「アトミック」で理性的な法主体は、市場システムにおいては経済主体、いわゆる「合理的経済人」に対応するだろう。


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