Thursday, August 30, 2007

「生の無条件の肯定」の不可能性


野崎泰伸「どのように<倫理>は問われるべきか」『コーラ』第2号、2007.8.15


人間の生命に内在的価値が存在し、誰であっても、どんな人生であっても「生きてよい」ことは、少なくとも建前上、ほとんどの人が認めている。人権が認められているとは、そういうことだ。「生きてよい」生にもかかわらず、厚生が著しく低いような生は、社会的配慮によって一定水準まで厚生を引き上げられるべきだということも、多くの人が認めている。生存権や社会権とは、そういうことだ。

だから、出発点、あるいは中心的な主張において、理論的には、この論文に新しい・独自なことは特に無い。ただ、その周囲のことについて、幾らか述べておく。


 さらにここから一歩踏み込んでみよう。それでは善とは何か。それは人生そのものだということができまいか。人生そのものが、倫理的な善なのであると。死とは、いっけん悪のようであるが、人生の完成地点であるという意味においては、善でも悪でもない。むしろ、人生は幸せであるべきだ。その意味で、幸せな人生、善い人生というのは、同語反復なのである。問題は、現状において「幸せでない」生、「善くない」生を、「幸せ」で「善い」生へと変えていくことにある。


ここの論理が、よく解らない。何故か、倫理的に善いことと、幸福であることとが、区別されていない。「よい」という言葉の中で、無媒介に結び付けられている。「よい」=肯定できる=価値を見出すことができる、という等置が為されているのならば、「価値」には倫理的な善悪の評価に関わる価値と、効用や利益の評価に関わる価値の二種類があるはずなので、「善い」と「良い」(としておく)は区別されるべきであるはずなのに。為されるべき区別が何故か為されないので、次の箇所もねじれてくる。


 すべての生は、よい生である。たとえば、重度の身体・知的障害者や、無脳症児、認知症者などがいっけん「生きるに値しない生」に見えるのは、彼らが適切なケア=「魂の配慮」を享受していないからである。そしてそのために、彼らの生がいちじるしく制限されているからなのである。それは、さまざまな障害者や患者の「生の現実」という諸相から観察し得る事実である。だとすれば問題は、障害者や患者に、「よい生」を与えない社会的制度や、そのような制度――障害者や患者の「よい生」を実現しないような制度――の基盤となる人々の意識にこそあることになる。
 たとえば、自分のことすら行うのが機能的に独力では不可能な障害者や、自分が何をしたいのかを独力で決定し、私たちに分かる表現で伝えることすら不可能な障害者も、適切な支援さえあれば、地域の中で自立した生活を営むことは可能である。それは、たとえば自立生活を営む障害者たちが身をもって証明している。自分で独力においてできないということは、自分も周囲も大変だったりするが、それはそれ以上でも以下でもない。大切なことは、「大変さ」を評価し、それを誰が、いかに社会的制度によって負担していくかなのであり、「大変」であるからその生が価値がないとか、生きる意味がないとかいう横滑りを許さないことである。


私には、ゾウリムシの生は「生きるに値しない生」であるように見えるが、それはゾウリムシに「よい生」を与えない社会的制度や、その制度の基盤となる私たちの意識のせいなのだろうか。思うに、仮にゾウリムシとしての生においての厚生を高める条件が整えられたとしても、それを「よい生」だ、生きるに値する生だと考え、受け入れる人間は、そう多くないだろう。なぜなら、たとえそれが「善い生」であっても、自分にとって「良い生」でなければ、生きるに値するとは思えないからである。客観的な諸条件を整えてくれたところで、自らがその生に価値を見出し、肯定できなければ、「良い生」にはならない。ある生が生きるに値するかどうかは、他者ないし社会から「生きてよい」と認められるかどうかの問題ではなく、自らが生きたいと思うか否かの問題である。

障害者が倫理的に生きるべきでない生だと考えている人はあまりいないだろうが、自分が障害者になったら、その生は生きるに値しないとか、生きる意味がないと考える人は結構いるだろう。十全たる制度が整備され、人々の意識が変わった社会においても、自分は障害者としては生きたくない、障害者としての生は自分にとって生きるに値しないと考える人はいるだろう。それは主観的評価の問題である。それは、ある方面に対しては酷く暴力的な価値判断の表明であるかもしれないが、そういうふうに思えること自体は如何ともし難い(そこに差別意識が存在するのか否かはこの際どうでもよい―ただし、差別意識を論ずるのならばゾウリムシに対する差別意識も併せて考えられたい)。第三者的に見れば何一つ非の打ちどころのないような生を送っているように思える人物であっても、こんな生は生きるに値しないと考えて自殺することは有り得る。それは主観的評価の問題である。彼に対して「生きてよい」と述べたところで、そんなことは解っているとの返答を得られるだけだろう。生きることが倫理的に善であることを認めていても、生きることが耐えがたい不効用を、とりわけ社会的諸条件の整備や人々の意識の変革によっては消し去ることができない不効用をもたらすために、この生は「生きるに値しない」と考えられてしまうことは、如何ともし難い。

社会的諸条件の整備によっては左右できないものは、この際どうでもよいと考えるのは一つの立場であるし、私自身がそうした立場に近いけれども、とりあえず何かねじれか混乱があるようだということのみ指摘した。もう一点に対しては、もう少し積極的な異論を持っている。


 「二つの生命のどちらかをやむえず二者択一しなければならない状況」は、どうしようもなく現存してしまう。しかし、その枠の中で最善の方法を選ぶ、というのは、エコノミーの問題に過ぎない。なるほど、エコノミーは重要であることを私は認めよう。けれども、どの位置において重要であるかは、問われるべきである。たとえば、病院内や研究室内において、そのような指針は必要であるだろう。だとしても、なぜ重要なのか。それはいちいちその現場で考えていては、救われる者も救われないからこそ必要なのではないのか。そうだとすれば、そうした指針は「現場において思考を停止する」ための「処方箋」としてこそ、重要になってくるのではないのか。言い換えれば、エコノミーの問題――「二つの生命のどちらかをやむえず二者択一しなければならない状況」という枠組みの中における最適解の問題――は、それじたい倫理ではあり得ないということである。

 それでは、倫理であり得るもの――と私が考えるもの――とは何か。それは、「そのような状況をなくしていくこと」に他ならない。つまり、二者択一を強いるこのような社会構造こそを倫理は問題にしなければならないのである。現実に二者択一をする場合においても、その選択は、倫理の位相において正当化されてはならず、処方箋や「落としどころ」の位相でしかないことを認識すべきなのである。


二者択一が避けられないからこそ倫理という正当化の体系が求められるのに、二者択一が強いられる状況そのものを無くしていくことこそ倫理であり、二者択一が避けられないことを所与の前提とした選択は倫理と呼ぶべきでないと言うのは、倫理という語彙に対する無意味かつ有害な特権化・神聖化である。こういうことを言うのは、万が一に危険が襲ってくる可能性を排除しきれないからこそセキュリティが必要とされるのに、危険が襲ってくる可能性を無くしていくことこそ真のセキュリティであって、危険が襲ってくる可能性が排除しきれないことを所与の前提とした配慮はセキュリティと呼ぶべきではない、などと言うのと同程度に馬鹿げている。両方をセキュリティと呼べばよいのである。両方を倫理と呼べばよいのだ。

あるいは、他により善い選択肢があるべきなのに、それが選択不可能なために、可能な範囲でよりマシな選択肢を選ぶことしかできない事態にある限り、倫理が存在し得ないと言うのなら、この世に倫理は在り得ない。最も「よい」選択肢が何時・何処でも選択可能な世界とは、どこにも存在し得ないユートピアであるからだ。この世には「エコノミー」しか在り得ないし、在り得る倫理は「エコノミー」としてしか在り得ない。ここで「エコノミー」と呼ばれている事態を、私なら政治と呼ぶ。倫理は原初的に政治的なものである。最後に、この点について述べて終えよう。

この論文の中で、「倫理は、正当化されることなく選び取られるべきものである」と述べられているが、私はこれに賛同する。「倫理体系というのは、その内部においては整合的であるべきであるが、それじたい決して正当化され得ない」。なぜなら、究極的に「正しい」根拠が無いからである。それならば、倫理は選び採られるしかない。宣言されるしかない。信じられるしかない。ならば、それは政治的な性格を有する。なぜなら、根拠が無いのにある事態を正しい/善いと言い、別の事態を正しくない/悪いと言って区別し、一方を持ち上げ・他方を貶め、対立を作り出すから。そして、また、何の根拠もなく、倫理によって覆われるべき範囲を勝手に画定し、その外側へ誰か/何かを押し出すことによって、亀裂を生みだし、対立を生じさせるから。

簡単な話である。倫理が人間のみを適用対象とすることを、倫理を遵守すべきとされ、倫理によって保護されるべきとされる範囲を人間の間、人間の関わる領域に限定することを、倫理は正当化できない。人の生は生きるに値するが動物の生は生きるに値しない(ゆえに殺してもよい)という倫理が選び採られる時、私たちは動物を倫理の外側に排除することによって、人間に対する「生の無条件の肯定」を成立し得ている。倫理の適用範囲が動物を含むまで拡大されたなら植物を、植物を含むまで拡大されたなら自然物を、自然物を含むまで拡大されたならその他の無生物を、その他の無生物を含むまで拡大されたなら未だ見ぬ何物かを、誰か/何かを倫理の外側に放擲することによってはじめて、倫理は立ち上がる。倫理を道徳や法と呼び変えても同じである。

ここでは、この動かしがたい事実を、規範の原初的政治性と呼んでおくことにしよう。この世界が政治を消滅させることができない以上、「生の肯定」には何らかの「条件」が伴わざるを得ない(ヒトの…云々)。その意味で「生の無条件の肯定」とは不可能性を伴った営為であるし、幾ばくかの欺瞞を抱懐せずには掲げることができない標語である。


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