Thursday, December 13, 2012

選挙は何も決められない


小林良彰は,著書『政権交代――民主党政権とは何であったのか』(中央公論新社,2012年)のなかで次のように述べる(156-157頁).

 ここで日本の政治の仕組みを振り返ってみると、われわれは「選挙の際に候補者が提示した公約のなかで、有権者が自分の考えに近いものを選び、投票を決定する」ことで「自分たちのことを自分たちで決定する」代議制民主主義が機能すると想定している。こうした代議制民主主義が機能しているのであれば、政治家の行動の一端は、彼らを選んだ有権者の責に帰することになり、機能していないのであれば政治家の責を問わなくてはならない。

そこから小林は,この機能を検証するためとして,2009年衆院選を対象に次の3つの分析を行う(157頁以下).

  • (1)民意負託機能の検証(争点態度投票の有無):
    • 「有権者が候補者の提示した公約のなかで最も自分の考えに近いものを選択し、そうした公約を提示する候補者に投票しているかどうか」
  • (2)代議的機能の検証:
    • 選出された政治家が選挙公約と合致した国会活動をしているのかどうか
  • (3)事後評価機能の検証(業績評価投票の有無):
    • 「有権者が政治家や内閣の業績に基づいて投票行動を行っているかどうか」

(1)について小林は,有権者の投票行動の多くは政党支持・内閣支持や職業などによって決定されており,争点態度投票はほとんど行われていないと指摘する.次に(2)(3)について,選挙公約と国会活動の一致度が次の選挙での得票率に関連していないことから,有権者の投票行動は業績評価によるのではなく,主に候補者の所属政党や経歴によって決定されていると結論する.小林によれば,民主党が大勝した2009年衆院選での有権者の投票行動は,自民党に対する懲罰投票として理解される(166頁).業績評価は政党支持・内閣支持を通じて間接的・限定的に行われているが,政策上の業績に対する直接の評価は見出しにくいとされる.

したがって冒頭に掲げた問いに与えられる答えは,「機能していない」である.

政治家が有権者に約束した公約から離れて国会活動を行って政策を形成しているために、政治的有効性感覚が著しく低くなっており、そのため選挙に際しても、政党政治家が提示した公約を信頼することなく投票を決定し、さらに、実施される政策に対する評価とは乖離して次の政党候補者選択を行っているのが、日本の選挙の実態である。 (172頁)

こうした分析に基づいて小林が提出する処方箋について,ここで扱うことはしない.検討したいのは,投票行動の性格である.

疑問点は主に二つある.まず,候補者の帰属政党が選挙結果の重大な決定要因であるならば,具体的な公約内容や国会活動の吟味がなくとも,政党をラベルとした大まかな意味での争点態度投票(issue voting)や業績評価投票が行われていると言えるのではないか.逆に言えば,そもそも選挙ではその程度のことしかできないのではないか.

いくら個別の政策領域を争点として重視しようとしても,候補者の公約はパッケージとして示されているために,単一の争点だけで選ぶことは難しい.さらに,公約実現は候補者が所属する政党内部での調整次第だと考えられれば,わざわざ政策内容を吟味して投票先を選ぼうとするインセンティブはますます弱くなる.大臣経験者や官僚出身者など,特定の経歴が得票に有利に働くこと(165頁)があるのは,政策の実現可能性が高いと考えられるためだろう.有力政党間で政策的距離が近いと有権者の実質的な選択可能性が乏しくなるという問題(180-182頁)を別にしても,選挙は政策で投票先を選ぶものだという考えが現実に妥当する程度は,極めて限られている.

次に,業績評価投票(retrospective voting)は「将来への期待に動かされて投票行動を決定する」(prospective voting)のではなく「過去の実績という視点から自分の投票行動を決め」ることだとされるが(167頁)、しかしこれらはそれほど明確に分けられるものではない.実績が重視されるのはそれが期待の確からしさ――「きっとやってくれる」――を導くからであろうし,有権者が候補者の経歴を重視するのも,そこに実績のシグナル――「立派な人に違いない」――を見るからであろう.

選挙は有権者の「審判」と言い表されることが多いけれども,回顧的にのみ行われる投票はありえない.有権者にとって,期待形成に動機付けられない業績評価は無意味であり,たとえ過去の業績が悪くても他に期待可能な選択肢がなければ,投票行動を変えることはないだろう.2009年の衆院選で民主党が勝利したのも,単に自民党への懲罰=業績評価のためだけでなく,期待可能な選択肢として民主党が成長していたゆえでもあったはずである(遠藤晶久「業績評価と投票」, 山田真裕/飯田健 (編) 『投票行動研究のフロンティア』おうふう, 2009 年, 7章, 151頁を参照).選挙が過去の実績の判断を有権者に仰ぐものであるという考えも,限定的にしか妥当しない.

選挙にできることは大したことではない.人々の利害をできるだけ的確に政治システム内部に反映させられるような,よりよい選挙のあり方を考えていくことは重要である.だが,もともと選挙にできることは限られているという点を忘れてはならない.「民意」は選挙前や選挙過程を通じてのみ現れるわけではなく,予め確固たる姿形を持っているわけでもない.政治的な代表性や応答性(アカウンタビリティ)が選挙を通じてのみ得られると考えてしまうなら,選挙で勝利した者こそが民意の体現者であり,何をしても許されるということになってしまうだろう.しかし,選挙があるかないかにかかわらず,民意の伝達・反映は絶えず行われねばならないし,応答性も確保されねばならない.

デモクラシーにとって,選挙はごく限られた意味しか持たない.選挙がすべてだと考えるときに忘れられるのは例えば,有権者ではない人々や,何らかの理由で権利を行使できない人々のことである.彼らは選挙に参加できない.しかしそのことは,政治に参加できないことを意味しない.未成年は選挙権を持たない.だが彼らは政治的権利を認められており,自らの意見を世に発信したり,街路を埋め尽くしたりすることはできる.定住外国人には選挙権を与えるべきであろう.だがこの主張は,選挙権がないあいだは彼らの声に耳を傾けなくてもよいということを意味しない.ここでは言及しきれないすべての政治的無能力者にも,代表性と応答性が確保されるよう,模索が為されねばならない.デモクラシーは彼らに開かれており,政治は選挙の外へと無限に延びている.




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