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Thursday, March 25, 2010

リスク社会における公共的決定2――「トンデモ」批判の政治性と政治の未来


今日は少し、色々な文脈を縫い合わせるようなお話をしてみたいと思います。例によって長いですが、ご関心の向きはしばしお付き合い下さい。


Sunday, May 24, 2009

リスクと不確実性について


少し前の話になるが、kaikajiさんとBaatarismさんの以下のやりとりに触発されて考えたことをまとめておく。



論点となっているのはリスク管理とコスト&ベネフィットの考慮である。話題自体は(政治)経済学的な色彩が強いけれども、リスク概念は分野によって意味合いがそれぞれ異なるので、まず用語の整理から始めよう。

社会学では、危険dangerとリスクriskを区別することが多い*1。危険が人に危害を及ぼす可能性のあるもの全般、あるいはその可能性そのものを指すとすれば、社会学的概念としてのリスクは、人が行った何らかの選択や決定に伴う不確実性から生じる不安を意味している。天災など自らの選択の帰結ではない現象は、危険には含まれるが、リスクではない。社会学的リスクは、近代化の進展によって拡大した個人の自由が伴う未来予測の不確実性を背景としており、その不確実な未来についての主観的な認識と評価によって構成されている。

他方、主に自然科学分野で為されているリスク・マネジメントについての議論では、リスクとの区別が問題になるのは危険ではなくハザードhazardである。ハザードは対象に固有の潜在的危険性・有害性を意味し、「危険源」などと訳される。これに対してリスクは、ハザードが何らかのきっかけによって現実の被害を引き起こす可能性を意味するとされる。例えば大量の火薬が保管されている倉庫はハザードだが、周辺に火の気が無ければリスクはそれ程高くない。そこに誰かが火の気を持ち込むことによって、その場のリスクは急激に高まることになる。

このような意味でのリスクは、客観的な危険度と言うべきハザードに加えて、現実の被害が引き起こされる可能性(確率)を考え合わせたもので、いわば「(客観的)危険出現可能性」とでも訳すべき概念である。それは、個人の選択に伴う社会学的リスクとは異なる。むしろ社会学的議論においてリスクと区別される場合のデンジャーに近い。しかし、それでは折角在る言葉が勿体無いので、ここでは可能性であったものが実際に出現する/した事態のことを(便宜的に)デンジャーと呼ぶことにしよう。

そうすると、危険出現可能性としてのリスクは、対象が引き起こし得るデンジャーはどのようなものであるのか(ハザード)と、対象がデンジャーを引き起こす可能性はどのくらいあるのか(確率)――どのような状況になれば引き起こされるのか(条件)を含む――の考慮によって算出されることになる。ハザードも考慮されるということは、たとえ実際に起こる可能性が低いデンジャーであっても、その被害が甚大となることが予測されるなら、対象のリスクは高いと判断され得るということである。

これに対して、経済学で用いられるリスク概念は、帰結への考慮を含まず、純粋に「危険が出現する可能性」、つまり確率を意味するために存在している。Baatarismさんが引用している竹森俊平『1997年――世界を変えた金融危機』によれば、先で言う「対象がデンジャーを引き起こす可能性はどのくらいあるのか(確率)」についての認識の部分が、経済学では広義の不確実性uncertaintyの問題として議論される。そして広義の不確実性の内で、過去に前例・類例があるなどの理由から客観的データによって可能性を判断できる(確率分布を想定できる)ケースはリスクと考えられ、過去に例が無くデータによる判断が不可能である(確率分布を想定できない)ケースは「真の不確実性(ナイトの不確実性)」であると見做される。

以上、図表で示せばもう少し解り易くなるところを面倒なのでしないが、同一単語が複数分野で異なる意味に使用されているところを強引に同一ないし近似の概念として整合性を与えようとする試みをするとすればこうなるかなということを、してみた。最も一般的と思われる危険出現可能性としてのリスク概念を「広義のリスク」とするならば、社会学的リスク(再帰的リスク)概念と経済学的リスク(確率的リスク)概念は、それぞれ別個の「狭義のリスク」である。


本題に移ろう。前掲のやり取りの中で「コスト」として想定されているものの幾つか(例えば国民の犠牲)は、発射されたロケットが引き起こし得る帰結、すなわちハザードの一種として解釈可能である。どのようなミサイルないし物体がどのような地域に着弾/落下すればどの程度の被害が予測されるかなど、ハザードは客観的な判断の対象となり得る。Baatarismさんはコストの定量化そのものが評価者のイデオロギーに左右されてしまうと指摘しているが、それは正確な言い方ではない。イデオロギーによって左右されるところが大きいのは、客観的算出が可能な「広義のリスク」ではなく、そのような客観的リスクに対する再帰的評価に基づいて構成される社会学的リスクの方である。

先に、社会学的リスクは不確実な未来についての主観的な認識と評価によって構成されると述べた。私たちが完全な情報を得て、有り得る事態の全てについて合理的な分析を加え、客観的な確率についての認識を形成することは、現実には困難であり、ほとんど不可能だと言ってもよい。そのため、(「真の不確実性」に属するとされる状況も含めて)私たちが実際に依拠しているのは個々人が(客観的根拠も援用しながら)内的に算出する主観的確率の認識である。

個人の行為は、主観的確率とハザードの主観的評価(主観的危険度)との総合によって形成される社会学的リスク認識に基づく予期によって駆動される*2。主観的確率は客観的確率とは独立に形成され得るが、危険度の主観的評価は客観的なハザードの認識を前提にしている。被害が同じ程度であっても、評価者が何を守るべき価値と考えているかによって、事態が持つ意味は異なってくる。簡単に言えば、ミサイル攻撃によって100人の命が失われた場合に、「100人も死んでしまった」と考えるのか、「100人で済んで良かった」と考えるのかの違いである。そのような評価は、各人の価値観に依存する*3。したがって、客観的なリスク認識(ハザードと確率)について概ね一致することができても、採るべき対応について一致するとは限らない。

「危険について述べる場合には、われわれはこう生きたい、という観点が入ってくる」と言われるはこのためだが*4、それでも再帰的評価とは離れて、可能な限り客観的なハザードや確率の認識を行おうとすることができないわけではないし、それを止めるべきでもない。むしろ最終的には政治過程において決定されるしかないと理解しながら、そのような集合的リスク評価がより有益であるための客観的材料を提供するのが科学的認識の役割であるし、そこで専門家の知識翻訳と社会内の議論促進の役割を担うのがマスメディアの仕事であるはずだろう。だから私は今こそ「「勘定」に訴えかける議論がぜひとも必要」とするkaikajiさんの問題意識に強く共感するし、そのような議論を示すことは、本来経済学に限られることのない科学全体の使命であると思う。


ただ、それとは別に私がこのエントリを書こうと思ったのは、Baatarismさんが依拠する経済学上の「真の不確実性」概念にある種の胡散臭さを感じたためでもある。Baatarismさんは北朝鮮が日本をミサイルで攻撃するケースは「真の不確実性」に属すると言う。そして、そのような事態が発生する確率を見積もることは不可能なので、対抗手段として比較的コストが小さいミサイル防衛システムを採用することは妥当だと結論している。その結論の是非はここでは扱わないことにして、私が引っ掛かるのは論証の過程で示される、今現在は「危険性が非常に低いように思えたとしても、近い未来にどうなるかは誰にも分からない」との認識である。この論理は当該ケースが「真の不確実性」に属すると見做される所以でもあるのだが、何と言うか、あまりにも「身も蓋も無い」言い草ではなかろうか。

少し意地の悪い言い方になるが、このような「身も蓋も無い」言い草が許されるのであれば、「街を行き交う人々がいくら温厚そうに見えても、いつ豹変して私を襲うかもしれないから、拳銃の所持を許して欲しい」との主張を容易に正当化できそうである。このあたりは社会学の得意分野であるが、そもそも社会秩序の成り立ちそのものが「真の不確実性」に属する問題であり、今度すれ違う人が私を襲って金品を奪おうとするかもしれないという疑いは、本来全く不合理なものではないはずであるから。

それでも社会に秩序が成立し、国際社会にも一定の秩序が成り立っているのは、そこに何らかの確率認知の体系(社会学的に言い換えると予期の体系)が形成されたからではなかろうか。確かに、それは経済学的リスクのように客観的・統計的に判断可能な確率ではなく、主観的ないし間主観的な確率認識であるだろう。だから実際には、「どうなるかは誰にも分からない」。しかしそもそもAの確率が99%であるということは、Aでない確率が1%存在するということだから、究極的にはどんな状況であっても「近い未来にどうなるかは誰にも分からない」のである。
したがって、このような言い方は(Baatarismさんの意図とは無関係に)「真の不確実性」について言及するに留まらず、確率的な思考全体の有効性を否定してしまいかねない*5。客観的/主観的にかかわらず、確率とは不確実な未来に対して多少なりとも合理的な行為を選択し、望ましい未来を構築していくために用いられる手段であるから、今現在「危険性が非常に低いように思え」るのであれば、まず第一に議論されるべきなのは、その理由であるはずなのだ。現状そのように「思える」ことは何によって可能になったことであるのかを考えることは、通常思われているよりもずっと重要なことであると思う。

実はBaatarismさんの結論を支えているのは、当該ケースが「真の不確実性」であるかどうかよりも、「もし北朝鮮が本当に日本にミサイル攻撃を行ったら、日本の人口密集地に莫大な被害が出る可能性はほぼ100%」であるというハザードについての認識の方である。この認識が妥当であれば、たとえ当該ケースが「真の不確実性」とは言えず、北朝鮮によるミサイル攻撃の確率を算出することが可能で、しかもその確率が非常に低いとしても、ハザードの大きさのために(広義の)リスクはミサイル防衛システムを採用することを正当化可能である程に高い、との立論は説得的で有り得る(その説得性は受け手の再帰的評価に依存する)。つまりBaatarismさんの主張には、別に「真の不確実性」概念は必要でない。

そもそも経済学的リスクと「真の不確実性」の区別のされ方はだいぶ曖昧であり、恣意的判断の混入を許す余地が大きいように見える。それならば、広義の不確実性内部の緩やかな区別は維持するとしても、確率認識の可能・不可能で分けるよりも、認識の客観性の大小で起伏をつける方が良いと思う。あるケースが「真の不確実性」に属しているのかどうかは、本当のところ大した問題ではない。あまりこういう概念を有難がるのもどうかなと思った、という、そういう話をした。



*2:『利害関係理論の基礎』、第1章第3節2、を参照。

*3:もっと言えば、これはA.センの言うcapabilityにかかわる問題である。例えば地雷によって同じく両足を失った人でも、「命が在るだけ良かった」と思う人もいれば、将来を嘱望された陸上選手であったために「死んだ方がマシだった」と思う人もいるかもしれない。

*4:ウルリヒ・ベック『危険社会』(東廉・伊藤美登里訳、法政大学出版局、1998年)、90頁。

*5:それは極端に言うと社会秩序そのものへの攻撃で有り得る。


Saturday, April 4, 2009

世界を変えることはできますか?――社会科学的説教ないし説教的社会科学入門


10代の少年少女にふと、「世界を変えることはできますか?」と尋ねられたとして、私ならどう答えるか――。


「できるかできないを訊くな。今の君には、そんなことを考える必要は無い。

本当に世界を変えたいなら、まず何をどう変えたいのかを考えることだ。何でそう思うのかをハッキリさせろ。

その次に、どうやったら変えられるのかを考えろ。そして、それを知るために勉強しなさい。」



もちろん、「できない」と答えてもいい。しかし、それは必ずしも正確な答えではないし、その答えで納得して引き下がるような相手なら、最初から答える価値も無い。誰かに「できない」と教わったら変えようともしない人間は、別に本気で変えたいとも思っていないということだ。そんな奴、真剣に相手にするだけ時間の無駄である。

世界を変えることはできない。変えることができるのは、自分だけだ*1。私たちにできるのは、自分の変化や行動を通じて世界に働きかけ、何らかの影響を及ぼそうとすることだけである。世界を変えようとすることはできるが、それで世界が変わるわけではない。ただし、私たちの行動が意図しないままに間接的な形で世界を変えることはある。その意味で、私たちは世界を思うように変えることはできないが、思いもよらない結果として変えることはできる。「できない」と言うだけでは十分に正確ではないと言ったのは、それが理由である。

このような考え方は、社会科学的な観点に拠っている。社会科学的な見方に基づけば、私たち一人一人が世界を(思うように)変えることはできない。世界(社会)の在り方は、個々人の意思や行動を超えたところで成り行くものだからである。


 さて、マルクスの説明は、だいたいこういうことだと言ってよいでしょう。社会の構造が自然発生的な分業の上に、つまり自然の成り行きのなかでひとりでにできあがってくる職業配置を土台としてうちたてられているとしますと、われわれ人間諸個人には、社会全体としてどういう人々がどういう割合でどういう職業に配置されているのか、そんなことはいっこう分からない。われわれに分かるのは、ほんの自分たちの周辺のことだけですね。社会的な職業配置の全体はさしあたってわれわれには無縁なことです。

 [中略]

 それでは、このような自然発生的分業の上に立っている資本主義社会では、どういうことになるか。われわれが見渡せるのは自分たちの周辺のほんの狭い範囲のことだけにすぎません。そして、社会をなして生産しつつある人間諸個人の活動の総体が、全体として、どういうふうに動き、どうなっていくのかということは、あるいはマルクス風に言いますと、どこから来てどこへ行くのかということは、われわれにはまったく分からないし、また分かったとしても、さしあたってどうすることもできないわけです。

 このようにして、経済現象は、元来、社会をなして生産しつつある諸個人の活動の総体にほかならず、そのなかにはいかなる神秘的なものも混入してはいないわけであるのに、その全体の動きは、そもそもその動きを作り出している人間諸個人自身にとって、自然現象と同じように、どこから来てどこへ行くのか、見通しがまったくつかないものとなっている。もう少し別の言い方をしてみますと、人間諸個人の活動とその活動によって作り出されたものが、、人間諸個人の活動とそれによって作り出されたものであるのにもかかわらず、当の主体である人間諸個人にとって、よそよそしい無関係なものとなり、まるで自然と同じように、われわれ人間諸個人の意志からは独立した客観的過程と化している、というわけです。


[大塚久雄『社会科学における人間』(岩波書店(岩波新書)、1977年)、82-83頁、イタリック部分は原文傍点(以下同じ)]


 群衆がなにかのきっかけで、なだれをうって動きはじめることがあるでしょう。このごろは交通整理が上手になりましたから、あまり見られませんが、昔はよくあったものです。そうそう戦争直後にも皇居前広場でありました。あそこで群衆がなだれをうって動き出し、そのために、押されたり転んで下敷きになったりして、大怪我する人々が出てきた。それで力の強い数人の男がスクラムを組んでそういう人々を助けようと頑張ったけれども、どうにもならなかった、という話も伝わっておりました。実は私も子供のとき、野球の試合を見物に行きまして、群衆の混乱の中に巻き込まれ、ひどい目にあったことがあります。昔の子供ですから、着物を着て下駄をはいていたんですが、足がもう宙に浮いてしまって、気がついた時には下駄も帽子もどこかへ行ってしまい、着物も目茶苦茶になっていて、あとでよくも生きていたなとお思いました。そういうことがあるでしょう。その群衆のありさまを想像してみてください。

 群衆がワーッと動き出すと、もうこれは手がつけられない。あのエネルギーはたいへんなものですね。では、あのエネルギーはどこから来ているかというと、すべて群衆を構成する人間諸個人自身のエネルギーだということは明白でしょう。それ以外の力というのはいっさい入っていないわけです。もちろん、倍化されているというか、ふだん出ないような力を出しているかもしれませんし、また、それが逆に混乱をいっそう大きくしてるかもしれませんが、とにかく群衆を構成する人間諸個人自身の力の総和だということは明らかです。

 ところが、私自身も経験がありますが、その混乱のなかに巻き込まれて、生きた心地もしていないような個人個人は、そんな混乱がいつまでも続いた方がよいなどと、誰も考えていないわけです。できることなら、早く静まってほしいし、でなければ、なんとかしてその外へ出たい。けれども、なんともしようがない。みんながただある方向に動くから、怪我をしないためには、それについて動くよりほかに道がない。ところが、みんながそれについて動こうとするから、その力がまた群衆全体の力に加わる。そして、すべてがそれを構成する個々人の意図とはまったく無関係に動いていく、というわけです。

 このばあい、考えてみますと、群衆全体が自分自身の力で動いている、というよりは、動かされている。群衆の一人一人はそんな動きをすることがいやでしようがない。そんな気はぜんぜんない。しかも、自分たちの力の総和が自分たち自身に対してまったくよそよそしい、疎遠なものになってしまっていて、逆に自分達をあらぬ方向に押し動かしていく。これがいわゆる「疎外」現象なんですが、とにかくそのなかでは、人間はもはや人間らしく主体であることをやめて、物とまったく同じに客体となってしまっているわけです。群衆を構成する一人一人が、崇高な理想をもつ人であろうと、狡猾な利己主義者であろうと、また、どんなに親切な人であろうと、逆にどんなに意地の悪い奴であろうと、そうしたことは全部混乱のなかで消えてしまって、ただ人々は物のようになって動いている。いや、動かされている。


[同書、84-86頁]


世界と言っても、社会と言っても、究極的には一人一人の人間によって構成されているのだから、少しずつでも一人一人の意識が変われば、それによってわずかずつでも一人一人の行動が変われば、いつかは世界/社会を変えることができる。こういった考えは、社会科学的見解と決定的に対立している。


が、スミスのホッブズ批判には、その奥にいま一つ重要な着想があります。それは、人間理解から直接に社会体の構造は解明できないということです。

 こういうことです。社会現象は、人間が引きおこす現象ですから、人間の行動を別にしては、社会体の運動なり、構造は捉えられない。このことも事実です。が、無数の人間の行動は、織り成されて、各人が意図したものとはまったく別な結果を生む。大塚(久雄)さんのうまい例を使わしていただくと、雑とうから逃れようとする一人一人の意志的行為が、結果として巨大な一人歩きをする集合力を作りあげて人間を殺すことがある。だから、人間の目的設定や行為をぬきにして社会現象を語ることはできぬとしても、目的設定そのものから直接に社会現象を説明することはできません。逃げようとしたから巨大な集合力ができたんだが、殺そうと思って行動したわけではありませんからね。

 スミスは、人体の説明にあたっては、胃袋が人体保存のために意識して消化活動を行うなどという考えを持ち出す者はいないのに、社会体を説明しようとなると、たちまちこの種のばかげた説明をする。つまり目的原因と作用原因を混同してきた点に、すべての従来の道徳哲学の間違いがあった、といっています。


[内田義彦『社会認識の歩み』(岩波書店(岩波新書)、1971年)、167-168頁]


しかし、それでも人は変えようとして行動するし、その行動が様々に組み合わさった帰結として、世界は(思いもよらない方向に)変わっていく。社会科学は、その行動と変化のメカニズムを解明しようとする営みである。社会科学が単なる個人の集積や総合としての意味を超えた存在としての社会(世界)を扱うからといって、そこにおける個々の主体の振る舞いを軽視するわけではない。それはこの学問体系の成り立ちからしても明らかである。


 社会科学は経験科学である。それで社会科学が一つの科学として成り立つためには二つの条件が必要である。第一には人間が物事を考え、自分自身の行動や生活の基準を立てるのに、なによりも人間自身のたしかな経験によろうとする態度である。これは観察と実験によって物事の法則を明らかにしようとする態度であって、まず自然科学がこうして生まれてきたのである。社会科学もこの点においては自然科学とまったく同じである。つまり人間が人間以上の力、たとえば自然の威力であるとか、人の運命であるとか、そういったものの支配に忍従し、甘んじているのではいけない。そうではなくて、自然の環境を自分の生活に役立たせたり、自分で自分の運命を切り開いたりしようとする意欲をもつようになってはじめて、自然科学とか社会科学とかいったような経験科学というものが生まれてくるのである。これは一言でいうと、人間が自分自身の立場を自覚するようになったことである。人間が人間以上の力にたいしてその主体性を確立したことである。そしてこれがちょうど資本主義体制の成立の時期になってはじめて可能となったのである。

 社会科学が科学として成立するための第二の条件としては、社会そのものの側における大きな変化ということがあげられる。社会に大した動きがなく、人々の関係も長い間固定していて、したがって習慣や風俗や人々の考え方の上にたいした変化がないような時代においては、社会の秩序というものは人々にとりはじめから与えられたものである。人々はただそれに順応することしか考えないであろう。ところがこの秩序が破れて社会が動的となり、人々の社会関係の上に大きな変動が生ずるような時代になると、社会生活にたいする人々の関心が急激に高まってくる。古い秩序や制度の枠の中でもはや処理することができないような出来事がつぎつぎに起るようになると、人々はその対策を講ずるために自分自身の手でその原因を研究し、進んで自分自身の運命を切り開きたいと思うようになる。政治とはなにか、経済とはなにか、法とはなにか、国家とはなにか、社会とはなにか。こうした問題が様々な形をとり、いろいろな事件と結びついて論議されるようになる。[中略]

 もう一度要約すると、社会科学が科学としての成立をみるためには、第一には人間自身の側における変化(人間の主体性の自覚)と、第二には社会そのもの側における変化(社会生活の動態化)とがまず起らなければならない。この二つの変化はたんに変化というにとどまらないで、一つの変革であり、革命である。社会科学が成立するためにはその主体である人間の側と、その客体である社会の側との双方に革命的な変化が起らなければならなかった。そしてこれらの二つの変化は相互に結びついて行われ、相互に促進しながら進んでいった。


[高島善哉『社会科学入門――新しい国民の見方考え方――』改版(岩波書店(岩波新書)、1964年)、71-73頁]


では、社会科学的認識とは、結局どういうことなのか。それは部分と全体、ミクロとマクロ、可能性と所与性とが、互いに結び付きつつ相克する現実の中に生きる人間の姿をそのままに把握するということである。


人間はたんに盲目的な必然の法則によって縛りつけられているだけでなく、この必然の法則を認識して自分な世界を作り出すことができる。この自由な世界とは、物質に対する精神の世界、あるいは自然に対する文化の世界だというので、社会科学のことを精神科学とよんだり、あるいはまた文化科学とよんだりする人もあるのである。自然には意志というものがない。社会にはそれがある。社会の意志というのは、これを構成している人間集団の意志であり、人間集団の意志というのは、さらにこれを構成している個々の人間の意志である。つまり社会に意志があるというのはこれを構成している個々の人間に意志があるということにほかならない。ところが物質を構成している分子に意志があると考えることはもちろんできないし、肉体を構成している細胞に意志があると考えることもできない。比喩的に説明すると、社会という肉体においてはこれを構成している個々の細胞に意志があって、それぞれの考えで自由に動いている、つまり行動しているのである。

 これはたしかに非常にたいせつな点である。けれどもさらに考えてみると、人間がそれぞれの考えをもち、自由に行動するものだといっても、人間は常に一人で生きていくことはできない。常に集団のなかで生活しなければならない。国家機構や社会組織をはなれて自然のままの生活をすることはできない。もしそんな生活があったとすれば、それは人間の生活ではなくて動物の生活である。人は生まれ落ちたとたんに家族の一員となるし、その家族はある国家、ある社会組織のなかの一員であって、政治的、法的、経済的、倫理的に一定の枠の中にはめこまれている。人間は生まれ落ちたとたんからそういう枠のなかで教育され成長するわけである。今日のように発達した複雑な社会のなかでは、手ばなしの自由というようなものは白昼の夢でしかありえないのである。


[高島前掲書、135-136頁]

市民は自由である。しかしそれは人間として自由なのである。けれども彼が市民として現実に社会のなかで生活しようとしたとき、彼は政治的、経済的、法的、心理的、倫理的にいろいろの束縛を受け、自分一個の力ではどうにもならない大きなものの力を感じないわけにはいかない。これが市民社会の現実なのである。

 ところがこの市民社会はどうしてできたか。それはやはり人間自身によって作られたものではなかったか。封建体制の胎内で育まれながら、それを乗り越えて進もうとする新しいタイプの人間、すなわち近代的な市民の手によって作られたものではなかったか。

 このように考えてくると、私たちには社会における人間の自由と必然の関係がけっして一方的に一面的にのみ理解されえないものであることがわかるだろう。人は社会によって作られながら逆に社会を作っていくものだといわれる。人は自らに背負わされた社会的必然の法則を認識しながら、逆にこれを利用し善用することによって、必然の法則を自由の法則に高めるものだともいわれる。[中略]市民革命は人間の偉大な歴史的行為である。人間の自由意志の沸騰した場面である。けれどもこの市民革命そのものがまた、絶対主義の矛盾から生まれ出た歴史的社会的必然だったのである。


[同書、137-138頁]


社会科学は、意志と規定の間におけるこの循環を見なければならない。そして、このような循環、あるいは二面性の中に、社会科学の役割も見出されることになる。


 マキャヴェリが書くのは、直接には、君主たるものが政治をするための忠告ですが、同時に、普通の人間への忠告でもある。人間がそのなかに生きている環境の、リアルな把握による環境の操作ということです。それをマキャヴェリは、ヴィルトゥとフォルトゥナという伝来の考え方を加工しながら説明します。

 フォルトゥナ、運命というのは、人間の外にあって、あるいは彼を助け、あるいは彼に襲いかかってくる、そういうものです。人間はつねに運命に包み込まれていて、その外に出ることは絶対にできません。ヴィルトゥというのは、徳、ヴァーチューと訳すとなんかこう温厚な人柄を指すように聞こえてまずいんですが、そうではなくて、幸運をすばやく受け取る、あるいは襲いかかってくる運命を投げ飛ばし投げ飛ばし操作する、そういう主体の働きであります。


[内田前掲書、51頁]


 歴史というのは人間の意志を越えてどうしようもなく動くというのも歴史の見方で、そういう歴史観が重みをもっていまだに生きているのも、それなりの理由がある。歴史の一面としてそれは確かに事実なんだが、別の観点からすれば――つまり自由な主体として、自分の運命を何とか開拓せんならんという観点に立てば――、歴史から別のことを読み取ることもできる。つまり、一つの歴史的事実というのは、半分は運命、半分は人間がそれを操作した結果だと見る見方のほうが、より正しいんじゃないか。伝来の運命観をくつがえす事例は歴史上いっぱいある。こういうわけです。

 この半分という言い方は少々変で、文字どおり受け取りますと、ここからここまでは運命、ここからここまではヴィルトゥの所産というふうに聞こえます。しかし彼の言うことは、運命は完全に一人歩きをしているんではなく操作すれば変えられる、そこに人間の自由があるということです。運命は読みかえられる。もっとも、運命は読みかえられるといっても、読みかえられた運命はやはり残るわけですから、そういう意味では、実際の歴史、あるいは人生というのは、すべてが運命のしわざでもあるし、すべてが運命を操作した結果でもある。

[中略]

 運命というのは、こういうふうに人間に絶えず襲いかかってくる存在であって、それなしには、人の、あるいはある国の歴史は考えられないんだが、その運命はまた逆手にとられる存在でもある。逆にいえば、運命を逆手にとるのが自由な人間、直接には、君主たるべきものの徳たるヴィルトゥである。こういうわけです。そのためには、運命について先手をうつ形で正確に知る必要がある。知らなければ操作できない。


[同書、53-55頁]


社会科学は世界を変えることが不可能であると教えるけれども、「世界を変えたい/変えよう」と思うことには、社会科学から見て重要な意味がある。それは一方で自己や世界に働きかけることで何らかの「社会現象」の構成要素の一つとなっていく姿、すなわち社会科学が解明しようとする対象(客体)の一面を見せていると同時に、世界を変えるためにはどうすればいいかを知ろうと世界の成り立ちや変化のメカニズムについての思考に近づくことによって、自身が社会科学の眼差しを獲得し得る萌芽的主体としての側面を現すことだからである。


 社会科学的認識の目がわれわれのなかで育ってくる最初の結節点は、われわれ一人一人が決断という行為に迫られることです。決断、賭けということがあって、はじめて事物を意識的かつ正確に認識するということが、自分の問題になってきます。[中略]

 賭けるということと同時に客観的認識が出てくるというと、不思議に思われる方もあるかと思います。日常語の語感では、賭けというのと、客観的認識というのがずれているからであります。賭けといいますと、およそ合理的なものがないというふうに考えられますし、客観的認識、あるいはとくに合理的計算などといいますと、非合理なものがおよそ含まれないというふうに考えられています。しかし賭けるということは本来知っているからこそ賭けられるんであって、でたらめに賭けるのは賭けではありません。

 電車に乗っていますと、競馬新聞を一生懸命に読んでる人をよく見かけますが、競馬でも、あの馬はどろ沼に強いんだとか、騎手がどうだとかを知って、はじめて賭けができます。たくさんの競馬新聞を抱え込んで比較研究をする、というのは少々オーバーかもしれませんけれども、違った競馬新聞はそれぞれ違った予想を立てている。そういう違った予想が立てられるのは、それ(予見)に必要だと思われるデータと、そのデータの組み合わせ、あるいはウェイティングの違いというものが、そこにあるからでしょう。そこで予想が違う。それぞれ違う予想をのせた新聞を照らし合わせながら、そこに含まれている諸事実を、なんとか自分なりにつかみ整理して賭ける。それでなければ賭けといったって、要するに偶然に身をまかせるに過ぎない。知って知って知り抜いたうえ、やっぱり最後に賭ける。それが賭けであります。事物の認識が深まれば深まるほど賭けらしい賭けができる。逆にいうと、深い賭けが出てきて、はじめて、主観とか希望的観測ではなくて、客観的な認識が自分のこととして出てきます。


[内田前掲書、44-45頁]


だから、真剣に世界を変えたいと思っている相手にこそ、「じゃあ勉強しろ」と言わなければならない。社会科学の岸へと架橋してあげなければならない。もちろん、社会科学なんて学んだところで、世界を変えることはできない。しかし、それは少なくとも自分を変えることにはなる。世界を眺め、世界に働きかける主体としての自己を変革する助けにはなる*2。世界を変えるために勉強するなんて、今すぐ直接に行動を起こすことから逃げるための言い訳でしかない、と思う人もいるかもしれない。それはそうかもしれないが、「勉強なんかしている場合じゃない、とにかく行動だ」と言うのも、煩わしい学びの作業から逃れて楽をしたい自分を肯定するための言い訳に過ぎないということでは、何も変わらない。それなら、学びを通じた自己変革を経験できる分だけ、勉強する方がマシだろう。

もちろん、何度でも言うが、世界を変えることはできない。賭けをするためには客観的な認識が必要とされる。そのためには学問が役に立つ。世界を変えようとするなら、学ばないより学ぶべきである。しかし、世界(社会)の中では、誰もがそれをしている。誰もがそれぞれの客観的認識の下に、賭けをしている。そうした個々人の行動が織り合わされた結果として、世界は思いもよらない方向に変化していく。その構造は、決して変わらない。だから、世界を変えようとする若者が社会科学に導かれたとしても、彼はいつか必ず挫折や絶望を経験することになるだろう。

だが、それでいい。重要なのはその先である。思うようには変えられないと解った上で、どうするか。何ができるか。そこで絶望に沈んで終わりになるのなら、彼の意志はその程度だったと言うほかない。どの道、何もしなくても世界は何かしら変わっていく。そのままの姿が持続することは有り得ないし、持続させるためには何かが変わらなければならない。だから、世界を変えようとすることは悪いことではない。変えようとして行動したこと(あるいはしなかったこと)が、結果として世界を良くするかもしれないし、悪くするかもしれない。それは誰にも分からない。どこかで跳ぶしかない。賭けはどこまで行っても賭けである。他人と予想を擦り合わせることはできるし、科学にとってそれは決定的に重要だが、一緒に賭けることはできない。賭けはあくまで、個々別々の主体によって行われるしかない。そこで賭け金になるのが、何を・どのように・なぜ変えたいのか、という原初的・根底的意志なのである。


 主体の自覚があって、ものごとのリアルな認識が出てくるということは、われわれのなかで社会科学的認識が育ってくる場合に、あらゆる時点においてもっとも基礎的なことと私は思いますが、ただそれだけに抽象的で、それだけではまだ社会科学的認識とはいえない。事物をありのままに見るということは、実はなかなか複雑な手数がいるので、抽象し組立てる、こういう操作で、事物の関連というものを体系的に見る。ここではじめて、少なくとも社会科学的認識ということができます。

 そこまで認識が深まってゆくためには、主体の側の自覚もやはり深まってゆかなければなりません。つまり従来の制度をそのまま受け取っておいて、そのうえで単なるハウ・トゥとしてのヴィルトゥを考えるんじゃなくて、制度そのものを考える。なぜそういう制度が必要なのかをあらためて考える、そういう主体になってゆかなければならない。つまり制度のなかで「主体的に」考えるのではなくて、制度そのものをつくり直す主体に、社会の成員のそれぞれがなってゆかなければならん。われわれ人間が制度を創るんだということになって、はじめて、社会についての体系的な学問が出てくる。


[内田前掲書、72頁]


しかし、社会科学の体系が出来ても、体系そのものがわれわれの眼に代わってものを見てくれるわけでは決してない。やはり体系を使ってわれわれの眼で見なければならない。体系をどう使うか、体系を使ってどう見るか。それは一人一人の賭けです。[中略]一人一人が社会の創造、あるいは社会科学的認識の創造に参加するというのでなければ、社会科学は形骸化します。一人一人が賭けをする存在でなければならんという社会科学的認識の第一歩は、つねに生きているわけです。


[同書、115頁]


つまり、社会科学的認識の真価はいつも、世界をどう変えたらいいか、どうやって変えたらいいかという「決断」と結び付いているのであって、それゆえ社会科学を活用する主体の振る舞いの中には、世界を変えたい/変えようとする意志が常に生き続ける。少年少女ができるかできないかを考えるべきではないと言うのは、そういうことである。可能性などは重要ではないのだ。世界の成り行きを最終的に決定するのは、変革の可能性についての算術ではなく、その算術を超えたところで露出する変革の意志の交錯なのだから。だから跳べ、と。だから賭けろ、と。そのために学べ、と。それだけを伝えればよい。






*1:実は、これも難しい。

*2:実際、大学に入った18歳から大学院の修士課程を卒業した24歳までの間に、世界に対する私の見方は随分変わった。


Saturday, July 7, 2007

科学的なるものの概念



科学とは何か



「科学とは何か」(A)と問われる時、そこには常に、「科学とは何であるべきか」(B)という問いがはらまれている。私が問いAに答えて「科学とは~である」と定義した瞬間に、その定義からはみ出すものは非科学=科学ならざるものとされ、決して科学と名指されるべきではないことになる。ここでは、問いAに答えることは、「科学と名指されるべきものはこのような条件を満たすものでなければならない」といった規範的限定を伴う規範的立場の表明を意味する。したがって、問いAが問いBから完全に独立して成り立つ事態は、およそ想定し難い。

BではないAを問うための一つの方法として、現実社会において「科学」という語彙がどのような意味で用いられているのかを分析した上で、様々な使用例から最大公約数的な「科学」の意味を取り出す仕方が考えられる。もっとも、現実に「科学」という語彙がXという意味で用いられていることが「科学とはXである」ことを必然的に意味するわけではなく、この定義に対する規範的な異議申し立て(「科学という言葉をそのような意味で用いるべきではない」)は有り得るから、この方法を採ってAに答える場合にも、「科学とはXを意味するべきである」という規範的主張としての性格が完全に消え去るわけではない。

ただし、「科学」という語彙が現実にどのような意味で用いられており、どのような機能を果たしているのかを把握するという限定された目的のためならば、「科学とはXである」と定義することに伴う規範的色彩は希薄になる。すなわち、そこで「科学とはXである」という定義を行うことは、「現実把握のために、さしあたり以下では「科学」という語彙をこのような意味で使用する」といった規約的定義を行うという「宣言」であるにすぎない。こうした定義は規約的なものであるから、「科学という言葉をそのような意味で用いるべきではない」といった規範的な異議申し立ては一般的に無効となる。もちろん、規約的定義に対しても「現実の把握のためにはそのような定義は妥当ではない」といった種類の批判は可能だが、これは規範的な異議申し立てとはひとまず異なるレベルに属する批判である。

そこで、限定された目的に供する規約的定義としてではあるが、問いAに対応する定義を私なりに提出しておこう。


科学とは、私たちが何らかの形で関わる世界の在り方を、何らかの方法によって解明し、論理的に説明しようとする営みである。


「何らかの形で関わる」とは、私たちが見たり、聞いたり、話したり、嗅いだり、触れたり、感じたり、考えたり、想像したりできればよいのであって、その対象が実際に存在しているか否かは問題ではない。「世界」とは、ありとあらゆる事物と現象の全てを指す。「解明」とは、そうした事象の性質・機能・原理・法則・関係などを明らかにすることであり、その方法として主に観察や実験、反省的思弁などが用いられるが、「何らかの方法によって」とあるように、その他の方法も用いられ得る。「論理的に説明」とは、何らかの根拠に基づいた思考の筋道が示され得るような方法によって、自己ないし他者が理解可能な形で現実を認識ないし伝達することを意味する。それは、世界の在り方について抱かれる「なぜ~か?」という疑問を解くために有用な理屈を提示することであり、その説明が「真の」現実、あるいは「現実そのもの」と一致しているか否かは、問題ではない。

以上の定義によれば、かなり広範な営為が科学として把握されることになる。例えば、「去年、雨乞いをしたら雨が降ったから、雨乞いをすれば雨が降る」といった粗雑な帰納に基づく推測も、「神がおわすならば、われらは救われるはずだ」といった宗教的な前提に基づく演繹も、一定の根拠に基づいて論理的な説明を試みようとしている以上、多少なりとも科学としての性格を有していると言える。私たちはこれらと同程度か、もう少しだけ精緻な論理的説明を日常的に行っているから、私たち自身の日常生活の中に、科学的な営みは溢れ返っていることになる。科学的性格の濃淡は、当該の根拠およびそれに基づく説明に従うならば、現実をどれだけ合理的・整合的に理解することができるようになるか、という相対的な尺度によって測られるのである。哲学・倫理学・思想史研究・歴史学・文学・神学など、通常は科学として把握されることが相対的に少ない諸学問も、研究対象を精査した上で、最も合理的と思われる結論ないし解釈を提示して、その論理的な弁証を試みようとする点で、科学の外に出ることはない。

しかし、このような包括的に過ぎるようにも思える定義を用いるならば、科学ではないものを探す方が難しくなるのではないか、という疑問が抱かれるかもしれない。例えば、単なる勘に基づいた判断も科学的営為なのであろうか。確かに、勘は一種の根拠として捉えられるかもしれないが、勘から直接導かれる判断には、世界の在り方を解明・説明しようとする独自の論理体系が伴われておらず、その点で科学的性格を欠いている。また、特定事象に対する規範的判断および規範的主張は、世界の解明や説明から離れて実践に踏み込んだ営みであるので、科学とは言い難い。このように考える場合、倫理学が科学に含まれ得るか疑問が生じる。それは、最終的には科学からは離れると考えてよいだろう。だが、世界の特定の部分について発せられる「なぜ~(べき)か?」という疑問を解くための論理的説明を試みるという点で、少なくともその過程において、あるいは中途まで、科学的性格を有すると言い得る。


科学と非科学の区別



さて、ここまでの私の説明に納得した人がどれだけいるだろうか。上記のような包括的な定義で満足する人は多くない。そうした人々は、「科学」という語彙の意味について、更なる限定化を求め、問いBの領域へと踏み込むのである。

問いBはしかし、いささか漠然としているので、そこで期待されているであろう答えが導けるような具体化を試みるならば、以下のように再構成可能であると思われる。「科学とは何を目的とするのか。そして、その目的を達成するために、どのような方法を採るべきなのか」(C)。

そこで、BやCに答えようとする者は、様々な基準を持ち出して、科学が科学であるための条件を限定化しようとする。持ち出される基準は再現可能性や反証可能性、可塑性、問題解決能力など多様であるが、実際のところ、そうした基準に絶対的なものは無く、科学と非科学とを明確に区別することは困難であるとされる*1。つまり、科学としての性質は程度の問題であって、科学と非科学の間には広いグレーゾーンが存在しているのであるから、両者を截然と区別するような境界線を引くことはできないのだと言う。

しかし同時に、「科学と非科学の間に区別を設けることができないと考えるべきではない」とも言われる。そうした主張は、次のような論法で行われる*2。

前提1:「ハゲでない人から髪を1本抜いてもハゲにならない」と、前提2:「髪が10000本ある人はハゲではない」を認めるならば、髪が10000本ある人から髪を1本ずつ抜いていった場合を考えることによって、「髪が0本の人でもハゲではない」という結論が導けるが、これはおかしい。ハゲの人とハゲでない人の違いは程度問題かもしれないが、両者の間には厳然とした違いが存在するはずである。そこで、前提1:「ある人から髪を1本抜いてもその人がハゲかどうかについての信念の度合いはほとんど変わらない」と、前提2:「髪が10000本ある人はハゲであるという信念の度合いは極めて低い」を設定して考えてみるならば、問題が解決できる。すなわち、髪が10000本ある人から髪を1本抜いたところで、彼がハゲであるかについての信念の度合いは「ほとんど」変わらないとしても、わずかの変化が積もり積もって、髪が0本になるまでには彼がハゲであるという信念の度合いが100%近くになっていることは十分考えられる。

同じことが科学と非科学の関係についても言えるだろう。つまり、科学と非科学の間に明確な境界線を引くことはできないにしても、幾つかの基準をチェックリスト的に用いることによって、どれくらい科学的であるかという程度を測ることはできる。そして、どの基準からもほとんど科学的性格が見出せないようなものは、明らかに非科学であると見做すことができる。したがって、科学と非科学の間にグレーゾーンが存在するからといって、両者を区別することはできないと考えることは間違いであり、両者の間には厳然とした違いが存在するのである。


科学/疑似科学と名指す欲望



以上のような論法には、説得力がある。私が用いた規約的定義の場合にも、定義=限定を行っている以上、そこから明らかに外れるものは「非科学」と名指されざるを得ない。何が明らかに外れるのかということを判断する基準が確定していないとしても、「科学」の定義から明らかに外れるものは「非科学」である、という想定は必然的に受け入れなければならない。その点で、科学と非科学の間に明確な境界線を引くことが困難であるとしても、両者の区別を放棄するべきではないという立場は、それ自体として妥当である。

しかしながら、私がここで考えてみたいのは、こうした立場を採る人々が「非科学」として「科学」から区別しようとしているものを、「疑似科学」や「ニセ科学」といった名前で呼び、それらが「科学」を「僭称」することを批判しているという事態についてである*3。

疑似科学やニセ科学として名指されるための条件は、「科学ならざるものでありながら、科学を自称するか、科学であるかのような装いをする」(Y)ことに求められるだろうと思う。伊勢田哲治や菊池誠は、こうした疑似科学ないしニセ科学の実例として、創造科学や占星術、ある種の代替医療、血液型性格判断、マイナスイオン家電、ゲルマニウム製品、ゲーム脳などを挙げている。だが、上で述べたような彼らの立場からすれば、疑似科学ないしニセ科学と名指されるような理論においても、ある程度の科学的性格が見出されることは有り得る。一般的には、それらは科学的性格が希薄であるとは言えても、科学的性格を全く有していないと言えるような場合はそれほど多くないようである。例えば創造科学について伊勢田は、「ほとんど科学と呼べない」とは述べていても、それが「非科学である」とか「科学ではない」などとは断言していない*4。

しかしながら、疑似科学ないしニセ科学をY(科学を僭称する非科学)のように定義したとするならば、希薄ながらもある程度の科学的性格を有しているものや、「ほとんど科学とは呼べない」かもしれないが、わずかながらも科学的な部分を備えているものなどを、疑似科学ないしニセ科学と名指すことは、厳密に言えば不正確であろう。もちろん、疑似科学ないしニセ科学を「科学的性格が著しく希薄であり、科学的であると見做し得る部分を極めて限定的にしか備えていないにもかかわらず、科学的性格を誇張するか、科学的と見做し得る程度が相当に高いかのような装いをする」(Z)ものなどと定義する場合には、それらはグレーゾーンを含んだ範囲を意味する用語として、「非科学」とは区別される。だが、伊勢田や菊池においては、どちらかと言えば、ZよりもYのような定義が堅持されているように見える。若干の不正確さを伴わせてまで、科学的性格が希薄ではあるが非科学であるかどうか不明確な理論を、非科学であることを想起させるような疑似科学ないしニセ科学といった語彙によって名指そうとするのはなぜなのか。

ハゲの例から考え直そう。そもそも、ハゲと非ハゲを区別しなければならない必然性は存在しない。頭髪の多少を観念するならば頭髪が全く無い状態も観念せざるを得ないが、そうした相対的な程度の違いを記述するためには、頭髪が多い/少ない/無いといった相対的な表現方法を用いれば足りる。したがって、頭髪が無い状態だけを指して特別の言葉を用いる必然性は無い。そこで頭髪が無い状態を指してハゲと呼ぶようになるのは、そのような特別の言葉を用いた限定的な指示を行いたいという欲望が存在するからである。

もし、ハゲという語彙が本来、頭髪が全く無い状態のみを意味したのであれば、頭髪が少ない状態を指してハゲと呼ぶのは不正確であるが、現在ではハゲという語彙はそのような意味で使用されている。それはおそらく、少なくとも現在では、ハゲという語彙によって名指すことを欲望されているのは、頭髪が無い状態から薄い状態までを含めた広い範囲であるということだろう。すると、ハゲという語彙の使用を支える欲望とは、頭髪が薄い状態を頭髪が無い状態に引き付けて解釈したいという欲望なのではなかろうか。

科学についても、基本的には科学的性格が濃いか薄いか、強いか弱いか、という相対的な表現が存在すれば十分であり、科学的性格が全く認められないものも有り得るであろうが、そうしたものだけを取り上げて名指すことにさしたる必要性は存在しない。しかし、ひとまず「非科学」という言葉が存在する。そして、「非科学的」という言葉が、おそらくは科学的性格が全く見出せないわけではないような理論に対しても使われることがある。それは、科学的性格が希薄であるものを、科学的性格を有しないものに引き付けて解釈したいという欲望に基づく行為なのではないか。

おそらく、疑似科学とかニセ科学などといった呼称は、そのような欲望をより直接に投影したものであろう。創造科学その他の科学的性格が希薄な理論を批判する際には、基本的には、「科学的性格が希薄であるにもかかわらず、科学的性格を不当な程に誇張している」と批判すれば足りるはずであるが、それを敢えて疑似科学ないしニセ科学と名指そうとすることが、特定の欲望ないし目的意識を体現している。

そうした欲望ないし目的意識の中心は、いわゆる疑似科学やニセ科学による科学の「僭称」がもたらす社会的不利益を極小化しようとするものであると思われ、それ自体として私も部分的に共有したいと思うものである。疑似科学とかニセ科学などといった名指しがなされ、科学的性格が希薄な理論が科学的性格を有していないものに引き付けて解釈される時、そこには前述の不正確さが伴うが、そうした不正確さは実践的な目的意識の前では瑣末な理論的齟齬であるにすぎないと見做されるのかもしれない*5。

しかしながら、私はそうした不正確さがはらみかねない危険性の方に目が行く。科学的性格が希薄ながらも全く存在しないわけではない理論が、疑似科学ないしニセ科学と名指され、ほぼ非科学と同義に解釈されることが一般化するならば、相対的であるはずの科学的性格の差異が絶対化され、科学と非科学の本質的な差異と見做されるようになってしまうのではないか。それは丁度、頭髪の相対的多少に基づくにすぎないはずのハゲという語彙が、何かそうした絶対的・本質的な人間的特徴を持つ集団が存在するかのような印象を伴わせて使われることがあるように。

おそらく、疑似科学ないしニセ科学という名指しによって、そうした本質主義的な想定を強化するような機能が生まれる事態は、いわゆる疑似科学ないしニセ科学による科学の「僭称」を批判する人々の目的意識から著しく遠い帰結である。だが、疑似科学ないしニセ科学という名指しを支える欲望には、そういった帰結を呼び込みかねない芽が全く存在しないわけではない。その芽とは、明確には指示することができないとしても、どこかに「真の科学」が存在するはず/べきであり、同時に決して科学と呼ぶべきでないものが確実に存在するという想定である。それは問いBに踏み込んだ以上、避けることのできない想定であるが、一つの規範的な立場でしかない。「科学」とは一つの概念であるから、その定義は一様ではないし、本質的に科学であるものや本質的に科学でないものなど存在しない。それにもかかわらず私たちは「科学とは何か/何であるべきか」と問うた瞬間から、科学なるものと科学ならざるものを分けて考えてしまい、そしてそうした区別は、しばしば本質主義的な区別に傾きやすいのである。

もちろん、Bを問うことが、必ず本質主義に傾くわけではない。しかし、疑似科学とかニセ科学といった用語は、「これは科学だ」「これは科学ではない」といった明確な断定に傾きやすい私たちの本質主義的な欲望を刺激し、そうした欲望によって利用されかねないという危険性を伴っている。それゆえ、科学的性格が希薄な理論を特に名指したいならば、疑似科学とかニセ科学といった非科学を想起させるような語彙を用いるのではなく、より正確な別の表現を用いるべきである。私には巧い代替案が思い浮かばないが、例えば「未成熟な科学」などのような相対的差異を前提とした呼称が望ましいと思う。


科学を科学の外部に基礎づける



最後に、科学とその外部との関係について考えてみよう。「科学の成果をしつけや道徳の論拠として用いるべきではない」などと言われることがあるが、これは間違っている。事実から価値を導くことはできないとしても、事実を提示することによって、価値にかかわる説得の論拠にすることはできる。例えば、人の命は一つしかないから命を大切にしなさいとか、人生は一回きりだから後悔が無いように生きなさいなどと言われることがあるが、これらは特定の事実を特定の道徳の論拠に用いている。人間が一度死んでも生き返ることが可能であれば、こうした道徳的言明の説得力は変化し得るが、だからといってこうした論法が妥当でないということにはならないであろう。ある道徳を正しいものとして受け入れるかどうかは、各人が自らの頭で考えることであるが、その過程で科学の成果を参考にすることは有り得るのである。

したがって、科学はその外部で行われる規範的な議論とも深くかかわっている。科学の目的を何に求めるべきかは規範的な問いに属するが、ここではひとまず最大公約数的な理解に基づく規約的な仕方で、それを「世界の在り方についてのより合理的・整合的な理解をもたらすこと」に求めておこう。これは科学そのものの、つまり科学に内在的な目的であり、科学的営為の成否は、まずこの目的を達成した程度によって測られることになる。これを(1)真理性のテストと呼んでおこう。

科学の成否はひとまず(1)によって測られるが、通常はそれだけでは済まない。科学は次に、それがいかなる利益に資そうとしているかという志向性によっても評価される。それは、a.自己の利益、b.特定の他者の利益、c.特定の集団や社会の利益、d.人間一般の利益、e.人間より広い範囲の存在の利益、いずれの目的に従うのかはともかく、科学それ自体の外部に位置する何らかの目的に役立つことを目指す限りにおいて、社会的に有意味であると見做される。学問とは、科学的な研究を体系的・専門的に行う営みであるが、純粋に科学内在的な目的のみに従い、真理性を高めることを追求するような学問研究者は、通常は専門家と言うよりも好事家に分類される。ふつう専門家とは社会的に有意味な専門性を備えた者を言うが、好事家も専門家であることには違いが無いから、社会的に有意味な専門的研究を行う者を「社会的専門家」、自身の知識欲や好奇心のみに従って専門的な研究を行う者を「好事的専門家」と呼んでおこう。社会的に有意味な科学と好事的な科学とを分けたり、前者の内部における志向性の優劣を評価したりすることを、ここでは(2)志向性のテストと呼ぶ。

さらに、本来の志向性にかかわらず、それがもたらす実際の帰結によって科学的営為を評価することを(3)帰結のテストと呼ぼう。主観的には好事的であるにすぎない専門的研究も結果的に莫大な社会的利益をもたらすことが有り得るし、世のため人のためを思ってなされた専門的研究が、とてつもない害悪をもたらすことも有り得る。科学は、その成果の提示ないし活用によって現実に働きかけるが、その働きかけの帰結に従って、科学にとっての外部的観点から評価されることになる。(3)によって否定的な評価を下された科学的営為は、ふつう成功したとは言わない。あるいは、科学に内在的な目的にとっては成功しても、科学にとっての外部的観点からは失敗したと見做されたことになる。このフィードバックによって、科学は自らを反省し、修正を試みるのである。

ふつう専門家と呼ばれる場合に、単なる知識欲と好奇心のみに従って研究を行う好事家が想定されないのは、専門性には社会的意義と責任が求められるべきであると考えられているからである。そうした意義と責任は、(2)および(3)のテストに基づいて測られたり求められたりする。社会が専門家に学問=専門的な科学的研究を許すのは、それが社会的な意義を持ち、その帰結に責任を負う限りにおいてである。その意味で、科学/学問/専門性とは、自らの外部の価値に基礎付けられなければならない。自らの外部の価値に無頓着な科学は、ただ趣味に属するのみであり、社会的な支持を得ることを望み難い。

科学/学問/専門性がその外部に基礎付けられなければならないということは、それが自らの外部に存在する認識や価値を批判してはならないということを意味しない。科学はむしろ、自らの外部に存在するものを積極的に批判することによって、現実への働きかけを絶えず行うべきである。科学は自らが生み出した成果によって既存の社会を破壊することもできるし、必ずしもそれを控えるべきではない。だが、同時にそうした営為も(2)や(3)によって評価され、時に批判される。それは専門性を支える社会の側からの専門性への批判であり、そうした批判に臨んで科学/学問/専門性は反省と修正を迫られる。そうした相互批判が建設的に機能するような構造を形成・維持することが重要なのであって、専門性に学ばない社会と、現実の社会に学ばない専門性とは、共に唾棄されるべきなのである。



*1:伊勢田哲治[2003]『疑似科学と科学の哲学』名古屋大学出版会。

*2:伊勢田[2003]、9頁、259‐260頁。

*3:伊勢田[2003]。菊池誠「視点・論点 まん延するニセ科学」(http://d.hatena.ne.jp/f_iryo1/20061221/shiten)。菊池誠「「科学とニセ科学」レジュメ(ver.2)」(http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/nisekagaku/pseudo_resume.html)。

*4:伊勢田[2003]、261頁。

*5:もちろん、そうした不正確さなど存在しないという立場が主流なのかもしれない。それは、疑似科学ないしニセ科学の定義としてZに近いものが採用されるからかもしれないし、そもそも非科学とはそれを非科学であると見做す「信念の度合い」が100%に近いことによって非科学なのであり、必ずしも100%でなくても非科学であると見做して問題ないと考えられるからかもしれない。しかし後者の場合、それは「厳然とした違い」によって科学と非科学を区別できたことになるのだろうか。


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