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Friday, December 16, 2016

掲載告知: 「影響を受ける者が決定せよ――ステークホルダー・デモクラシーの規範的正当化」


学会誌投稿論文が公刊されます.書店などに並ぶのはもう少し先かと思いますが,ご関心の向きはご笑覧頂けると幸いです.出版社HPのページはこちらです.


  • 松尾隆佑 [2016] 「影響を受ける者が決定せよ――ステークホルダー・デモクラシーの規範的正当化」『年報政治学』2016(2): 356-375.
    • はじめに
    • 1. 被影響利害原理とその解釈
    • 2. グローバル・ステークホルダー・デモクラシー
    • 3. 批判と擁護
      • 3.1. 適正な包摂は為されるか
      • 3.2. 政治的平等は確保されるか
      • 3.3. 望ましい帰結は導かれるか
    • おわりに

【要旨】 集合的自己決定としてのデモクラシーには、決定の主体たるべきデモスの境界画定という根本的な決定を民主的に行うことの困難が伴う。本稿では、こうした「境界問題」を解決する指針として、決定の影響を被る者によってデモスを構成するべきとする「被影響利害原理」が有力であることを論じ、この原理に基づく「グローバル・ステークホルダー・デモクラシー(GSD)」の構想を検討することで、新たな民主的秩序化の可能性を示す。被影響利害原理の解釈は、1)影響の意味、2)影響の不確定性、3)影響を被る者への発言力の配分、などをめぐって多様でありうるが、GSDは、諸個人の自律を脅かすような影響を蓋然的にもたらす国家的・非国家的な公共権力を、等しい発言力を認められたステークホルダー間の熟議により統御すべきとする立場である。被影響利害原理に基づく場合にもデモスの境界をめぐる争いは避けられず、GSDが主権国家秩序に取って代わりうるわけでもないが、その制度化は従来の法的デモスに加えて、機能的・多元的なデモスを通じた集合的自己決定の回路を新たに整備するものであり、より適正な境界画定を導く構想として規範的に擁護しうる。

ステークホルダー・デモクラシーという立場についての原理的な議論で,以前の記事で触れたように,10月の日本政治学会で報告した内容と姉妹編のような関連性になっています(執筆時期はこちらの論文が先です).あわせてお読み頂けると嬉しいです.

思えば卒論の時から同様の研究テーマに取り組んでいるわけで,そのことを話したある先生に「ずいぶん一貫しているね(珍しい)」といった反応を頂いたことがありますが,一貫している割にこの程度の水準かと思われるかもしれません.ご批判を乞う次第です.


*なお論文の内容とは関係ありませんが,このブログや他に私が運営するサイトについて,更新が滞っていることを心苦しく思っております.来年度中を目途にウェブ上の活動体制を再構築したいと考えておりますので,引き続きよろしくお願いいたします.

Tuesday, May 12, 2015

掲載告知: 「ステークホールディング論の史的展開と批判的再構成」


学会誌投稿論文が刊行されました.下記に目次を掲載しますので,書店で見かけた際にはお手に取って見て頂ければ幸いです.


  • 松尾隆佑 [2015] 「ステークホールディング論の史的展開と批判的再構成――普遍主義的な資産ベース福祉によるシティズンシップ保障の構想」『政治思想研究』15: 366-395.
    • 一 はじめに――社会的包摂・シティズンシップ保障・普遍主義福祉
    • 二 史的展開
      • 1 ステークホルダー資本主義
      • 2 ステークホルダー・グラント
      • 3 財産所有デモクラシー
    • 三 批判的再構成
      • 1 ステークホールディング論の過去と未来
      • 2 理念的側面――民主的連帯・集合的義務・自律保護
        • (1)連帯の理由――互恵性から民主的連帯へ
        • (2)果たされるべき義務――その集合的性質
        • (3)自律の保護――多元的な政治社会におけるステークホルダーの地位
      • 3 制度的側面――普遍主義的な資産ベース福祉を中心とする複合的保障
    • 四 おわりに――再び、「居場所」と「出番」のある社会へ

    国家と圏域の政治思想 (政治思想研究)

収録号は学会HPで目次が確認できるほか,数年後には全体ファイルが公開されます.また,将来的にはJ-Stageで論文単位のファイルも公開されるものと思います.学会誌という性格もあり,抜き刷りは非会員でお世話になった方を中心にお配りする予定です.

論文の内容は,2013年8月に東京法哲学研究会で行った報告「ステークホールディングの理論的再構成――福祉ガバナンスの規律を中心に」を修正したものです.研究会にご出席頂いた方々には,この場を借りて深謝申し上げます.

さらに遡ると,元々は2008年に提出した修士論文でわずかに言及したステークホルダー資本主義やステークホルダー・グラントの議論を深掘りしつつ拡張したという成り立ちがあります.査読を通るまでに時間がかかったことも含め,現時点での情勢に照らしてどうかと考えるところがなくはありません.

また,限られた字数でさまざまな論点に触れており,われながら無茶な論文だなぁとも感じますが,ひとまず世に出すことができて良かったと今は思っています.

ご笑覧・ご批判を乞う次第です.

Wednesday, May 21, 2014

ステークホルダー・デモクラシーに何ができるか


[※本記事は,『αシノドス』vol. 142(2014年2月15日配信)掲載の原稿に基づくものであり,刊行版とは一部形式が異なります.PDF版は,こちらからDLできます.]


1. はじめに――利益政治は擁護できるか?

 市民の政治参加が唱道されるとき、しばしば槍玉に挙げられるのは、特定の利害集団や限られた「既得権益者」である。その顕著な例は、中高年に牛耳られた日本社会は若者が投票に行かなければ変わらないとか、産官学が一体となった「原子力ムラ」の岩盤を打ち砕くにはデモが有効であるなどといった言説に見られる。また、社会科学に基づく専門的知見から立案された有望な政策が思うように実現しないときにも、農協や労働組合といった利益集団が「抵抗勢力」として名指され、その反対を押さえ込む「リーダーシップ」や「突破力」が渇望される。いずれの場合も、敵視されているのは政策過程に巣食う利害関係者=ステークホルダー(stakeholder)であり(注1)、彼らを富ませる利益政治(interest politics)である。

 利益政治はお嫌いだろうか。ある政治学者によれば、「社会保障や教育など、国民全体に公平に恩恵を及ぼす政策に取り組むことは、利益政治とは呼ばれない」。「ここでいう利益は、特定の地域や集団に対して差別的に配分されるものであり、補助金や税の減免措置、公共事業など裁量的に運用されるものが利益政治の対象となる」(注2)。利益政治が唾棄される理由の一つは、利益が社会内の特定の部分集団へと「差別的に配分される」ことの「不公平さ」の看取にある。「やつらだけズルい」というわけである。

 ならば、自分も恩恵に与かることで、その不満は解消することになろう。同じ学者は、「国民の現実的利益や幸福を増進することこそ政治の使命と考える利益政治が、広い範囲の国民から支持を得てきたことも事実である」と付け加えることを忘れなかった。利益政治に対する攻撃の多くは、利益分配そのものの拒否ではなく、分配の仕方への批判なのであって、別なる利益政治の希求を意味している。

 利益政治そのものの拒否は困難である。「国民全体に公平に恩恵を及ぼす政策」なるものがありうるかをここで問うつもりはないが、社会保障や教育、あるいは外交・防衛分野の政策にしても、その受益と負担は一様ではありえないから、「不公平さ」は看取されるだろう。熟議(deliberation)を通じた各人の選好(preference)の変容を重視する立場は、私的な利害関心に動機づけられた選好であっても、誰もが受容しうるような公共的理由(public reason)による正当化が試みられるべきだと説く。だが、何が公共的であるかについて合意に達することは難しい。

 この政策はわれわれの誰もが受容しうると言われるとき、その「われわれ」の範囲の妥当性を問わないわけにはいかない。特定の国民だけを差別的に配慮し、その国益(national interest)なるものを追求する態度も、国境を越えた正義(global justice)の実現を目指す立場からは批判されうる。利益政治は部分集団ばかりを富ませるとして疎まれるが、対立の存在を前提とした暫定的な紛争解決の営為としての政治は、本来的に部分性を免れえない。特定の部分集団を「既得権益者」や「抵抗勢力」と名指して批判している者は、批判対象とは対立する利害関心を抱えた、別なる部分集団の一員であるにすぎない。

 より多くの人々により多くの利益が行き渡る政策の実現を目指すなかで、相対的少数のステークホルダーが障害として現れてくることはあるだろう。だが、少数派であれば直ちに排除してよいことになるのだろうか。例えば私たちがある日突然難病を患い、これまで存在も知らなかった国の難病患者支援制度に対して、切迫した利害関心を持つようになる可能性はいつでもある。そのとき、相対的少数の「既得権益者」として指弾されることをもっともだと思うだろうか。少数派が持つ重大な利害関心を多数派の無関心によって圧殺することは、どこまで望ましいだろうか。

 私たちは、ある政策争点のステークホルダーとなることを随意的に選択できるのではない。ステークホルダーになってしまうのである。自らの属する社会について、「こうあってほしい/ほしくない」とか、「こうすべきだ/すべきでない」などといった何らかの利害関心(interest)が形成され、政治を通じたその実現を望むようになるとき、私たちは、多少なりともステークホルダーとして現れることになる。ステークホルダーの政策過程からの排除が意味するのは、市民の政治からの全面撤退にほかならない。


2. なぜステークホルダーなのか? ――ポスト政治の政治主体

 政治を担う主体としての市民一人一人をステークホルダーとして捉え直すことは、一見新奇な、あるいは牽強付会な説に映るかもしれない。だが、権力の正統化手続きとしての民主政治が、権力を行使する治者と権力を行使される被治者との同一性を要請するとすれば、権力から影響を及ぼされるがゆえに利害関心を持つステークホルダーが権力行使のあり方を統制する、集合的な「自己決定」の過程こそ民主政治の本義であるとの理解に、不自然なところはない。

 このような民主政治の再解釈は、社会内のあらゆる政治的決定を各ステークホルダーの合意に基づかせようとする立場として現れる。ステークホルダー・デモクラシー(stakeholder democracy: SHD)の名で呼ばれるこの立場は、未だ理論化の途上にあるものの、徐々に人々の関心を集めつつある。近年になってSHDが注目され始めている背景としては、政治の「脱領域化de-territorialization」や「周辺化marginalization」、さらには「脱政治化depoliticization」の傾向を指摘しうる(注3)。

 ますますグローバルな相互依存を深める現代の世界では、組織・集団の公私や規模を問わず、その決定に伴う不確実なリスクは、法的な境界線を越えて広範囲に拡散しうる。民主政治は決定権力の影響下におかれる被治者=デモス(demos)による支配を旨とするが、今やデモスの範囲が主権国家の境界と一致すると信じられる余地はほとんどない(政治の脱領域化)。

 また、多国籍企業や国際NGOなどの非国家主体が、公式の政治過程における民主的統制を受けることなく大きな影響力を行使しうるようになることで、主権国家の統治機構を中心とする政治システムの機能は、ますます制約されるようになった。現代では、むしろ政治システムの外部にこそ、人々の生活を大きく左右しうる経済的・社会的諸決定を行う、「サブ政治」が遍在するようになっている(政治の周辺化)。

 そして、このように脱領域的に社会の隅々へ影響を及ぼしうるために、どのような諸個人の生にとっても脅威となりうる「公共的」な権力(public power)が顕著に現われてくるほど、政治システムの機能不全は露わとなり、政治に対する不満や反感は増し、政府信頼や投票率の低下、無党派層の増加などが帰結されることになる(脱政治化)。

 以上に述べたような多面的な環境変化により、これまで暗黙のうちに前提とされてきたような「政治」のあり方がもはや通用しなくなりつつある状況を、さしあたり「ポスト政治」と呼んでおきたい。ステークホルダーの語を用いることで、国民、市民、有権者といった従来の政治主体像を一層抽象化することの意義は、このようなポスト政治の文脈において生じてくる。

 法的権利義務に限られない多様な利害関係の保有に基づいて把握されるステークホルダーは、予め特定の境界線で区切られた集団を意味するわけではないので、決定権力が応答すべき越境的なデモスを指示することができる。また、企業がその社会的影響力に応じて配慮・応答すべき主体の範囲を問い直すために論じられてきたステークホルダー概念は、国家・非国家を問わない公共的権力一般の民主的正統性を問うことに適している。

 このようにステークホルダー概念から民主政治を再解釈することで、従来の政治システムが十分に果たしがたくなっている利害伝達回路としての機能を、何らかの形で再整備することができれば、人々の政治的有効性感覚を回復させ、脱政治化に歯止めをかけることも可能になると考えられる。以下では、このようなポスト政治の諸相に応じてSHDが持ちうる可能性について、なお検討を要する課題にも言及しながら、ささやかな素描を試みたい。


3. 政治の脱領域化に対して

 風や水を通じて拡散する放射性物質による汚染は、境界線を知らない。福島第一原子力発電所事故に伴う汚染水の海洋放出が国際的な動揺を引き起こしたように、韓国や中国の沿岸部に設置された原発がひとたび事故に見舞われれば、日本がその影響を免れることは難しい。越境的なリスクを伴う決定を民主的に統制するためには、広範囲に分布するステークホルダーによる熟議を通じた合意に基づき、決定の正統性(legitimacy)を担保しておくことが必要になる。

 影響を受ける者すべて(all affected interests)が決定の作成過程に参与できなければならないとする原理は、民主政治の一つの理想として繰り返し論じられてきた(注4)。この原理に対する伝統的批判は、決定に伴う不確実な影響範囲をすべて包摂しようとすれば、そのために要するコストは膨大になり、何も決定できなくなってしまうというものである。だが、SHDが含意するのはデモスの適正な範囲への再編成であって、ステークホルダーたりうる者たちへの無限開放ではないから、包摂すべきステークホルダーを暫定的にでも限られた範囲へと画定することは、もとより否定されていない。

 とはいえ、過少包摂(underinclusiveness)も過剰包摂(overinclusiveness)も避け、政策争点ごとのステークホルダーを適正な範囲に画定することがいかにして可能であるかについて、定まった回答は現在もない。困難が伴うのは、何がどこまで重視すべき影響であるかを判断するステークホルダー分析(stakeholder analysis)の手続きが、それ自体として政治的に争われうる性格を持つからである。ステークホルダー分析は、誰がステークホルダーであるかの画定を通じて、何が重要であるのかを定義する課題設定権力に与する。

 例えば、原発立地による受益の範囲と、事故発生時の受苦の範囲は重ならないため、建設にあたって事前同意を取り付けるべき「地元」の定義は難しい。そこで何らかの範囲を選択することは、価値判断を離れては行われえないであろう。では、いずれ政治的に選択されるのであり、影響範囲は可能的には無限とも言いうるのだから、どの範囲を選択しても同じだということになるだろうか。明らかに否である。ステークホルダー分析が政治的性格を免れないのは確かだが、そうであるからこそ、分析の委託者と受託者(分析者)は分析の基準を明らかにし、主要なステークホルダーと認められなかった人々からの異議申し立てに対して分析の妥当性を自ら弁護するなど、応答性を確保することが求められる。

 脱領域的な政治に対するSHDの可能性を示す一つの例として、政治理論家テリー・マクドナルドの議論を採り上げよう(注5)。彼女によれば、諸個人は自らが持つ利害関心に応じて政策争点ごとの「ステークホルダー共同体(stakeholder community: SHC)」に属することで、このSHCに責任を負う多様なNGOの活動を介して、脱領域的な政治的影響力を獲得することができる。SHCは国民(nation)のような法的に一元化された「管区(jurisdiction)」ではなく、多元的に生起しうる「構成母体(constituency)」であるため、個人は自らが持つ多様な利害関心のそれぞれを、異なる複数のSHCに代表させることができるとされる。これは、これまで「管区」と考えられてきたデモスを、多元的な「構成母体」=SHCへと分割・再編成することで、政治の脱領域化に対応しようとする構想として注目される。

 政策分野ごとに様々なNGOが政策形成過程へと組み込まれて利害反映を行う例は、EUにおいては顕著に見られるものであり、脱領域的なステークホルダー・デモクラシーは部分的に実現されているとも言える。ただし、現に存在するNGOの活動内容があらゆる利害関心を反映するものになっているかには疑問の余地が大きい。また、個別のステークホルダー、SHC、NGOごとに利用可能な資源の格差によって生じる、決定過程への実質的な影響力の不均衡を、どのように解消できるかも課題である。さらに、有力な国際NGOであるほど、個別の政策分野での影響力を強める一方で専門化・官僚制化の傾向にあり、市民社会一般から遊離しがちであるため、NGOを民主的に統制するための制度的枠組みについても、検討を進める必要がある。


4. 政治の周辺化に対して

 周辺化した政治システムの外に遍在する様々な公共的権力の民主化をその主要な課題の一部と捉えていることは、SHDの大きな特徴である。政治システムの機能がますます制約され、周辺化が進むと、その統治能力を補完する目的で、企業やNGO・NPOが政府と協働して公共サービスの供給に携わる局面が増えるため、こうした多元的な非国家主体の民主的正統性の問題性は、政治学全体のなかでも意識されるようになってきている。しかしながら、非国家主体の内部統治が民主政治の問題として扱われることは、依然として稀である。ここでは特に企業について、SHDの観点から何が言えるかを示しておく。

 企業統治の民主化を進めるためには、その決定機関に労働者やその他のステークホルダー団体の代表を送り込むことを可能にするなど、法的枠組みの整備が不可欠であろう。政策決定のみならず、事業過程全般における社会内のステークホルダーへの応答性を高めるためには、個別事案における司法的手段の活用もさることながら、各種メディアによる監視と世論喚起を通じた社会的圧力、消費行動や投資行動を通じた経済的圧力なども有効な手段となりうる。

 複合的対応の必要性を強調するのは、単一の解を求めることがかえって社会的不利益をもたらしかねないからである。特に、企業に対する法的規制の強化を要求する場合、(よしんば政治システムが十全に機能したとしても)それが国家権力の拡大と諸個人の自由の縮小に陥らないかについては、注意しすぎることはない。遍在するサブ政治に対しては、それを上から統制する統一的枠組みよりも、それぞれに自律的な民主化可能性を備えさせる、多様な取り組みを促進することが望ましい。

 具体的取り組みの一例が、国連グローバル・コンパクト(Global Compact)に見られる。2000年に発足し、13年4月現在で130を超える諸国から1万以上の団体が加盟しているグローバル・コンパクトでは、人権・労働・環境などに関する国際規範を掲げた上で、規範に則した事業改善の評価報告を各企業の自主性に委ね、同時にNGOなど多様なステークホルダー団体を交えた討議の場を設けている。これは、各企業の事業に伴う様々な問題性を、国家によって直接に規制するのではなく、ステークホルダー対話を通じた相互作用により規律しようとする試みと解せる。

 だが、企業が多様なステークホルダーの要求に高い応答性を保つことは、事業の効率性を損ね、業績の低下につながりかねないのではないか。この点については実証的研究を俟つ必要もあり、安易な一般化は控えたいが、多くの場合にはそうはならないと予測される。むしろ、主要なステークホルダーとの対話を通じてその要求を把握することは、企業が公共的権力として求められている役割の範囲と程度を明確化することで、社会への「無限応答」を避けさせる。それは事業に予測可能性を確保することで効率性にも資するであろう。また、先に述べたような社会的・経済的圧力が機能する限りにおいて、主要なステークホルダーを無視した事業が高い業績を保ちうるとは考えにくい。


5. 脱政治化に対して

 脱政治化は、政治システムの機能不全だけを要因とするわけではない。合理的無知(rational ignorance)も大きな要因である。すなわち、積極的に政治参加したところで一人一人の政治的影響力は無に等しく、得られる便益が乏しいのであれば、限りある資源を政治以外の活動に振り向ける人が多いことに不思議はない。そもそも私たちは政策争点のすべてに利害関心を持つわけではないから、あらゆる問題に精通することは非現実的である。メディアを通じて最低限の情報や知識を獲得することだけでも、日々の生活の上ではかなりの負担であるが、そのコストに応じた見返りを直接に感じられる機会は、まずない。

 加えて、政策のパッケージ化の問題もある。例えば安倍政権の経済政策には賛成だが特定秘密保護法の制定には反対であるなど、政策争点ごとに支持したい政治勢力が異なっている場合でも、様々な政策は政党などを通じて一括に選択を求められてしまうため、私たちが争点ごとに政治的影響力を行使することは困難である。このことも、政治的有効性感覚を奪う一因になっていると考えられる。このような障害を克服するためには、政策パッケージを解体して、政策争点ごとに強い利害関心を持つSHCに、優越的な政治的影響力を配分する制度が望ましい。

 今後のエネルギー政策をテーマとして2012年に民主党政権が実施するなど、各国で実践されている討論型世論調査(deliberative poll)についての研究では、決定に影響力を持つ小集団(mini publics)への参加は、合理的無知に陥ることを避ける上で有効であるとされている (注6)。それが確かならば、デモスを政策争点ごとのSHCに分割し、決定権力を部分的に移譲することは、脱政治化への有効な対処となりうると考えられる。また、政策がパッケージ化されている場合、公式の政治過程において影響力を行使しうる機会は一回的な投票に限られがちであるが、諸個人が複数のSHCに属して多元的に政治的影響力を行使することができるようになれば、政治システムへの入力機会が多様化され、政治的有効性感覚は高まることが期待される。

 デモスをSHCに分割することには、偏った利害関心を持った少数派による支配を招きかねないとする批判が見られる。もっともな危惧ではあるが、少数派の強い選好を重視することは、多数派の弱い選好を全く無視してよいということにはならないはずである。討論型世論調査において、一定の授権を施された小集団による熟議は、社会全体への応答性に開かれなければならないとされている。ステークホルダー間の熟議においても同様である。

 すなわち、濃厚な利害関心を有する主要なステークホルダーによる熟議と合意は、希薄な利害関心を有する社会全体による監視・審理・承認を経て、重層的に正統化される必要がある。ここにおいて重要な役割を担いうるのが、(特定の地理的境界で区切られた)社会の全体を代表する議会である。多様なNGOがSHCを代表して越境的な影響力を持ちうるという前述の主張に対して、そのような選挙を経ない集団が強い政治的影響力を持つようになり、議会を迂回した政策形成が常態化すれば、公式の民主的正統化手続きは破壊されかねないとの批判が存在する。しかしながら、SHDの構想と議会政治を対立的に捉える必然性はない。

 政治の脱領域化を前提にするなら、地理的境界を前提とするどのような議会も、自らの法的存立根拠である「管区」(法的なデモス)と、自らの決定が実際に影響を及ぼしうるステークホルダー(事実上のデモス)との小さくないズレを抱えており、十全な代表性を独占的に主張しうる立場にはない。そうであるとすれば、脱領域的・多元的に構成されるSHC=「構成母体」を代表するNGOなどは、領域的・一元的なデモス=「管区」を代表する議会の機能を損なうよりも、むしろ補完するものであると言える(注7)。異なる根拠を持つ代表者をどのように均衡させ、どのように調停させることができるかはそれ自体として大きな課題であるが、企業の民主化可能性の追求も含めて、政治における利害伝達の回路を様々に「多回路化multichannelization」することは、全体として民主政治の機能を回復・向上させうるはずである。


6. おわりに

 SHDは理論的に未成熟であり、その制度化には課題も多い。だが、その可能性が遠い未来にしか現れないと考えるべき理由はない。SHDの核心的理念は自己決定であり、「私たちのいないところで私たちのことを決めるな(nothing about us without us)」という素朴な訴えである。それは歴史上の無数の運動のなかで繰り返し提起されてきたし、今なお生活の各局面において、いつでも再提起することができる。

 私たちが利害関心を持ち、ステークホルダーになったときに政治が現われる。したがってSHDの実践可能性は、いつどこにでもある。政治の場を、どこか限られた領域にのみ想定するべきではない。ポスト政治の時代においては、従来の意味での「政治」よりも、いくつものサブ政治の方が重要であるかもしれない。その重要性は人によって異なるだろう。私がかかわる政治とあなたがかかわる政治は、同じでなくてよい。それぞれの政治に身を投じればよい。どのみち、政治からは逃れられないのだから。


注

(1) stakeholderの本来の語意が素朴な利害関係者とは異なる点については、拙稿「ステークホルダー・デモクラシーの可能性」『政策空間』2010年9月29日を参照。本稿では日本語での一般的用法にしたがう。
(2) 山口二郎「利益政治」『知恵蔵 2014』朝日新聞出版(コトバンクより)。
(3) 政治の脱領域化と周辺化については、杉田敦「周辺化・脱領域化される政治――政治学の何が問題か」『世界』853号、2014年1月、160-168頁を、脱政治化については、コリン・ヘイ『政治はなぜ嫌われるのか――民主主義の取り戻し方』吉田徹訳、岩波書店、2012年を参照。ただし、「脱政治化」の用法は本稿と同書とでは若干異なる。
(4) Robert Goodin, “Enfranchising All Affected Interests, and Its Alternatives,” Philosophy and Public Affairs, 35(1), 2007, pp. 40-68.
(5) Terry Macdonald, Global Stakeholder Democracy: Power and Representation Beyond Liberal State, Oxford University Press, 2008. より詳しくは、拙稿「マルチレベル・ガバナンスの民主的正統性と公私再定義――ステークホルダー・デモクラシーのグローバルな実現へ向けて」『社会科学研究』65巻2号、2014年(近刊)を参照。
(6) ジェイムズ・S. フィシュキン『人々の声が響き合うとき――熟議空間と民主主義』曽根泰教監修、岩木貴子訳、早川書房、2011年。
(7) Christopher Lord, “Parliamentary Representation in a Decentered Polity,” in Beate Kohler-Koch and Berthold Rittberger (eds.) Debating the Democratic Legitimacy of the European Union, Rowman & Littlefield, 2007, ch. 6.


Wednesday, April 2, 2014

掲載告知: 「マルチレベル・ガバナンスにおける民主的正統性と公私再定義――ステークホルダー・デモクラシーのグローバルな実現へ向けて」





雑誌投稿論文が刊行されました.リンク先から,要約および本文をお読み頂けます.掲載誌はオンライン版のみの刊行のため,冊子体はありません.

目次を以下に掲げておきます.

  • 目次
    • I. 序論――ダールのジレンマとガバナンス論の隘路
    • II. グローバルな民主化に向けた複数の戦略
      • 1. 政府の/による民主化――ヘルドのコスモポリタン・デモクラシー
      • 2. 市民社会による民主化と、市民社会の民主化
    • III. マクドナルドのグローバル・ステークホルダー・デモクラシー論
      • 1. 概要
      • 2. 意義と課題
      • 3. 可能なる射程――国連グローバル・コンパクトから
    • IV. デモイの競合と調停――民主的正統性の多回路的実現
      • 1. 代表性と有効性への多回路
      • 2. 応答性への多回路
      • 3. 公私の再定義可能性
    • V. 結論


今回の論文は,政治と理論研究会 第9回(2013年5月8日,法政大学)にて報告した内容に加筆修正を施したものです.研究会にご出席下さった方々に,改めて感謝申し上げます.

加えて一つ,訂正があります.参考文献に挙げている高橋良輔先生のご論文,「国境を越える社会運動と制度化されるNGOネットワーク:空間・運動・ネットワーク」の刊行年が「2009」年と表記されていますが,「2010」年の誤りでした.この場を借りてお詫び申し上げます.

なお,脱稿後に以下の2本の論文に接しました.内田 [2014] はJames Bohmanの議論について,Erman [2013] はTerry Macdonaldの議論について,それぞれ検討を加えており,いずれも拙稿と内容的関連が大きいものです.

  • 内田智 [2014] 「熟議デモクラシー,国境横断的なその制度化の課題と可能性――欧州における討論型世論調査の試みを一例として」『年報政治学』2013(2).
  • Erman, Eva [2013] “In Search of Democratic Agency in Deliberative Governance,” European Journal of International Relation, 19(4): 847-868.

Saturday, February 15, 2014

掲載告知: 「ステークホルダー・デモクラシーに何ができるか」



  • 松尾隆佑 [2014. 2] 「ステークホルダー・デモクラシーに何ができるか」『αシノドス』142.


拙文を寄稿した有料メール・マガジン『αシノドス』が配信されました.特集「民主主義をとらえる」の一部ということです.

私などにお声がかかるくらいなので,若手のラインナップになるのかなと漠然と想像していたところ,蓋を開けてみたらかなりの豪華メンバーで,場違い感のはなはだしさに恐縮しております.

内容は,ステークホルダー・デモクラシーについて何か書けということで,必然的に,自分の研究テーマの意義について一般向けに説明するようなものになりました.

以前(2010年)に書いた「ステークホルダー・デモクラシーの可能性」と題名・趣旨ともに近いですが,多少なりとも進歩が見られるようであれば幸いです(3年半かけてこの程度かと言われかねませんが).

購読してお読み頂くものなのでご笑覧下さいとも言いにくいのですが,とりあえず目次を載せておきます.


  • 目次
    • はじめに――利益政治は擁護できるか?
    • なぜステークホルダーなのか? ――ポスト政治の政治主体
    • 政治の脱領域化に対して
    • 政治の周辺化に対して
    • 脱政治化に対して
    • おわりに


※追記(5/21):本ブログおよびPDFにて公開しました.

Wednesday, May 8, 2013

政治と理論研究会 第9回



下記の要領で研究会を開催致します
.※終了しました.

参加希望の方は,kihamu[at]gmail.com まで予めご連絡下さい.

なお,本研究会は法政大学大学院政治学専攻委員会と共催です.

  • 要領
    • 日時:5月8日(水)17時開始
    • 会場:法政大学 大学院棟 201教室
    • 報告者:松尾隆佑 (法政大学 博士後期課程)
    • 報告題名:「マルチレベル・ガバナンスの民主化と公私再定義――ステークホルダー対話を通じたデモクラシーの越境可能性」
    • 討論者:小林昭菜 (法政大学 博士後期課程)
    • 報告要旨:

      •  民主的正統性は常に不全である。第一に、政治的決定に正統性を与えるべき集団(デモス)の範囲自体は民主的に決められたものではありえないという原初的欠損が、第二に、決定が将来にわたって影響を及ぼしうる無際限な範囲(ステークホルダー)のすべてを決定過程に参与させることは望みようがないという遂行上の困難が、デモクラシーの可能性を本来的に枠付けている。そして、現代におけるグローバルな相互依存の深まりは、この可能性の幅をますます狭まつつあるように思える。
         核兵器の脅威や金融危機、原子力発電所事故、地球温暖化、感染症など、国境や世代を超越して広範な波及性を持つ多くの問題を、私たちは知っている。国民主権やシティズンシップといった概念に象徴されるように、民主的決定は必ず何らかの境界線を前提とするデモスに依拠して行われるが、このデモスの構成が当該決定のステークホルダーと乖離すればするほど、民主的正統性は欠損の度を増す。決定の影響が本来予定されている境界線を越えて波及する場合、その民主的正統性はどのように確保されうるか。こうした古典的問いの重要性は失われるどころか、加速度的に高まっている。
         とりわけ1990年代半ば以降のグローバル・ガバナンス論は、主権国家が単独では対処困難な地球的課題の解決のため、地域統合の促進や国際機構の発展に期待を寄せてきた(この点はデイヴィッド・ヘルドの「コスモポリタン・デモクラシー」論も例外ではない)。確かに地域機構・国際機構の成長はグローバルな公共的利益に少なくない貢献を為してきたが、近年のEU加盟諸国における反EU感情の発露に象徴されるように、トランスナショナルなガバナンスが実現すればするほど、民主的正統性の欠如が顕在化することになる(民主主義の赤字)。かつてロバート・ダールが指摘したように、越境的な問題への実効的・効率的な対処が可能な単位・主体と、その民主的正統性との間には、ジレンマが存在する。
         他方、多国籍企業や国際NGOなど、公式の政治過程における正統化手続きを経ずに事実上の権力を行使する非政府主体の民主的統制も、喫緊の課題となっている。このような非政府主体の台頭は、社会のガバナビリティ(統治可能性)を低下させるもの――主権への挑戦――であると同時に、政府と協働して公共的課題の解決を担いうる主体の登場という意味で、ガバナビリティ(統治能力)の補完可能性を拓くものでもある。もっとも官民協働によるガバナンスに対しては、公私の区分を失わせかねないとの批判も寄せられ、理論的回答が俟たれている。
         本報告では、ダールが提起したジレンマを解く手がかりを、「ステークホルダー共同体」に基づく多元主義たる「グローバル・ステークホルダー・デモクラシー」を提唱するテリー・ マクドナルドの議論に求め、批判的検討を施す。また、国連グローバル・コンパクト運動を例に、国家機能の拡大によらずにステークホルダー間の合意形成に基づこうとする討議的アプローチが、民間主体の事業過程そのものを政治化・民主化するとともに、公私の再定義をもたらす可能性を探究する。これらの作業により、デモクラシーを枠付けている境界線を――消し去るのではなく――越える方途を示すことが、本報告の目的である。
※追記(4/26):教室と報告要旨を記載しました.

※追記2(5/8):当日の報告スライドを掲載しました.

Tuesday, October 30, 2012

掲載告知: 「理性・情念・利害――政治の賭け金について」



  • 松尾隆佑 [2012. 10]: 「理性・情念・利害――政治の賭け金について」『法政大学大学院紀要』(69): 75-95.


拙論(査読無)が掲載された紀要が刊行されました.

理性・情念・利害の関係の概念的検討から,政治における私的利害と公共的理由の結び付きについて考察を行っております.甚だ粗末ではありますが,利益政治と熟議についての私の基本的な考え方は示されているかと思います.

目次は以下の通りです.全国の大学図書館等でお手に取って頂ければ幸いです.なお,一定期間ののちにはリポジトリでも公開されることと思います.


  • 目次
    • はじめに――政治理論における理性・情念・利害
    • 1. デカルトとヒュームの情念論
    • 2. 理性を導く情念、情念を生み出す理性
    • 3. 利害の意味と認識――インタレストとは何か
    • 4. インタレストの擁護――政治における価値と理由
    • おわりに

Saturday, September 29, 2012

政治と理論研究会 第6回例会


下記の要領で研究会を開催致します.終了しました.

参加希望の方は,kihamu[at]gmail.com まで予めご連絡下さい.



  • 要領
    • 日時:9月29日(土)17時開始
    • 会場:法政大学 大学院棟 501教室
    • 報告者:松尾隆佑 (法政大学 博士後期課程)
    • 報告題名:「ステークホルダーの政治主体性――ステークホルダー・デモクラシーの理論化へ向けて」


Sunday, May 20, 2012

ステークホルダー民主主義の終焉?


池田信夫さんのブログで「ステークホルダー民主主義」が叩かれていて、それに濱口桂一郎さんが反応しています。終焉も何も、まだ始まってもいない気がするわけですが、備忘として書き留めておきます。



「ステークホルダー民主主義」という言い方をする人は決して多くないわけで、池田さんの念頭に濱口さんが置かれているのは明らかでしょう。濱口さん的なステークホルダー民主主義については、当ブログでも書いたことがあります。私が理解する「ステークホルダー・デモクラシー」一般については、こちらに書きました。

池田さんは原発再稼働に絡めた話をしており、これについては私が2月に書いたエントリに当てはまる立論になっているなぁという印象です(以下、強調は本エントリによる)。


福島第一原子力発電所の事故とその後の原発をめぐる議論は、まさにこのステークホルダーという観点に多くの対応を持つものでした。風や雨を通じて拡散する放射性物質による汚染は、地理的境界や行政単位の別を飛び越えていきます。原発からどれほど離れようが、どこ/何がどれほど汚染されているか分からなければ、誰がステークホルダーであるのかは確定できません。その範囲は、これまで原発とどのような関係を結んでいたかにかかわりなく、いくらでも拡大していく可能性があるのです。こうした状況を言い表すのに、ステークホルダーという語は極めて適しています。それは法的な権利・義務に限られない多様な利害関係に基づく主体を指すものであり、本来的に範囲が不確実で曖昧な対象を意味するからです。まして、原発の廃炉や使用済み核燃料の処理は、遠い未来にステークホルダーを生み出し続けます。原発や放射能を巡る議論は、時間的・空間的に茫漠と拡がる影響範囲を念頭に置き続けることを私たちに要求するのです。


原発について語ることが帯びるこうした一種茫漠とした性質は、政治における困難をも連れてきます。今や誰もがステークホルダーたり得ることが明らかな以上、「現地の声」を何よりも重視する素朴な「当事者」主義が批判されるべきなのは明らかです(それは首都圏の立場を全てとすることと同程度には馬鹿げています)。しかし、では原発立地自治体での決定過程に「部外者」がどこまで介入することが許されるのかは、容易に結論できる問題ではありません。他方、誰もがステークホルダー「だからこそ」、全ての声を聞くことはできないのであるから、まずは専門家や特定の関係団体による議論を先に置くべきである、との主張も有り得ます。この場合、ステークホルダーの観点は、責任を曖昧な全体に解消しながら既存の秩序を温存するために働きかねません。


政治について「なるべく意思決定に関与するステークホルダーを減らす粘り強い改革が必要」とする池田さんの立場はそれとして面白いもので、政策の中身以前の「統治形式」(特に「決断」「リーダーシップ」を可能とするそれ)へのこだわりに基づいて政治改革に関与してきた一群の政治学者たちへの評価ともかかわりそうです(森政稔「独裁の誘惑――戦後政治学とポピュリズムのあいだ」『現代思想』2012年5月号*1)。

しかし、ここではそういった話は措いて、「ステークホルダー」概念についての偏った理解を正しておきましょう。やはり当ブログの過去エントリから、引用します。


ステークホルダー論は、決定を濃く強いステークホルダーによる自律的な合意に基づかせるとともに、その外に薄く弱く広がるステークホルダー(社会)への応答性を備えねばならない、との二重性を抱えます。なぜ今その二重性が必要になったかと言えば、利害関係の分布が多様化・複雑化して、従来の利益集団のような利害の均質性を前提できなくなったからです。ガバナンスが対応すべきリスクは不確実であり、個別のイシューについて誰が利害関係を持ち得るのかは自明ではないため、ステークホルダーの範囲は既存の境界線やメンバーシップとの必然的結び付きを持ちません。


労働組合の代表性の問題がよく採り上げられるところですが、ステークホルダーの概念化には、既存の利益代表を刷新して代表性を再構築しようとする意図が刻印されています。誰が決定すべきか自明でないから、その範囲を再定義するために境界線を一旦外へと開こうとするのですが、それは再び閉じるためです。ステークホルダーとは、開きながら閉じ、閉じながら開く概念なのです。それゆえ、ステークホルダー論を支持するのであれば、決定を担うべきステークホルダーに社会が信任を与えてあげなければなりません。社会への応答性要求は、この信任とセットでこそ論じられるべきものなのです。


池田さんはポピュリズム肯定に傾きかねない開放的なステークホルダー理解をわざわざ持ち出していますが、濱口さんが指摘しているようにそれは曲解です(より詳しくは引用元のエントリ全文を読んで下さい)。ステークホルダー概念を用いたデモクラシー解釈にとっての焦点は、ステークホルダーの範囲が広いか狭いかということよりも、適切な利害反映・代表の枠組みを再構築することにあります。

そして原発再稼働の政治決定について問題になっているのは、現行の制度的枠組みが信任に値するものであるかどうかです。いくら決定にかかわるステークホルダーを狭く解釈したとしても、そこに社会の信任が伴っていなければどうしようもないでしょう。


*1:この論文で扱われている山口二郎『政権交代とは何だったのか』(岩波新書、2012年)については、『生活経済政策』2012年5月号所収の書評(評者:杉田敦)も参照。


Friday, June 3, 2011

かかわりあいの政治学8――「チーム」はなぜ愛されるのか


野球やサッカーなどのプロスポーツを愛好する人々には、決まって「ひいき」にしているチームがあるものだ。プロ野球であれば阪神タイガース、Jリーグであれば浦和レッズが、それぞれ熱烈なファン(サポーター)を多く持つことで有名だろう。こうしたファンの中には、子供の頃から何十年もの間にわたり、一貫して同じチームを愛し・応援し続ける人がかなりの割合で存在する。

だが、素朴な疑問がある。年月とともに各チームの選手やスタッフは入れ替わり、チームの戦術やプレイスタイルも全く同じではいられないだろう。チームのユニフォームや本拠とする競技場、スポンサー、場合によってはチーム名さえも、変わってしまうことがあるかもしれない。すると、そうした変化にもかかわらず同じチームを愛し続けるファンたちは、一体そのチームの何を愛しているのだろうか?

実際、こうした変化に伴って、自覚的にファンをやめたり、なんとなく熱心には応援しなくなったりする人は、それなりに存在する。だが、熱心なファンの多くは、チームが経験する様々な変遷にもかかわらず、自分が応援するチームへの愛を容易には失わないようである。これは一体、何によるものなのだろうか。チームの変化がファンの愛を失わせるものではないとすれば、ある日に選手・スタッフ全員が一挙に入れ替わり、ユニフォームやチーム名も変更されて、まるきり別のチームのようになってしまっても、彼らはこのチームを応援し続けるのだろうか。

もちろん、そんなことは考えにくい。選手の入れ替わりがチームへの愛を失わせないのは、あくまでもそれが一部の選手ごとに漸次的な速度で行われる(そしてその間に新入選手をチームの一員と見る認識の形成が進む)からであって、同時に丸々入れ替わってしまったときに同じ愛が維持されることは稀であろう。逆に長い年月の中で徐々に変化が生じ、その歴史をファンが共有するのであれば、結果として(客観的に見れば)全く別のチームになっていたとしても、ファンはそれを同じチームと見る。ここでは、ある種の連続性(経路・文脈の繋がり)がカギとなっているように思われる。


このように考えてくると、チームの同一性問題は、人格の同一性をめぐる哲学的議論と似てくる。30年前には人を人とも思わないような殺人鬼だった人物が、今では虫も殺さない好々爺になっていた場合に、「30年前の彼」と「現在の彼」という2つの異なる時点における人格を直ちに同一人格と見るのは困難である。これら異時点間の人格は、そのままでは相互に直接の「連結性」を持つものではないからである。両人格を同一と考えさせる理由があるとすれば、「現在の彼」は確かに「30年前の彼」から徐々に徐々に変化した果てに存在するものであり、その間のある時期ある時期の「彼」たちの「継続性」を通じることで「つながっている」という1点しかない*1

あるチームが経た内実の変化にもかかわらず、それは自分が愛する「あのチーム」だと変わらず思えるのは、同様の思考から説明できるだろう。実質的には全く別の存在になっているとしても、その間の年月を介した結び付きに基づくなら、同じ「あのチーム」であるとの見なしが可能になるのである。こうした説明の仕方は、法人格が同じである(から同じチームだ)などといったフォーマルな制度から為し得る形式的な説明を支え、その内実を補填するものである。それは、法人格などの社会的実在に一貫した統合性を与えるメカニズムこそ、こうした「見なし」にほかならないからだ。

個々のチームには何か固有の「本質」が存在するのだと、論理的に信じられる人は(おそらく)いないだろう。しかし、人についてはそうではない。個々の人間は、その人が他でもなくその人でしか在り得ない所以たる固有の本質を持っている。そう信じている人は多い。あるいは少なくとも、固有名を持つ1人の人物の存在を何らかの確定記述――男/女であるとか、出身・国籍がどこで、何語を話し、エスニシティや階層は何であるのかとか、身長・体重はいくつで、どんな容貌をしており、どういう声で、どんな話し方をし、どのような表情を見せ、いかなる考え方を持っているのかなどなど、その人に関して記述し得る属性・情報の全て――に還元し尽くすことはできない、といった考え方に反対する人は少ないように思う。

けれども、固有名を確定記述に還元できない「余剰」とする立場は、実のところ何も説明していない。こうした立場は、ある確定記述の集合を一個体と見なすときに識別タグの役割を果たすべく付けられる固有名に「余剰」という別名を与えているだけで、そのような「見なし」がなぜ可能であるのかを何も説明しない。タグがなぜ機能するのかを説明しない。見なしを「規定」や「命名」などと呼んだところで、やはり言い換えでしかない。個体の存立について説明を与えようとするなら、年月を超えてチームを同じチームたらしめる継続性のような、一定の繋がり・結び付きの存在がなぜ見なしを可能にするのかを問わなければ、何の説明も可能にならないのである。

見なしはなぜ可能なのか。見なしを支えているものは何か。何らかの形で繋がっている、結び付いているということが、同じであること、1つであることの理由になるのはなぜか。あるまとまりが他と区別される1個として取り出されることは、いかにして可能なのか。こうしたことが問われければ、特定チームへの変わらぬ支持も、唯一人の伴侶への恒久の愛も、自分自身の存立の基盤も、何一つ本当には説明できない。


*1:細胞などの物質的連続性を考えてみても、同じことが言える。肉体を構成する物質は日々入れ替わり、その意味で数年前の私と現在の私は、全く異なる物質から構成されていることになるからである。


Saturday, April 2, 2011

来るべきステークホルダーへの応答――政治の配分的側面と構成的側面



過去は到来する。未来は構成される。私たちが構成する未来が、誰かにとっての過去として、決定された形で到来するのである。原子力発電所と、それがもたらすコストとリスクについての思考は、私たちの視野に、ヒトの一生を超えるタイムスパンを要求する。もし政治が「価値の権威的配分」(D. イーストン)であるとするなら、その配分が同時に次の「政治」の条件を構成することへの視座も欠かすことができないだろう。それは、配分(分配)としての性格とは一応区別される、政治の構成的側面である。


Wednesday, March 30, 2011

政治的なものと公共的なもの――権力と期待


政治的であることと非政治的であること



われわれの出発点を何処に置こう。「個人的なことは政治的である!」――よろしい。では、個人的なことの全てが政治的であるか? あるいは然り、あるいは否。「全てがそう、とは言わないまでも、全てが政治的にはなりうる」――結構。区別は本質的ではない。とはいえ、非政治的であるという意味で純粋個人的なものごともまた、「ありうる」わけだ。

ところで、非政治的なものごとは、政治学の対象たりうるか? たりえない――ならば、政治学は純粋個人的(私秘的?)なものごとに無関心である。そう言ってよい。政治学が個人的なものごとに関心を払うのは、そこに何らかの形で政治性――ある対象を非政治的と断ずる振る舞いも含めたそれ――が宿っていると認める限りである。

ところで個人的であること、――これは私的なことと言い換えて差し支えなかろうか? 両者の重なりは明らかでない・が、ここでは同じと見なそう。私的なものごとは、その全てが政治的というわけではないにせよ、すべからく政治的たりうる。例えば労働、例えば消費、例えば交際、例えば家庭、例えば生殖、例えば死、――あまねく生命・生活の全てが*1。

したがって、政治学は親密圏を問題にしうる。しかしそれはふつう、私的であることには留まらない何らかの意味がその問題に伴っている限りにおいて、扱われる。私的なeveryday talkが政治的なものとして現れるのは*2、例えばジェンダー正義という価値規準が、個人的な人間関係の中に結び付けられているからであろう。純粋に私的な領域においては、個人間の同意に基づく限り、非対称的な人間関係も不当なものとはされないはずである――自由主義。それが問題とされるのは、ジェンダーや人種・エスニシティ、階級・階層などといった集団的に妥当する何らかの共通性(差異)が観点として曳き込まれ、そこに単なる個別の人間関係には留まらない意味が見出されるからである。

この曳き込みは、外在的な価値観の導入による私的自由への不当な介入を意味するのでは、必ずしもない。個人の自由意志の尊重それ自体が「人間」としての共通性に基づいて認められるものである以上、私的な自由はその範囲を自己完結的に決定できる性質を、本来的に持たないのである。その範囲は、政治的な対抗関係の産物でしかない(繰り返し:私的なものごとは、すべからく政治的たりうる)。


私的であることと公共的であること



さて、政治的であるということは、公共的であるということか?――あるいは然り、あるいは否。私的であることと公共的であることの、区別は本質的でない(非歴史的には妥当しない*3)・のみならず排他的でもない。私的なものごとがある時に公共的なものごとに変わるだけでなく、私的であるままに、それと同時に公共的意味を持つ、というようなことはありうる(首相の靖国参拝などは、その例にならないだろうか)。

これは公私二分論の解体ではなく、相対化である。ある対象を私的と断ずることは、それが非公共的であることを直ちに意味するわけではない。公私の別を定める、そのこともまた政治的振る舞いである。ある対象を純粋に私的と見なし、公共的意味を認めないこと、そこにも同様の政治性が宿る。私的なものごとはみな、政治的たりうる。私的なものごとがすべからく公共的たりうるかは、分からない(おそらく答えは否定的である)。ただし、公共的たりえないものごとでも、政治的ではありうる*4。


公共的であることと政治的であること



かくして政治は、公私の全領域に可能的領野を拡げる。政治的であることは、公共的であることと合致しない。「しかし、その区別は本質的か?」――然り。政治的であることと公共的であることは、本質的に異なる。前者は権力に、後者は期待の層に属する。そして後者は、前者によって大きく規定される関係にある。

公共的(public)であることが政治的であることに規定されるとは、どういうことか。「もしそうなら、統治権力が対応すべき範囲が「公共」である、などと定義することなども可能なわけか?」――然り。「それは倒錯か、でなければ官治主義を前提とした「古い公共」の考え方ではないのか? 本来は公共的な範囲が先に考えられ、そこに権力が対応するはずではないか」――そうではない。政府が対応すべき範囲が予め決まっているのではない。権力の凝集が先にあり、その正統化は後から来るのだ。現に在る権力を根拠付け、その統治ないし支配に同意を取り付けるために、すべきとされる仕事が事後的にこしらえられる。

反論がある。例えば、街に火が回る。その火を消すことは、誰にとっても重要なことであり、明らかに公共的であると思えるだろう。もしこの街に制度化された統治権力が存在していなかったとしても、消火のような公共的事業に協力して従事する過程を経て権力が凝集され、結果として統治機構が整備されるようなことは想定できるのではないか。ならば、やはり政治に先立つ公共性が存在するということではないのか。

そうではない。公共的であるということは、「みんな」に関わっている(common)ということである。公共的な仕事とは、「みんな」のニーズを満たすべく対応することを指す。確かに街に火が回るとき、誰しもこれは「みんな」に関わることだと思うだろう。だが、そこで観念される「みんな」とは誰だ? どこまでを指す? 奴隷や被差別民は入るのか。家畜は入るかもしれないが、野良犬はどうだろう。高い壁で仕切られた向こうの貧民街で大火が起きたなら、富裕民は(たとえ壁向こうの全てが焼き尽くされようとも)自分の問題とは見ないかもしれない。公共性を規定する「みんな」の観念は、どこまでをその範囲に含めるかという、至って政治的な意識/無意識に左右されているのである。公共的であることは、かくのごとく、政治的であることに規定される。

無論、公共性には開かれている(open)という性質も含意されることがあるのは知っている*5。だが、私たちが「みんな」を観念する際に無意識的にであれ何らか特定の範囲のみが想定される以上、公共性は常に一定程度、閉じた共同性としての性格も帯びる。あらゆる方向に開かれているという意味での純粋公共性(無限の公共性)は、不可能である。公共性が政治に先立つことはない。むしろ、こう考えるべきなのである。開かれてあることは、自然に達成されることではなく作為の産物である。したがって、公共性とはあくまでも現実に対する批判を含んだ、規範的理念なのである、と*6。

「政治が公共性に先立つことはいいとしよう。だが「権力の凝集が先にあり、その正統化は後から来る」とは言い過ぎではないか?」――それは検討に値する。確かに火事の例では、その政治性はともかくとして、「みんな」=「公共」の認知が権力の凝集に先立っているように思える。ならば、公共的な仕事の存在は、権力とは独立に観念できるのではないか。

ここで問題となるのは、迫り来る炎というイベントに遭遇することで、それに共通して(common)関わる「みんな」が観念された際に、そのことが即「公共public」の所在を捉えるに至っているかどうかである――解りにくかろう。前言を翻すようであるが、考えてみるべきなのだ。「みんな」に関わっていることの全てを、私たちは公共的な問題として扱うか? 恋愛や性愛は「みんな」に共通して関わる事柄であるが、危険や暴力を回避可能な限りで、その活動は純粋に私的な自由に任せられる。デートやらキスやらセックスやらの仕方が決まっているわけではない。睡眠や排泄も同様であろう。つまり、commonであることが、直ちにpublicであることを意味するわけではない。私的自由の範囲を決定するべく曳き込まれる共通性(差異)は、選択的に決定されるのである。

火を消そうとする人々は、まずそれが自らの利害であるからするわけであり、初めは個別の私的利害が遍在しているに過ぎない。その共通性の認識は、確かにcommonとしての「みんな」の存在を観念させるだろう。そして、予め組織化が為されていないところで組織立った消火活動が行われるとすれば、それは、そうすることが互いにとって共通の利益になると感得した人々によって自発的に為されたのである。この共通利益の感得には、声の大きな人が号令をかけ、逃げようとした人々を半ば無理矢理に従わせながら消火活動を行う場合も含まれる。たとえ脅迫によるものでも、逃げようとした人の側で、殴られたり後で罵られたりするよりも従った方がマシである(利益になる)という判断が働いたのならば、それは権力作用を媒介にした共通利益の感得なのである。この共通利益の自発的な感得メカニズムをconventionと呼ぶなら、それは権力を凝集・組織するメカニズムである。

ここから生起した権力機構は消火という特定の目的のために事実上成立したものであり、その駆動原理は特定の私的利害に基づいている。つまり、私的利益の集積とは一応区別される、全体としての公益(「みんな」のニーズ充足)に基づくものではない。publicとしての公共の把握が現われるのは、凝集した権力が目的達成後に残存して組織・機構が常態化するときに、それが奉仕すべき目的と範囲を規範的に枠付けるための想定として持ち出される時点においてである。公共的なものは、事実上の権力に対する「期待」として権力に割り当てられる形で出現するのであり、権力の凝集に先立って権力から独立した形で観念されることはない。

定義を修正しよう。公共的であるpublicということは、「みんな」に関わっている(common)・がゆえに、「みんな」で考えるべき、ということである。公共的な決定とは、何らかの政治的手続きを経て正統性を獲得(「みんな」の同意を調達)しなければならないとされる決定を意味する。それゆえ、公共の定義が「政府が対応すべき範囲」とされることがあるのは、理にかなっている。公共的な仕事には個々の自発的な活動によって行えるものもあるが、その多くは公共的な決定を経て組織された形態によって行われる。権力の制度化が進んだ領域では、公共的な決定の多くは統治機構を通じて行なわれることになるが、社会内の多様な個人・集団が政治的手続きを経ない形で事実上の影響力を保持している場合には、公共的な決定機会は統治機構外にも遍在していることになる。

つまり、政府以外に権力を保持する主体が存在しているなら、そうした主体にも「みんな」のニーズへの対応が求められるのは自然である。そうして公共的な仕事を担うべきとされた非政府的主体の意思決定は、政治的正統化手続きを要する範囲に含められることになる*7。したがって、公共的であることが政治的であることに規定されるという見方は、公=官の対応関係を疑わない「古い公共」の名残りなどではなく、むしろ事実上の権力が存在するところに公共領域を見出すことを通じて、公共性の担い手を多様化する「新しい公共」に結び付くと言えよう。


政治的なものの可能性――現代における



おさらいをしよう。公共的であるということは、政治的正統化を必要とするということだ。なぜ政治的正統化を必要とするのか、ではない。政治的正統化を必要とするものが公共なのである。公共的決定が「何らかの政治的手続きを経て正統性を獲得(「みんな」の同意を調達)しなければならない」とされるとき、いかなる「政治的手続き」が採られるのか、同意がいかにして調達される(と見なされる)のかは、ここでは問題ではない。公共的であることが幾重にも政治的であることに規定されていることが問題なのだ。

すなわち、公共的なものごとには政治的な手続きを経て正統性を付与せねばならないが、そもそも何が公共的であるのか(何を政治的手続きに付すべきか)の判断は、それ自体政治的に決定されるしかない。それゆえ、何を公共的と見なすべきであり、その判断がいかにして下されているかという次元と、公共的と見なされるものごとが(統治機構の内外を問わず)現にいかにして決定されているのかという次元において、公共的なものをめぐる議論は政治的なものの考察へと還元されることになるだろう*8。

もちろん、公共的な仕事(権力に期待される・権力が為すべき仕事)の全てが、政治的手続きを経なければすることができない、ということではない。市場を通じて人々のニーズに応える企業は、サービスの対価を求める点で政府とは異なるが、その事業に内在ないし外在する形で、直接の対価を求めずにサービスを提供することを通じて公共的仕事を為すことができる(私的であると同時に公共的な行為)。しかしそれは、あくまでも企業の自発的な行為によることであり、そしてそうであることが、「古い公共」が前提とする公私二分論や、公=官の対応関係の帰結であった。

だが、グローバルな相互依存や情報化、科学技術の専門分化などを背景に、政府に限らない企業や団体が広範かつ大規模な影響力を社会に対して有していると前提するなら、そしてそのような力を持つ主体には当然に公共的な役割が期待され、その意思決定は政治的正統化手続きに付されるとの論理を適用するなら、その帰結として、もはやいかなる企業・団体も(あるいは家族、個人も?)、その決定過程を外部に開くべしとの要請をはねつけることはできないのである。

言うまでもなく、このことは「新しい公共」万歳、などと単純に諸手を挙げて喜べる事態ではない。このようにして政治的なものの遍在とその公共的意味を追認することが、社会内の(事実上の)公共的決定契機を既存のフォーマルな政治過程に乗せていくことを意味するのであれば、それは国家権力の介入可能範囲――それは政府の財政規模とは無関係である――を拡大することに繋がる*9。他方で、公=官の対応関係を否定して事実的な権力を公共性の担い手にさせていくことが、非政府的主体が個別日常的に行なっている業務と公共的ニーズへの対応を区別する基準を失わせる*10。全てが政治的でありうることに留まらず、今や全てが公共的であることになってしまうのではないか。私たちは、社会内の全てのものごとについて、いちいち「みんな」で集まって話し合うことをしなければならないのだろうか。

そこで最近一部で見聞きするようになった、「ジャスコの公共性」とでも呼べるものについて考えてみたい。要すれば、都市郊外や地方のショッピング・モールが地域のインフラとして老若男女誰にでも欠かせない存在となっている、ということを指摘する議論であり、その象徴としてジャスコが挙げられているのだと思う。従来、こうしたショッピング・モールのような大型店舗は商店街など地域の経済を破壊したり、画一的な造りのために地域文化を失わせたりするものとして、批判的に採り上げられることが多かったところを、そう単純に割り切れるものではない(画一的なように見えて実際には地域ごとに土着化(?)しているのではないか、など)として価値転換を迫っているのが議論の核心だと考えられる(詳しくは知らない)。

大型店舗の郊外への出店が地域経済・社会に悪影響を与えると一概に言えるかについては慎重な判断が必要だが、一般に言って近代的な「システム」(ここでは行政および市場のように規格化された形でサービスを提供する制度やメカニズムと受け取って欲しい)が生活に深く浸透するにしたがって、前近代的な地縁的・血縁的結合は崩れていくと考えられる。行政にせよ市場にせよ、そこには独自の論理(合理性)があり、その外部にある人間関係や情動は基本的に(そのままの形では)顧慮されない。しかし、実は近代的なシステムの円滑な駆動を、その外部にある前/非近代的な条件が支えている場合があり(この点は「社会関係資本」などの枠組みで指摘されている)、システム化による前近代性の破壊はシステム自体の基盤を掘り崩すような逆機能を生むことがある。

近年の司法制度の運用を採り上げながらこの点を指摘しているのが、和田仁孝である*11。和田によれば、本来近代法のシステムは「事件を素材として,法的問題を構成し,これに法的処理を施すという,ある意味で自己言及的なシステム」であり、被害の回復や真相の究明、正義の実現などを期待する人々の感覚からして「部分的な応答性しか有していない」。そのような部分的応答性しか持たない司法制度がまがりなりにも受容されてきたのは、「家族,地域共同体を初め,他のとりわけ共同性を残した社会的諸制度」が、法システムが満たせない様々なニーズを「吸収」することで、人々の期待が「あるいは手当てされ,あるいは抑圧されることで,ともかくも処理されていた」からである。それゆえ、「近代法の優越によって,共同的社会関係が払拭され,法的権利・義務・責任によってのみ規律される法主体的関係性がそれに置き換わっていく」にしたがって、「法はその機能的偏頗性,虚構性を覆い隠してくれた協働者を失うことになり,自身の限界を露呈していくことになる」。和田によれば、現在の裁判過程に感情が横溢しているのは、こうした基盤喪失によって法システムが本来応答を予定していなかったニーズが直接司法に向けられた結果なのである*12。

和田の指摘を、法システムに限らない近代的システム全般の問題として受け取ることは、不自然ではないはずである。政治・行政や市場もまた、法と同様の「自己言及的なシステム」としての性格を持っている*13。「ジャスコの公共性」もこの文脈で捉え返すことはできないか。つまり、システム化による前近代的共同性の破壊が、システムへの従来予定されていなかった期待を生起させている、という意味で。

ショッピング・モールなどの大型店舗に限らず、コンビニなども同様であるが、そもそもこれらは市場原理によって地元の事情とは無関係に出店・撤退を自在に為し得るはずである。だが、そのような純粋な市場原理を貫けるのはシステム外の共同性(ないしは代替的な他のシステムの機能?)を人々が頼れる限りにおいてであろう。システム化の進行によって基盤が壊れ、一旦ジャスコやセブンイレブンが人々にとって枢要なインフラとなれば、これら企業の公共的役割が肥大化していくことは避けられない。

こうした公共性は、市場システム内部の目的合理性からすれば不純物でしかないが、システムが孤立して存在することはできない以上、対応策は(1)システム外の共同性を再建する(ないし他のシステムの機能を拡大する?)か、(2)目的自体を広げるしかない。(1)が可能ならば試みればいいが、近代化に逆行しない形でそれを為すには工夫がいるだろう。どう工夫すべきかは、私には分からない。そこで(2)であるが、これはすなわち、企業の公共性の担い手としての性格を正面から認めるということであり、前述の公共性の全面化の問題と結び付いている。

企業の目的を広げることはありうるとしても、目的を無限にすることはできない。資源は限られているからである。したがって目的は単純に拡大されるのではなく、ステークホルダーを加えた「政治的手続き」の中で再定義されるべきなのである。事実的な権力体の目的をステークホルダーによって再定義していくことは、公共性の全面化を避け、公共の範囲を適宜区切っていくために必要なことであり、どこまでの範囲でどこまでの役割を果たすべきなのかを限定することで事業の予測可能性を確保できるという意味で、企業などの非政府的主体にとっても有益である。

和田は「法専門的な法廷を維持しようとする法律家」と個別的に解釈された法廷像を現出させようとする被害者家族との間で、「「場」の構築をめぐって様々な抵抗と抑圧の試み」が行われていることを描いているが、これは、裁判の目的をめぐる対抗的・敵対的な形での再定義であると解せる。政治や経済のシステムにおいて、非政府的主体の事業目的を再定義する「政治的手続き」はどのようなものでありうるか明らかでないが、それは法システムについて和田が描くような対抗的形態でもありうるであろうし、何らかの制度化を目指すのであれば、より協調的な形態も考えねばならないだろう。

ステークホルダーを非政府的主体も含めたガバナンスの担い手であると考えるなら、公共publicのステークホルダーによる再定義は、いわばガバナンスの自己限定であり、現代における政治的なものの可能性を現実の中に秩序化していく作業である。



*1:そのような具体的なイシューの中に現れるミクロな政治を集めても、単一のマクロな権力構造を描けるわけではないということを重視する文脈から、存在するのは小さな政治だけだと言われることがある(川崎修「〈政治〉と「政治」」『「政治的なるもの」の行方』岩波書店、2010年、1章を参照)。だが、確かに「棟梁的な」、つまり社会全体を統括するような営みとしての(大きな)政治が存在しないとしても、個別のイシューに共通して見出されるミクロな「政治」性が存在するのであれば、なお「政治的なるもの」について語る一般理論の存在意義はあるように思う。

*2:田村哲樹「親密圏における熟議/対話の可能性」田村哲樹(編)『語る――熟議/対話の政治学』(「政治の発見」5巻)、風行社、2010年、2章。

*3:杉田敦は、経済(「家政」)や宗教(「教会政治」)が私的=非政治的な領域とされたのは、近代以降の歴史的規定であったことを指摘している。杉田敦「政治と境界線」『境界線の政治学』岩波書店、2005年、1章。

*4:例えば恋人や夫婦間で主導権を握るべく争われるゲームは、対立と解決の過程を含む点で、政治的性格を有しているであろう。市場取引もまた、資本を権力資源とした問題解決メカニズムとして捉えれば、政治と見なせる。

*5:齋藤純一『公共性』岩波書店、2000年。

*6:おそらくはこのことが、公共的なものと政治的なものを人々に混同させる要因であり、また、長く「棟梁的な」営みとしての政治(学)を支えてきたアイデンティティの源泉であった。森政稔が、統治性の両義性(権力性)を十分に意識しながらも、なお欠かすことはできないと説く、政治が社会に対して持つ「リフレクシヴな関係」も、この点と無関係ではないはずである(森政稔「〈政治的なもの〉と〈社会的なもの〉」『社会思想史研究』34号、2010年、8-22頁)。「社会の自己反省装置としての政治学」(宇野重規「いま、戦後政治学を読み直す」『UP』461号、2011年、2-7頁)の在り方については、他日を期したい。

*7:公共料金、公共放送、などといった呼称を想起しよう。

*8:なお政治から自立した公共性概念がありうると思うのならば、事実的な権力が、なぜ公共的であろうとするのか、すなわち人々の同意を取り付けることによる正統化の要請に従うのか、ということを考えてみればよい。それはそうすることが権力にとって都合がよいから、つまり正統化を経ずに統治・支配を続けることによる反発・転覆のコストおよびリスクに耐えられるほど強くないから、であろう。それは政治的対抗関係の所産である。

*9:政治の「社会化」と、その結果としての政治権力の再編成については、以下を参照。川崎修「「政治的なるもの」の変容」前掲書、2章。川崎修「「現代思想」と政治学」前掲書、3章。



*12:和田の指摘とは別に、政治の「社会化」=「社会の政治化」の時代における司法制度の決定的重要性はそれとして論じられる必要があるが、私にはその準備がない。

*13:法システムにおける「アトミック」で理性的な法主体は、市場システムにおいては経済主体、いわゆる「合理的経済人」に対応するだろう。


Thursday, February 10, 2011

熟議的な熟議と、そうではないもの


日々不勉強を沁み込ませている身では、専門的なことについて何かを言うということははばかられるのですが、しかしそれでも感じたり考えたりしていることを折々に吐き出しておかないと、いつまで経っても何も言えないことになるので、最近細切れに書き付けていることなどをラフにまとめておきます。お題は「熟議」です。


Monday, December 13, 2010

ステークホルダーの両義性――あるいは政治主体としてのステークホルダーについて


数ヶ月前に私は、「ステークホルダー・デモクラシーの可能性」なる文章を公表しました。十分だったかどうかは分かりませんが、そこでは、経営学でのstakeholder theoryの文脈を押さえつつ、stakeとstakeholderの語源・語義を簡単に整理して、「公共化された利害関係者」としてのstakeholder概念のニュアンスを明らかにしたつもりです。

その際の意識は主に、「ステークホルダー」なる新奇な言葉を使うことに懐疑的な人への説明にあったのですが、その後、事業仕分けを巡る議論などを眺めていると、むしろステークホルダー論を積極的に振り回すようなタイプの人々にある種の怖さを覚えるようになりました。


stakeholder theoryは元々、企業の活動から影響を受け、企業に対して重大な利害を有しながら、意思決定への影響力を持ち得ない主体を再定義する所から出発しました。stakeholderはstockholderと対比される形で概念化されましたが、その内部に株主を含んでいます。したがって、ステークホルダー論は本来、単に組織や集団がその外部に広がる社会への応答性を高めねばならないというだけの話ではなく、組織・集団の内外を問わず、重大な利害関係を有する主体を決定過程に包摂し、内部化すべきであるとの主張を含んでいます。そこで包摂すべき主体として概念化されたのが、「ステークホルダー」です。

ステークホルダーが決定過程に内部化されるべき主体であるということは、決定はステークホルダーに委ねられる、ということです。つまりステークホルダー論には、(1)組織・集団の社会への応答性を高めると同時に、(2)その社会から区切られた特定のステークホルダーには特別の地位や権限を認める、という二重の含意が最初から伴っています。もちろん、その特別性は、決定過程を担うべき主たるステークホルダーの外部に拡がる、周縁的なステークホルダーとしての社会への応答性に担保されなければなりません。しかし、それでも基本的には、ステークホルダーと認識される主体には自律的な地位が与えられて然るべきなのです。

ところが、組織・集団の社会的責任を問う文脈でステークホルダー論が人口に膾炙するにつれ、特定の組織・団体に割り振られている特権・利権を社会の側が剥奪する(分捕り返す)、といった類の話へと矮小化・意味変換がなされつつあるのではないか。事業仕分けに象徴的なのですが、近頃そのような印象を覚えることが多いです。社会的責任や社会貢献といった言葉が、(財源問題をテコにしながら)薄く広い利害のために、濃く強い利害を持つ特定部分から何かを引っぺがしてくるために用いられるとすれば、それはステークホルダー論の逆用と言うべき事態であり、そのような誤解釈は避けられなければなりません。


事業仕分け的なものは評価が難しいのですが、少なくともそのポピュリスティックな部分というのは、過去の権力構造への反動として現れているもので、個別の事業に対して薄く弱い利害しか持たない「社会」や「国民」が従来の利益配分を蹴散らすことができるのは、権力構造の変容が、彼らにその権力をもたらしたからです。従来の偏りに対する批判が別方向への偏りを生むのは避け難い面があるとはいえ、ニーズ自体は変わらず存在しているのですから、分捕り返しへの執心は止めて、適切な利益配分を為し得る枠組みの構築を考えるべきでしょう。

権力は、集合的で匿名的な「国民」にあります。彼らは、何に対しても薄く弱い利害を持つ周縁的なステークホルダーとして存在します。しかし、その内部を貫いて共通する利害は「財源」などに限られており、利害に見合わない大きな権力が持て余されているように見えます。そうであるならば、その権力は、個別の単位や政策領域ごとにステークホルダーへと分割・移譲されるべきではないでしょうか。ステークホルダー論は、既存の権利義務関係に限られない利害関係の実態に即して、決定過程を再解釈へと開くものです。利害と権力の非対称性を問題にして、利害に応じた権力の配分を求めます。もしステークホルダー論を振りかざそうとするのなら、匿名的な「国民」が直接関与する段階を限定する方向へと舵を切るべきでしょう。


若干くどくなるかもしれませんが、もう少し大きな構図の中で話してみます。グローバルな相互依存を前提に、企業の経済活動が社会に大きなインパクトを与える可能性が大きくなるほど、その意思決定には企業市民としての公共的責任が伴うようになります。社会の多様化・複雑化と資源の制約性に伴って政府の統治能力が限界に直面し、従来のヒエラルキー型ガバメントから、ネットワーク型ガバナンスへの移行が語られる中で、企業やNGO・NPOなど、非政府的アクターが政府と共にガバナンスを担う主体と見なされるようになっています。すると、コーポレート・ガバナンスもまた、単なる私企業内部の統制に留まらず、ガバナンスを担い得る公共的アクター内部のガバナンスとして、(グローバル/リージョナル/ナショナル/ローカルなど)マルチレベル・ガバナンスの一層に位置付けられることになります。

つまり、企業に対するステークホルダー論というのは、社会内に拡散しているサブ政治を公共的なガバナンスの問題として捉え直す意味を元々持っている(少なくとも持ち得る)のです。企業に限った話ではありません。非政府的アクターがその外のガバナンスに対してステークホルダーとして参与するのと同時に、当の組織・集団におけるガバナンスにも、内外から多様なステークホルダーが関わるのでなければなりません。ステークホルダーとは、ガバナンスの主体なのです。政治主体としてのステークホルダー概念が、単なる狭い内輪的な利害関係者ではなく、「公共化された利害関係者」として捉えられなければならない理由は、ここにあります。

ステークホルダー論は、決定を濃く強いステークホルダーによる自律的な合意に基づかせるとともに、その外に薄く弱く広がるステークホルダー(社会)への応答性を備えねばならない、との二重性を抱えます。なぜ今その二重性が必要になったかと言えば、利害関係の分布が多様化・複雑化して、従来の利益集団のような利害の均質性を前提できなくなったからです。ガバナンスが対応すべきリスクは不確実であり、個別のイシューについて誰が利害関係を持ち得るのかは自明ではないため、ステークホルダーの範囲は既存の境界線やメンバーシップとの必然的結び付きを持ちません*1。
労働組合の代表性の問題がよく採り上げられるところですが、ステークホルダーの概念化には、既存の利益代表を刷新して代表性を再構築しようとする意図が刻印されています*2。誰が決定すべきか自明でないから、その範囲を再定義するために境界線を一旦外へと開こうとするのですが、それは再び閉じるためです。ステークホルダーとは、開きながら閉じ、閉じながら開く概念なのです。それゆえ、ステークホルダー論を支持するのであれば、決定を担うべきステークホルダーに社会が信任を与えてあげなければなりません。社会への応答性要求は、この信任とセットでこそ論じられるべきものなのです。


*1:それゆえに、ステークホルダーを社会から区切るべく、既存のカテゴリに囚われない「ステークホルダー分析」が必要とされます。

*2:代表性の問いは、「ステークホルダー代表」の問題として再設定されることになります。


Thursday, March 25, 2010

リスク社会における公共的決定2――「トンデモ」批判の政治性と政治の未来


今日は少し、色々な文脈を縫い合わせるようなお話をしてみたいと思います。例によって長いですが、ご関心の向きはしばしお付き合い下さい。


Saturday, October 24, 2009

ポストモダンが要請する新たな政治パラダイム――Stakeholder Democracyという解


私はリアルタイムで見ていたのですが、昨日の『朝まで生テレビ』に出演した東浩紀さんが、「インターネットがある現代なら、5~10万人の規模でも直接民主政が可能だ」と力強く語っていました。この発言は、これまで彼が展開してきた一連の議論の延長線上にあるものなので、彼の読者にとっては特段新鮮な印象を与えるものではありませんが、その内容が刺激的なものであることは確かです。

過去に何度か採り上げているように、デモクラシーの新たな形についての東さんの提起に対して、私には賛成できるところとできないところがあります。明確に賛成できるのは、私たちが置かれている「ポストモダン」という社会状況についての認識と、「政治的意思決定の仕組みというものを原理的なところから考え直してみる必要がある」との問題意識に対してです。「ポストモダン」なる社会認識については、昨年「現代日本社会研究のための覚え書き」と題したシリーズ記事で多面的な観点から現代社会を分析した結果、東さんのポストモダン論が概ね支持し得るものであるとの確かな感触を得ています。

他方で賛成し難いのは、彼がいわゆる「選好集計モデル」、つまり各々のメンバーが予め持っている意見や立場を単に集計すれば最適な意思決定が得られるとの想定に依拠していると思われる部分です。今回はSNSに言及していますから、ただ電子的投票を行うだけでなくウェブ上で直接討論するということも含めて「直接民主政」を考えているのかもしれませんが*1、彼の一連の議論において政治過程の中心イメージは常に「投票」であり、「討論」への言及が為されることはまずありません。しかしながら、既に別の記事で論じたように、「自分の欲求を実現するためには、所与の選好のまま投票するよりも、意見の違う人と話し合ってから判断した方が良い場合もあ」りますから、「私たちの自己決定(自分が望む結果をもたらすような決定)を可能にするためにこそデモクラシーがあるとすれば、直接投票が常に最も民主的な方法であるとは限らない」のです。


東的デモクラシー論に賛成できる点と賛成できない点をそれぞれ敷衍させる形で、さらに話を進めていきたいと思います。「覚え書き」で詳細に検討したように、ポストモダンとは、社会が高度に流動化し、「島宇宙」化し、共通前提を失ってより小さな単位へと切り離されていく(個人化)状況を表しています。政治家や官僚が忖度する「民意」なるものは、元々各種調査の対象としてしか存在しない何か漠然とした集合体でしかないわけで、本来は内部に差異や対立を抱えて一つにまとめようもないものを無理矢理にまとめあげているに過ぎません。したがって、解釈の客体としてしか在り得ない「民意」は常にフニャフニャと捉えどころのないものとしてしか現れず、その「代表」とはただでさえ融通無碍なものです。ゆえに、社会の一体性が失われていくポストモダン下では、全体を統合的に「代表」することが一層困難・無理な行為となり、本来は全く立場を異にする人々を糾合して疑似的な連帯を創出する「ポピュリズム」が不可避的に帰結されるようになります*2。

これは、従来の「代表」統治、すなわち一元的政治過程における政府統治=「ガバメント」の限界を示す認識にほかなりません。社会は多様化・細分化しているのに選択の余地がほとんど無い二大政党制では対応できるわけがないとの不満はここから来ていますし、政治的有効性感覚の低下と無党派層の増加の最大の要因も、同じところに発しています。だから東さんが政治的意思決定の仕組みを根幹から考え直すべきだと主張することは物凄く理にかなっているし、90年代以降の政治学的認識とも大略一致するわけです。特に政治理論の分野で言えば、従来型の「利益集団自由主義」に対抗して出て来た「討議/熟議デモクラシー」が現在トレンドになっています。ただし、これは先に述べた「選好集計モデル」を批判して、投票よりも市民・政府・専門家を含めた討論過程を重視する考え方なので、東的デモクラシー論とは方向性が異なることに注意が必要です。


私自身はと言えば、討議/熟議デモクラシーの議論に大きな関心を寄せつつも、それとは微妙に力点が異なるStakeholder Democracy(利害関係者民主政)を新たなデモクラシー像として提唱しています。この考え方は、個々の主体が有する私的な利害関心を重視して、多様な利害関心が政治過程に伝達・反映されるための回路を再整備しようとすると同時に、従来の政治過程から社会内へと決定権を積極的に委譲して「利害関係者stakeholder」間での合意形成による決定および執行を支援・推進する点に特徴があります。ポストモダンでは従来の政治過程の外に巨大な影響力を有する企業や個人が存在し、政治課題の専門性も高まっているため、「ガバメント」の修繕・改良としての作業と並行して、「政治の遍在」を視野に入れた一般統治=「ガバナンス」を制度的に構築していかなければならないとの問題意識が前提されているのです*3。

「ガバナンス」と言った時、それが単なる「市民参加」であっては意味がありません。何か漠然と一枚岩的な形で観念された「市民」は、結局抽象的な「国民」の別の名でしかなく、代表統治を補完するための付属物にしかならないからです。現在盛んに論じられている討議/熟議デモクラシーを私が片手落ちだと思うのは、政治的意思決定の在り方を刷新する様々なアプローチを提起してはいるものの、従来の政治過程(ガバメント)の外で何ができるかということ(ガバナンス)への関心が相対的に低く、社会内の「サブ政治」を含めた決定過程一般に適用可能な理論的成果が豊かとは言えないことです。この理論の「公共性」志向もその一因でしょうが、そのようにして大文字の政治から独立しきれない理論は、ややもすれば昔ながらの「参加民主主義」に話し合うことの大切さを付け加えただけで、やがて後景に退いていくかもしれません。


ガバメントの改善と同時にガバナンスの確立が必要であるということは、「代表」と並立して「自治」、ないしは少なくとも「代理」の政治が存在しなければならない、ということです。しかし、もはや「代表」が困難だと言うなら、「自治」ないし「代理」だけで行ってはダメなのでしょうか。東さんはインターネットのようなコミュニケーションツールの発達次第で直接民主政が可能な規模は拡大していくのであって、直接民主政の実現を阻んでいるのは物理的な障害と、それに規定された人々の想像力不足だけだと言います。これは、理論的に言うなら究極的には「代表」は廃止できるし、廃止すべきである、との捉え方であると解するのが自然でしょう。ですが、政治学的観点から言わせてもらえば、「代表」の存在理由はそれほど簡単に割り切れる話ではありません。

ポイントの理解には、憲法学における「国民nation」と「人民peuple」の区別が役立ちます。これは私が極めて重要だと考えているために何度も繰り返し書いていることでありまして、コンパクトに説明した記事と平易に語った記事の両方を参考にしてもらいたいと思います。肝心なのは、具体的な直接行動が可能であるために「代理」原理との結び付きが強い政治的意思決定有能力者としての「人民」には、精神障害者や年少の子どもが含まれないことです*4。非「人民」にも利害は存在しますが、彼らはそれに基づいて「自治」を行うことはできませんし、そのまま「代理」してもらうことも望めません。もちろん一部の「人民」が身近な非「人民」の利害に「共感」してそれを自らの利害に同化させて行動することは有り得ますが、理論的に言えば、政治的意思決定無能力者の利害をそれとして忖度できるのは「代表」政治だけなのです*5。

「人民主権」の怖いところは、部分の利害を体現する政治主体が全体を動かしてもよいと公式に認め、政治的無能力者の意思――あるいは政治的敗者の意思――は考慮するに足らないとする果断さにありますが、グーグルやツイッターによる「数学的民主主義」の実現に期待を寄せる論者も同じ果断さを持てるのでしょうか。

私は、無理だと思います。「人民主権」による「代理」統治には、時間軸もありません。現時点で直接に行動できる政治主体の利害が全てなのです。一般の人々がそのような政治を望むとは思えません。過去世代や未来世代を含んだ超歴史的な「国民」概念による代表統治とは、決定的な違いがあるのですが、「代表」と「代理」の別と言っただけでは、普通はここまで考えられてはいません。直接民主政への障害は規模だけだと主張する東さんも、多分この問題を真剣に考えたことは無いのではないでしょうか。「自治」はおろか、「代理」してもらうことさえできない主体が存在し、私たちがそれを切り捨てることができない以上*6、抽象的な「国民」が「代表」される契機を全廃することは不可能なのです。私は、ここに代表政治の不滅性を宣言することができます。


かくして、曖昧な「民意」なるものへの拘泥からも、私たちは完全に自由となることは望めません。しかし、注意を喚起しておきたいことがあります。性質上、「民意」や「世論」は代表統治に対応するものですから、現在ではガバメントの限界に伴い、その機能的意義は低下しているのです。つまり、本当で言えば、「国民」の統合感が衰えてきているので、「民意」なるものに踊らされる必然性はどんどん掘り崩されていっているはずなのです。ところが表面的には、通俗的な意味での「ポピュリズム」が云々されるように、「民意」への過剰な配慮や忖度がますます問題とされるようになっています。「民意」が過剰に仰がれていることよりもむしろ、実質的な有効性が失われつつあるにもかかわらず、未だに――あるいは今になって――代表統治的観念が枢要な認識枠組みとして重視されていることこそ、真の問題なのです。

したがって、為されるべきことはシンプルです。ガバメントではなく、ガバナンスに対応する新たな概念を生み出し、代表原理と自治ないし代理原理とを両立させるような総合的な認識枠組みを構築すること。そうした作業が必要とされているのです。「民意」とは別の新たな概念としては例えば「利害関係者意思」のような言葉が有り得るのかもしれませんし、Stakeholder Democracyこそ新たな認識枠組みの役割を果たすものでなければならないと、個人的には思っています。


最後に。代表政治は不滅だと、私は言いました。それは「国民」が、ナショナリズムが不滅だと言うことです*7。しかし、ポストモダン化が進行する中で、ナショナリズムの形も変わっていくとは思いますし、変わっていくべきだとも思います。私は、政治的無能力者にも利害は在るんだとも言いました。インターネットを介した直接民主政では彼らの利害に配慮することは難しいですが、彼らが独自の利害を有していることを明確に認定し、同時に彼らは有能力者と対等な社会のメンバーであると示す簡単な方法があります。ベーシックインカムです*8。同じ「国民」として社会というゲームを共有する者には、同じ「賭け金stake」が配られるべきです。たとえ自分自身では賭けられないとしても、彼の前にチップを置いておくことには意味があるのです。


*1:しかし「パブリック・コメントを洗練させる」としか言っていないことからすると、討論までは視野に入れていないのかもしれません。

*2:例えば「官僚」のように、「アイツがみんな悪いんだ」とスケープゴートをつくってしまえば、目指すところが全然違う人同士でも話が成り立つわけです。

*3:なお、この「ガバメント」と「ガバナンス」の用法は私独自のもので、政治学一般で通用するものではありません。ただし、両概念の対比は近年しばしば行われています。

*4:投票権を持たなくても他の政治的活動は可能なので、未成年全般が政治的無能力者であるわけではありません。

*5:もっとも、その場合の無能力者たちは抽象的な「国民」に含まれる一要素として観念されるに過ぎないわけですが、それでも考慮されるのとされないのとでは大きな違いです。

*6:過去世代や子どもの利害を切り捨てることは、自らの存立の基盤を切り崩すことになります。

*7:おや、これは私が「覚え書き」で書いた主張とは矛盾する見解かもしれない。自分で書いていて気付きました。ただ、大きくは強調点の違いだと思いますので、敢えて調整せずに公にしてみます。

*8:ベーシックインカムには東さんも多大な期待を寄せているようですから、その点では未来国家像において近いところがあると思います(全部が全部ではありませんが)。東さんの言葉で言えば「ポストモダンの二層構造」における下の部分、つまりセキュリティの層においてのみ機能するのがこれからの国家で、それを体現するのがベーシックインカムである、と。


Saturday, October 17, 2009

当事者と利害関係者の違い


「当事者と利害関係者」@Soul for Sale PhaseⅡ、より。


ステイクホルダーという概念が社会問題の中で有効に機能するのは、これまで発言を認められてこなかった人々を「当事者」として当該の出来事の中に巻き込んでいくときだ。それは会社経営に権利を持つ、株主と経営者以外の人々は誰かとか、環境問題に対する、「直接の影響」を被る範囲はどこまでかとか、そういう場面で噴出する。だからステイクホルダーとしての当事者は、必然的にその境界を揺るがし、曖昧にしていく傾向にある。

それに対して社会問題を扱う研究者にとっての「当事者」とは、これまで「蚊帳の外」だった人々に、物言う権利があることを示し、彼らの声に耳を傾ける必要性を訴えるという点で、人を「アイデンティファイ」する振る舞いに関わっている。つまり「誰が当事者か」という問題を確定することから、社会問題の性格付けを変えるというものなのだ。そしてこの言葉は、何らかの「アイデンティティ」を必要としている人々を巡る社会問題の中で使われがちであることを含め、どちらかというと「境界を確定する」ために用いられることが多いようだ。

もしかしたらそれで大した問題はないのかもしれないけど、例えばまちづくりに関する「当事者」とは、「そこに住所を持つ人」なのか「そこを訪れるすべての人」なのか、なんてことを考え出すと、「当事者を巡るポリティクス」は、とたんに問題の本質へと切り込んでくるものになる。また、時間の話も重要だ。いまある状態にいる人だけが当事者なのか、それともかつてそういう経験をした人はみな「当事者」たる資格を有するのか。その辺りのことって、誰か考えているんだろうか。

本当なら、何か別の言葉を発明した方がいいのかもしれない。アイデンティティ・ポリティクスと社会問題の関係は複雑だし、ましてや研究の世界でそれを扱うとなると、すごくデリケートな問題が多々発生するのだし。きっと「私たち・が・当事者だ」というのと「私たち・も・利害関係者だ」という物言いとの間にこそ、マジモンの権力が横たわっているのではないか。


「その辺りのこと」は、私が考えています。正確に言えば、考えた結果を既に論文の中で書きました(『利害関係理論の基礎』、第1章第5節2「利害関係者と当事者」)。当事者概念と利害関係者/stakeholder概念のそれぞれについて考察されたものは幾つもありますが、二つの概念を比較して異同と理論的関係性について詳細に検討を加えた例は稀有なはずです。


stakeholder概念が「境界」を曖昧にしていくのに対して、当事者概念は「境界」を画定しようとするとの指摘は的確だと思います。ただ、stakeholderという言葉を使う人も何らかの利害関心・問題関心からそうしている以上、曖昧にするだけして、そのままでいいとは思わないでしょう。その人たちも、普通はどこかで画定へと向かうはずなのです。他方で、当事者概念によって「アイデンティファイ」を行おうとする人たちだって、今まで「蚊帳の外」だったことへの異議申し立てとしてそうするわけですから、既存の「境界」を揺すぶるというプロセスを必ず経ることになります。

つまり、異なる文脈で使われがちであるように思われる二つの概念ですが、それぞれが社会問題の中で占めている位置と言うか、果たしている機能は大して変わらないのです。ほとんど同じだと言ってもいい。文脈が違うように思えるのは、使う人の強調点の違いが反映されているためだと考えるべきでしょう。


stakeholderの範囲を問題にして、利害関係って何だろうかと真剣に考え始めると、それはどこまでも際限無く広がってしまい得るものだということに気付きます。利害関係の中身は理論上何でも有り得ますから、ある問題に対して、誰もがstakeholderで有り得るのです。当事者概念がstakeholder概念と違うのは、そこで既存の「境界」を問題にする時に、「境界」の中に入って「物言う権利」を認められるべき主体が、人物単位・属性単位で予めハッキリと想定されていることです。誤解を恐れずに言えば、stakeholder概念は手続き、当事者概念は結果に相対的な力点を置いていると捉えるのが解り易いのかもしれません。

敢えて意地の悪い言い方をすれば、当事者なるものは、誰の声を重んじて誰の声を無視するのかという排除の意志を、より露骨な仕方で伴わせている概念なのです。無論、急いで付け加えなければなりませんが、「境界」の画定という排除を必然的に伴う点では、利害関係概念も政治性と無縁ではありません。ただ、そうした政治的な価値意識や権力の作用が、一連のプロセスにおけるどの時点で介入し、働くのか。その点に違いが見出せるのだということです。


 それゆえ、当事者概念を定義するに当たっては、本人体験性を条件とする狭義の当事者と、本人以外の関係者を含めた広義の当事者を区別した野崎の議論に準じるのが、最も適切であると思われる。すなわち、狭義の当事者the person in questionとは「特定の行為または状態を過去に経験したことがあるか、現在経験している本人」を意味し、広義の当事者the person concernedとは「特定の行為または状態を過去に経験したことがあるか、現在経験している本人、およびその関係者」を意味する。

 だが、ここで直ちに気づくことは、広義の当事者の定義が「関係者」の定義に依存しており、それゆえに不完全であるということである。本人以外の関係者を当事者に含める限り、「関係者とは誰か」という問いに答えなければ、「当事者とは誰か」という問いに答えたことにはならない。そうであれば、当事者性についての研究は、最終的に利害関係についての研究によって補完されなければならないだろう。

 また、より根本的な問題も存在する。それは、「本人体験」とはどのような体験でも有り得るために、当事者とは誰でも有り得ることである。不登校という事象についての「本人体験」として一般に想定されるのは不登校そのものの経験であるが、不登校の子供を持つ親にとっては、自分の子供が不登校であるということは紛れもない「本人体験」であるし、不登校の生徒を担当する教師にとっては、担当する生徒が不登校であるということは同様に「本人体験」である。それぞれの体験と、体験から表出される感情はそれぞれに個別的・唯一的であり、その意味での「重み」に優务があるわけではない。

 また、不登校者、親、教師、その他の関係者は、不登校という事象における自らの体験に基づくニーズをそれぞれに有していると推測できる。したがって、当事者たる要件を本人体験ないし体験に基づくニーズに求めるのであれば、論理的には、不登校という事象における当事者は、不登校者、親、教師、その他の関係者の誰でも有り得る。

 こうした事実は、「当事者とは本人体験者である」といった定義が、それだけでは当事者の範囲をほとんど限定しないということを意味する。それにもかかわらず、不登校の中心的な当事者が不登校者であると一般に見做されているように、特定の事象について特定の体験が当事者性の指標とされやすいのはなぜであろうか。誰もが当事者で有り得るのに特定の当事者のみが当事者として現れるのはなぜであろうか。

 それは、私たちが当事者を指示するに当たって、複数の「本人体験」および体験に基づいたニーズ=<利害>の間に予め優先順位を想定し、重要であると考える体験およびニーズを有する当事者だけをその事象における当事者として見做すという選択を行っているからである。不登校者の親や担当教師よりも不登校者自身が中心的な当事者として扱われ、しばしば不登校者のみが当事者として扱われるのは、不登校者自身の体験およびニーズの方がより重大であると考えられているからであり、不登校についての専門家が不登校の当事者として扱われないのは、専門家にとっての個別の不登校に直面するという体験およびそこから生じるニーズがあまり重大でないと考えられているからである。

 つまりここでは、多様な「本人体験」に基づく多様な当事者集団の中から、その体験およびニーズに対して優先的に配慮すべきであると考えられた当事者を狭義の当事者(本人)と見做し、二次的に配慮すべきであると考えられた当事者を広義の当事者(関係者)と見做す、という選択が行われていることになる。このように考えるならば、当事者概念の意味内容、あるいは当事者性の要件には、規範的予断が含まれていると言わねばならず、それは記述理論の観点からして欠陥が見出されたということである。

 他方、当事者たる要件としての本人体験と体験から生じるニーズを<利害関係>と見做すことは可能であるから、当事者概念および当事者性についての議論は、利害関係理論の枠内で説明可能である。特定の問題状況において、「当事者は誰々である」という有意味な限定を為すことは、その体験およびニーズに対して優先的に配慮すべき利害関係者を選択し、彼に当事者という呼称を付するということにほかならない。したがって、当事者概念は、利害関係理論の内部に位置付け直されるべきである。

 もっとも私は、こうした事実を指摘することによって、当事者概念を用いることが無意味であると言いたいわけではない。ただ<利害関係>概念と当事者概念の異同と、それぞれの適性を明らかにしたいだけである。本人体験を要件とする当事者概念は、「体験」が可能な特定の行為、状態、事件、事案などを前提として用いられるため、事物そのものなどに対しても用いることのできる<利害関係>概念よりも汎用性が低い。それゆえ、政治的対立状況や問題状況を包括的に記述するためには、<利害関係>概念の方が適している。

 また、野崎が指摘しているように、個別性・排他性の強調と結び付きやすい当事者概念の使用は、結果として「当事者ではない人たちを寄せつけないような強度」を持って排他的・権威的に機能してしまいがちであり、「当事者の言っていることが「当事者であるだけで」正当性を帯びてしまう」傾向を生みやすい点にも注意が必要である。利害関係者という概念は、当事者という強い言葉が意味する範囲から洩れてしまいがちな周辺的関係者を含めた多様な人々を同一平面上で捉えることによって、当事者とされる人々の地位を敢えて相対化するような視座を提示することができる。それは、問題状況を反省的に捉え直す上で大きな寄与を為すことができるだろう。

 ただし、本人体験という中心部を明確に照らし出し、押し出す力強さと、抽象を拒み、固有性を提示することができる点で、当事者概念には大きな強みがある。<利害関係>概念は広範な当事者・関係者を同じ地平で捉えるために、そうした政治的突破力を弱める方向に働いてしまいやすいようにも思える。それゆえ、<利害関係>概念と当事者概念は、領域と場面によって使い分けられればよいのであって、相互排他的であると見做す必要はない。


(前掲論文、81-83頁。注を略。文中の「野崎の議論」は、野崎泰伸「当事者性の再検討」(『人間文化学研究集録』第14号、2004年)を指す。)

Saturday, September 5, 2009

ステークホルダー民主主義の射程


濱口桂一郎『新しい労働社会』の末尾近くでは、目指すべき方向性として「ステークホルダー民主主義」への言及が見られる。まだ全体をきちんと読めていないので、書評ということではないが、これは一応私の専門に属することなので、備忘がてら思うところを書き留めておきたい。



私の知る限り、日本で「ステークホルダー民主主義」なる言葉を使っての議論の蓄積はほとんど無い。海外でも、“stakeholder democracy”や“stakeholder society”について語られている事例は若干存在するものの、いずれもあまり突っ込んだ議論とは言えない*1。これまで当ブログでは、「現代日本社会研究のための覚え書き――結論と展望」や「利害対立と民主主義モデル」などでstakeholder democracyの具体像を素描したり民主主義モデルとしての相対的位置を示したりしてきたが、それらの議論は2008年1月に提出した私の修士論文補論の成果に基づいている。そこで私は、stakeholder democracy(利害関係者民主政)について、その理論的文脈上の意味から具体的な制度構想にまで踏み込んだ、おそらく国内外を通じてもかなり先駆的であろう議論を展開した*2。そういう立場からすると、少なからぬ人に注目されている好著の中で「ステークホルダー民主主義」への肯定的言及が為されていることは、素直に嬉しく思う。


しかし同時に色々考えるところはある。同書の中では先ず「産業民主主義」の語が頻出しており、その上で登場する「ステークホルダー民主主義」は、いわば産業民主主義の現代版として扱われている印象を受ける。それは決して間違いではないのだが、果たしてそのような解釈だけで十分かと言われれば、気安く是とは答えにくい面がある。確かに、特にshareholder capitalismに対するstakeholder capitalismの議論文脈から辿ってstakeholder democracyが理解される場合には、かつての――と過去形にするのは不適切かもしれないが――産業民主主義ないし経済民主主義のイメージを下敷きにした受容が為されるのは無理のないことだと思う。けれども、stakeholder capitalismの議論は(それがドイツや日本を参照しているとしても)あくまでも英米のものであって大陸ヨーロッパのものではないし、shareholderへの対抗概念としてのstakeholderの語には最初から権利的ニュアンスが分かち難く付随している。つまりそこには、解り易く言うと「アングロ・サクソン的な」個人主義や私的所有権観念が少なからず影を落としているわけで、「平等としてのデモクラシー」の色彩が濃い「社会的デモクラシー」の流れを汲む大陸ヨーロッパ的な産業民主主義とは異質な部分も小さくないはずなのである。

私はそのように異なる文脈の双方から財産を継承できる「stakeholder ~」という考え方に魅力を感じているので、これから盛り上がるべきstakeholder democracyの議論が産業民主主義的な解釈のみに回収されてしまうとしたら残念だと思う。何より、古い言葉と同じことを言うためだけに使われるなら、新しく登場してきた言葉に固有の意義が存在しなくなってしまう。また、産業民主主義的な解釈に引きずられると、どうしても労働の現場に議論の対象が限定されてしまい、包括的な社会構成原理たり得るはずのstakeholder democracyの可能性が縮減されてしまいかねない(もちろん、労働をテーマとする濱口著が論の対象を限定することに問題があるわけではない)。

1996年から97年にかけてトニー・ブレアが“stakeholder economy”について語った時、彼は国民一人一人がstakeを持つべきだとした。ここでのstakeとは、ざっくり言えば社会内において正当に認められるべき権利や地位を意味する。人々はstakeを持つことによって社会に包摂されるし、stakeに基づいて社会参加することに対して相応の責任を負うとされた*3。ここからも解るように、英語圏における「stakeholder ~」の議論は基本的に個人単位であると同時に、社会全般に広がる射程を持っている。


私が“stake”のニュアンスを的確に把握するために有用だと思うのは、これを「賭け金」と捉えることである。stakeholderを重視するということは最低限の賭け金を提供するということであり、国家にせよ、職場にせよ、地域にせよ、学校にせよ、家庭にせよ、その内部での決定に参加できる元手を保障してあげることを意味する。このように考えると、stakeholder democracyの考え方はベーシック・インカムの理念と非常になじみやすいことが理解できると思う*4。国民全てに万遍なく支給される基本所得は、まさに社会参加の賭け金と見做し得るからである。

ニュー・レーバーのポリシーを濱口さんに講じるような釈迦に説法を犯すつもりはないが、濱口さんがベーシック・インカムの考え方に否定的なことは、やはり産業民主主義的なstakeholder democracy解釈と無関係ではないのかな、という気はする。濱口さんは、あくまでもコーポラティズム的な枠組みの中で労組ができるだけ幅広い労働者の利害を代表していくことが基本だと考える。私もそれが現実的だと思わないわけではないのだが、ただそこでは、利害が考慮される単位は職場や組合という集団であることが前提になってしまっている(と言わざるを得ないと思う)。コーポラティズム的な枠組みの中で解釈されたstakeholderは、利害関係者たるまでには至らずに、利害関係集団であるに留まる*5。そうすると、提起される「ステークホルダー民主主義」の主体は個々人であるよりも労働的連帯に基づく集団が中心になり、あるいは少なくとも労働の営みに接続された個人でなければ、ステークホルダーとは見做されないということなのかもしれない。賭け金は、無条件で全ての個人に分配されるべきものではない、ということになるわけだ。


ただ、私自身は前掲のエントリでも明確にしたように、個人化の進行によって利害が多様化し錯綜する現況では、ひとまず個人を単位として最低限の賭け金を保障するベーシック・インカムの考え方は、望ましい方向性を示していると思う*6。stakeholder democracyを支持するならベーシック・インカムにも賛成するはずだ/べきだと主張するつもりは更々無いが、stakeholder democracyの可能性が幅広い範囲に開けていることは強調しておきたい。


*1:例えば以下に収められている幾つかの論文。



*2:それに先立つ本論第1章第1節では、経営学およびビジネスエシックスにおけるstakeholder theoryの成果を整理するとともに、“stakeholder”および“stake”の概念・語句について語源と用例の両面から詳細な考察を行った。

*3:前述の修論第1章第1節2を参照。

*4:別にベーシック・キャピタルでもいいわけだが(実際にB.アッカーマンはstakeholderの言葉を使ってBCを構想しているわけだし)。


*5:コーポラティズム的な枠組みはそれ自体として重要だけれども、stakeholder democracyの可能性をその範囲に限定してしまうことはない。

*6:実際にベーシック・インカムそのものを導入するか否かは別問題であるし、それこそ産業民主主義・コーポラティズム的な営為を含む利害反映回路全般の再整備が同時に行われるべきであるとの前提は付くが。


Sunday, May 17, 2009

かかわりあいの政治学7――相続はなぜ認められるのか


承前。


相続はなぜ認められるのだろうか。ある人の連れ合いや子どもであることが、その人の死後に財産を無条件で譲り受ける権利を発生させるのは、なぜなのだろうか。相続については、相続税をもっと引き上げて――場合によっては100%にして――所得再分配に活用するべきだという意見がある一方、むしろ引き下げて――場合によっては廃止して――自由な経済活動を促進させるべきだという意見もあり、面白い論点が提供されているが、そもそも相続制度とは何であるのかを突き詰めて考えた議論はあまり多くない。相続財産に課税が許されるのはなぜかという疑問を呈することも可能ではあるが、そもそも課税には根拠など無いので、それは有意義な疑問とは言えない。むしろ、所有権者が死亡した後に、彼の財産が無主物や共有物にならずに、自動的に特定人物へと承継される制度の根拠を問うた方がいい。


教科書的な定義を持ち出すなら、相続とは「自然人の財産法上の地位(または権利義務)を、その者の死後に、法律および死亡者の最終意思の効果として、特定の物に承継させること」をいい、特に「法律の規定に基づいて、当事者(被相続人と相続人)の知・不知にかかわらず効力を生じる」ものを「法定相続」と呼ぶ*1。契約による贈与や譲渡、遺言による相続などの法律行為は元の権利者の法的権利に基づくが、法定相続による相続人の権利取得は、死亡者の血族ないし配偶者であることのみを理由とする。このような純粋な身分関係に基づく権利取得が、相続制度の特徴である。別の教科書には、次のような記述がある。

 相続の概念を定義することは大変難しい。多くの法学文献は、相続は私的所有権とともに発生し確立したと説く。しかし、封建時代の家禄のように、譲渡は許されずに世襲されるものがあるし、社会人類学者によれば、私有財産の存在を考える余地のない未開社会にも、一定の土地のなかで生活資料を採取する集団の成員権の世代的承継準則が存在する。譲渡の自由のないところに私的所有権を認めることはできないが、これらの非譲渡的権利ないし排他的利益が一定の準則に基づいて承継されるとき、これを相続とみることはできないであろうか。これらの準則は、英語のinheritance(財産相続)という観念からは外れる。しかしsuccession(継承)の観念には十分に合致するし、前者は後者の一型にすぎない。歴史的に、または通文化的に相続の概念を定義しようとするなら、前者にではなく、後者に即して考える必要がある。かくして、多くの人類社会で社会的に承認されてきた権利の世代的承継の準則についていえば、そこに共通するのは、この準則が各社会の親族制度に従っているという一点である。この共通項に、各社会は、その歴史や文化の特性を投影した変化を加味する。資本制社会を前提とするわれわれの近代国家の相続法には、私的所有権の影響が濃く現れている。しかしなお、その中心には、社会の親族制度に従った権利の承継の準則が確固として存在する。


[佐藤義彦ほか『民法Ⅴ――親族・相続』第3版(有斐閣(有斐閣Sシリーズ)、2005年)、119-120頁(伊藤昌司執筆)]

この見解を念頭に置きながら、相続の根拠について簡単に検討してみよう。相続の存在を説明する第一の見解は、被相続人が持つ所有権に基づく自由の帰結であるとする「意思説」である。同説は所有権の自由から遺言権を演繹し、法定相続権は死者の意思の推測に基づくと考える。しかし、遺言の発効時には遺言者は所有権の主体ではなくなっているから、所有権から遺言権を演繹することはできないはずではないか*2。この重大な疑義から、意思説は相続制度の根拠とするには足らない。法哲学者の中には、意思説の否定によって相続税の100%化――相続の否認――を正当化する主張すらある程である*3。


そこで被相続人の意思に代わって相続制度の主たる根拠を構成するとされるのが、(1)遺族の生活保障、 (2)被相続人の財産形成に寄与していた相続人の潜在的持分の実現、(3)経済活動の承継による取引安全の保護、の3つである*4。

この内、(1)は婚姻や血縁の関係にある近親者の生活を安定させる意味を持つが(扶養説)、これは相続制度の機能や政策目的では在り得ても、根拠とは言い難い。遺族の生活保障が必要であるとしても、その目的に被相続人の財産が用いられなければならない必然的な理由があるわけではない。あるいは、経済的に自活が可能である遺族に対しては相続を行うべき理由が乏しいことになる、との疑義も呈し得る。

また、(2)は相続人が何らかの形で被相続人の財産形成に寄与していたとの前提に基づき、その潜在的な持分を具体化して実現する意味を持つ。しかしながら、財産形成への寄与の程度によって相続が左右されると考えるのならば、配偶者や血縁者以外にも――お世話になったあの人にもこの人にも――相続の範囲が拡大されるべきであるとの主張に対抗することは困難になるだろう。個々の権利主体に対する社会の潜在的持分が考慮されてよいなら、婚姻や血縁は相続権の必然的条件ではなくなる。

(3)は、財産をめぐる争奪を防止して平和的な遺産分割を図ったり、経済活動の基礎となる財産が承継されうる範囲を定めておくことによって社会内部の取引関係を安定化させたりする意味を持つ(公益説)。社会一般の利益を根拠として提示することになるため、総体的な説明に便利ではあるが、地位身分を含めた承継制度一般を説明できるわけではない(身分・階級・氏姓はなぜ継承されるのだろうか?)。


どうも、これら解釈法学的に提示される根拠に基づくだけでは、相続の本質に迫れる気がしない。より反省的な観点から議論のフレームワークを整え直してみることが必要だろう。そこで先の引用も考え合わせながら頭をひねらせてみると、相続制度には私的所有権制度に規定されている部分と親族制度に規定されている部分の両面があるということが、おそらく言える。遺言や法定に基づくことによって一定の随意性を伴う財産相続inheritanceに対して、非随意的に行われる身分・階級・氏姓などの継承succession(世襲)は、当該社会が拠って立つ親族制度に依存して成り立っていると思われる。

この前提に立って相続制度の根拠とされる見解について考え直してみる。すると、扶養説は近親者の経済的紐帯を保護することで、家族的結合を物質的に下支えする役割を担っていることが解る。すなわち扶養説は、相続制度が果たしている社会内の親族秩序を維持・再生産する機能への間接的言及を通じて、相続の一面を明らかにしているのである。同様に公益説は、財産争奪の防止による公安秩序の維持や、取引関係の安定化による私有権制度に基づく市場経済秩序の保護などの機能に言及していると解釈できる。

以上から論を結してみるなら、相続一般にとって必然であるのは何らかの秩序の維持であり、維持される対象(目的)は必然に「これ」と決まっているわけではない、と言える。このように考えると、身分や階級の継承も統合的に理解できる。奴隷の子が自動的に奴隷とされるのは、奴隷制度を保全するためにほかならない。継承にとって、最大の目的は継承の対象となる事物(財産・身分・階級・氏姓その他)の安定であり、その事物が組み込まれている制度や秩序の安定である。したがって、相続は自然的根拠を持つわけではなく、親族秩序の維持・再生産ないし私有権秩序の安定、その他公益一般の実現を目的として政策的に構成される社会制度であり、それゆえに社会状況の変化に応じて柔軟に改変されるのが当然である。

実際、現下のように家族の個人化が進行する社会状況においては、遺族の生活保障機能は相続を介した親族秩序内部での実現が目指されるよりも、社会全体に委譲されるべき機能であろう。財産形成への貢献度に基づく相続を真剣に考慮するなら、遺産はむしろ近親者の範囲を超えて承継されるべきである。純粋な公益説的見地からは、制度が一定の安定性を持てばよいのであって、現行の相続の在り方に固執する理由は存在しない*5。かくのごとき現状は、理論的帰結において相続制度が現行の在り方に留まるべき理由を乏しくさせているように思える。それでも現行の相続制度が保持され続ける――旧来の親族秩序への固執が続く――のだとすれば、それは社会が守ろうとする秩序に対して、それだけ大きな利害関心が抱かれているということであり、私はそのように(様々な「かかわり」に基づいて)有り得る幾つもの秩序の中から特定の秩序が選ばれるメカニズムに関心がある。


*1:遠藤浩ほか編『民法(9)相続』第4版増補補訂版(有斐閣、2005年)、1、3頁(稻本洋之助執筆)。

*2:派生的に、遺言はなぜ拘束するのかという問いも、考える価値がある。遺言が効力を発するのは権利の主体が死亡した後であるが、人は死亡すれば権利を失うはずであり、所有物の帰属について決定する権利も失われるはずではないのか。この点について私は、「人は死亡すれば権利を失う」と一般的に前提することが誤りなのだと考えている。人が死によって権利主体でなくなることには、何一つ自明な根拠は無い(他方、死者に法的人格を認めることには法理論上の問題は存在しない)。現実の私たちの営みを顧みるなら、死者は生きている人々の利益のために権利を剥奪されるのだと言うべきである。そしてそれゆえに、例えば遺言のように、社会一般の利益と合致する一部の場合に限って、死後一定の期間、権利が残されることになっている。そう考えた方が、より実態に沿った説明が可能になる(詳しくは、 『利害関係理論の基礎』、注478、を参照)。

*3:森村進「リバタリアンな相続税」(『一橋法学』第6巻第3号、2007年11月)、森村進「リバタリアンな相続税の提案」森村進編『リバタリアニズムの多面体』(勁草書房、2009年)。

*4:遠藤ほか前掲書、16-18頁。

*5:具体的な制度について構想することは本連載の趣旨から離れるので避けるが、その手前の議論について一言しておく。森村進のような例外を除く一般的なリバタリアンは、意思説に基づいて相続税は私的所有権の侵害であると見做す傾向がある。しかしながら、前述のように意思説は破綻している。一般に死者は権利を持たないと考えられているにもかかわらず例外的に遺言の権利が認められているのは、私有財産制度を守るためにそうした方が好都合であるからに過ぎない。それは相続の根拠ではなく、私有権秩序と結び付いた相続制度を保持するために構築された事後的論理に過ぎない。したがって、相続財産への課税を私的所有権の制限や侵害と捉えるのは、私的所有権と財産相続に先行的結合関係を認めてしまう点で錯誤である。社会は死者から権利を剥奪しているという私見に基づくと、被相続人の財産は彼が死亡した時点で宙吊りになっているはずであり、そこに遺言の自由をどこまで認めるか、法定相続制度をどう構成するか、課税・接収をどう定めるかは、政策的考慮として完全に同水準にある。すなわち相続税を課すことについて問題とすべきことは、私的所有権侵害の是非であるよりも、死者からの権利一般の剥奪の是非でなければならない。これを一旦是としたなら、あとは権利剥奪を正当化する政策目的の問題であり、既に権利侵害を云々する議論水準には無い。よって、相続税を100%にすることに規範上の障害は無い。なお検討すべき課題は、相続税率引き上げによる帰結の是非である。こちらの検討は、私の手には余る。


Sunday, May 10, 2009

かかわりあいの政治学6――時効はなぜあるのか


承前。


近年、刑事上の公訴時効制度について、その存在理由を疑問視する声が高まってきている。同制度については、犯罪被害者遺族の感情への配慮や捜査技術の発達などを背景として、2004年に公訴時効期間を延長する内容の法改正が行われたばかりである。それにもかかわらず、法務省は2009年1月から「凶悪・重大犯罪の公訴時効の在り方に関する省内勉強会」を設置し、制度の更なる改廃についての検討を始めている。5月3日には、公訴時効の廃止を求める「殺人事件被害者遺族の会(宙(そら)の会)」が初の全国大会を開催し、時効制度の廃止、進行中の時効の停止、時効成立後の遺族への国家賠償などを訴えている。

かように加速度的な状況の展開は目を見張るものがあるけれども、ここでは時事的な事柄について直接考えることはしない。そもそも時効なるものが、なぜ存在しているのかについてだけ、考えることにしよう。


法理論上、公訴時効制度を支えているのは、大きく分けて次の3つの根拠である*1。(1)時間の経過とともに犯罪の社会的影響力が失われ、犯人を処罰する必要性が消滅する(実体法説)。(2)時間の経過とともに証拠が散逸し、事件の解明が困難になる(訴訟法説)。(3)一定の期間起訴されなかったという事実状態を尊重し、その間に犯人が構築した社会生活上の諸利益を保護するべきである(新訴訟法説)。

本連載の第2回では、人格の同一性が相対的であるとの主張に少し触れた。D.パーフィットの議論を整理・敷衍している森村進が唱える「人格の同一性の程度説」によれば*2、人格の同一性は――記憶・欲求・信念・性格・意図などの――心理的状態の結び付きが弱まるにつれて小さくなるものであり、たとえ「同一人物」であっても、現在の人格と遠く離れた時点の人格とはある程度まで異なっており、その限りで別人格である。したがって、過去の行為に対する功績および責任の程度は、行為時の人格との心理的結び付きが密接な程大きく、希薄になる程小さくなると考えられる。現に、遠い過去の行為については責任が軽減されてしかるべきであるという発想――「昔の話だろ」「もう時効ということで」――は私たちの多くが共有しているし、公訴時効制度の根拠にも採り入れられているように思える。

3つの根拠の内で、時間の経過による人格の変容に伴って行為に対する責任も軽減されるとの発想と共通点を持つのは(1)である*3。(2)の理由だけでは証拠が存在すれば時効を認めなくてもよいことになるし、そこに(3)の理由を加えても、法定刑の軽重によって時効期間を区別している理由を十分には説明できない*4。それゆえ、刑事上の公訴時効の存在理由として(1)を外すことはできないだろう。つまり、時の経過とともに犯罪行為時点での犯人と現時点での犯人との同一性が失われていく、あるいは犯罪行為と犯人との「かかわり」が薄らいでいくとの認識に基づいて罪に対する罰を免ずることが、公訴時効制度の主要な要素なのである*5。

パーフィット=森村的な主張に対しては、そのように考えるならば過去の行為の責任を問うことが不可能になってしまうとの批判が寄せられることがある。だが、多くの場合には過去の自己と現在の自己は部分的に心理的結び付きを維持しているし、自己にかかわる利害関心を大部分で共有している上に、社会的な観点からして著しく強い結び付きを有していると見做されている以上、人格の同一性が相対的であることを認めたからといって、責任制度が揺らぐようなことは考えられない。公訴時効の存在は、そのことの証明であるように思われる。


民事にも目を向けてみよう。4月28日に下された最高裁判決の影響を俟つまでも無く、一般に民事の時効と言えば、損害賠償請求権の行使についての除斥期間が言及されることが多い。しかしながら、民法にはこの他に取得時効と消滅時効が定められている*6。民事上の時効の存在理由も大きく分けて3つ考えられる*7。まず、(a)義務者(本来の権利者ではない者)を本来の権利者であると信じて取引した第三者を保護するなど、取引安全の保護および法律関係の安定を図るため。次に、(b)義務者といえどもいつ権利を行使されるか分からないという不安定な状態にいつまでも置かれ続けるべきではないという考えに基づき、義務者の利益を保護するため(「権利の上に眠る者は保護に値しない」)*8。最後に、(c)真の権利者を証明する困難を救済するため。

これら民法上の時効制度の存在理由は、公訴時効における(2)や(3)の理由と共通する部分が大きい。(a)には市民社会内部における私的自治を円滑にするための制度設計として民事法の特有性が認められるが、(b)は一定期間持続した事実状態の尊重という観点において、(c)は訴訟上の問題回避という観点において、それぞれ刑事上の公訴時効の存在理由(3)と(2)に対応する。ただし、一定期間継続した事実状態を理由として本来の権利者と事物との間の結び付きが薄れていくという発想においては、犯罪行為者と犯罪との間の結び付きが薄れるがゆえに公訴の提起が封じられると考える(1)とも共通性がある。

連載第4回で、対象とのより長い接触が権利的水準における優位を生み出すことについて考えた。そこでは権利的優位を生み出す「功績」が問題となったわけだが、他方ここで問題となっている責任とは、いわば「負の功績」である。犯罪者が権利を制限・剥奪され、処罰されるのは、犯罪行為に対する彼の「負の功績」(結び付き・かかわり)が、権利を失い義務を課されるに値する程度に達していると判断されるからである。すると、犯罪行為者と犯罪行為の結び付きが時の経過とともに薄れることを以て、公訴の提起を可能とする期間に制限を設ける刑事上の公訴時効は、民法上の取得時効や消滅時効において、本来の権利者が事物との結び付きが疎遠化した結果として権利を失うことと、相似的に理解できる。


別段私は刑事上の時効と民事上の時効が同じであると主張したいわけではないが、時効という文言に留まらない共通性を持っている以上、公訴時効や除斥期間ばかりを熱心に採り上げるだけではなく、取得時効・消滅時効にももう少し気が払われてもいいのではないか、とは思う。公訴時効の改廃論議では刑法上の刑の時効(有罪確定判決が言い渡された後で刑の執行を受けずに一定期間が経過した場合に刑の執行を免除する制度)との整合性が論じられることはあるが、民事上の時効との整合性はどのように考えられ得るのだろうか。事は単なる「正義の実現」に留まらない、権利の生滅にかかわる問題である。



*1:公訴時効は、犯罪行為終了時点から一定期間内に公訴が提起されないと、その後で被疑者が起訴されても有罪無罪の判断が行われず、免訴判決が言い渡される制度である(井田良『基礎から学ぶ刑事法』第3版(有斐閣、2005年)、222頁。福井厚『刑事訴訟法』第5版(有斐閣、2006年)、216-217頁。上口裕ほか『刑事訴訟法』第4版(有斐閣、2006年)、108-109頁)。

*2:森村進『権利と人格』(創文社、1989年)、第1部第5章。

*3:ただし、実体法説には二通りの解釈が可能なように思える。処罰の必要性が罪への非難に基づいていると解するなら、その論理は人格変容による責任軽減の考え方と結び付いていると言えるが、純粋に社会秩序維持の観点から「処罰の必要性」を解するなら、問題となるのは行為主体ではなく罪と罰の「社会的影響」のみであり、同説を人格の変容と結び付けて考える必然性は無かろう。そして、現今の制度改廃要求の主たる根拠を構成しているのは、前者の純然たる罪への非難(処罰感情)以上に、後者の「社会的影響」の中でもとりわけ被害者遺族等の処罰感情を考慮した「必要性」であるように思われる。そこでは司法がより個人的な単位への応答性を高めることが要請される一方で、個人の通時的流動性よりも一貫性が重視されており、こうした事態の両面は、社会が本質化された個人の単位に完結した形で自己理解されるようになっているとの解釈可能性を思わせる。

*4:罰すべき罪の重さと保護すべき犯人の利益の衡量に基づき、それぞれの罪に応じた時効期間が定められている、と考えることはできる。

*5:ただし、実体法説を中心に据える場合、処罰の必要性が無くなるのなら無罪にすべきなのに、なぜ免訴の形式を採るのかとの疑問は残る。

*6:民法上の時効制度は、所有権や債権など一定の財産権について、占有や権利不行使などといった事実状態が一定期間継続した場合に、それが真実の権利状態と一致するか否かを問わず、この事実状態に即して新たな権利関係を形成する制度であり、事実上権利者であるような状態を継続する者に権利を取得させる取得時効と、権利不行使の状態を継続する者の権利を消滅させる消滅時効とがある(山田卓生ほか『民法Ⅰ―総則』第3版(有斐閣、2005年)、200頁。四宮和夫・能見善久『民法総則』第7版(弘文堂、2005年)328頁)。

*7:山田前掲書、206-207頁。四宮ほか前掲書、328-331頁。

*8:財の効率的利用の観点から事実状態継続の利益を保護すべきとの主張も、ここに接合し得る。


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