Monday, October 1, 2007

正義の味方と悪の大魔王―『20世紀少年』についての小論


以前書いたように、漫画『DEATH NOTE』には相対主義的な正義観が貫かれている*1。この作品の世界においては勝者こそ正義であり、そこでは、「思想の相対性」を超越するような「真の正義」が在り得るのか否か、在り得るとしたらそれはどのような正義か、といったような倫理的な問いは初めから放棄されている。私自身は価値相対主義者なので、そうした正義観そのものに違和感を覚えることはない。けれども、絶対的な「真の正義」が在り得るのかという問いが、子供でも言えるようなシニカルなだけの答えを返すことで切り捨ててしまってよいものだとも思わない。
それゆえにこそ、私は過去にこの問題をやや詳細に扱ったのだが*2、ここではそうした政治哲学的議論の傍らに寄せる小論という形で、『DEATH NOTE』に対置されるべき作品である漫画『20世紀少年』について若干のことを述べてみる。「真の正義」をめぐる問いと絡めて『20世紀少年』を論じることに意味があるのは、この作品においては、相対主義を貫く『DEATH NOTE』とは対照的に、「正義の味方」と「悪の大魔王」の対決という二項対立的な構図が意識的に持ち込まれているからである。



物語の大筋



急速に勢力を拡大している新興宗教団体の指導者“ともだち”の正体が自分たちの小学生時代の友人の中の誰かであると気づいたケンヂらは、“ともだち”の世界征服の野望を阻止しようとするが敗れ、逆に世界を恐怖に陥れたテロリスト一派と見做されるようになる。他方、“ともだち”はケンヂ一派の脅威から世界を救った英雄として、絶大な影響力を有するようになる。
“ともだち”が実行した世界征服の過程は、子供の頃にケンヂたちが考えたストーリーを、ケンヂたちの仲間に入ることができなかった“ともだち”=フクベエが盗み出し、模倣したものであった。フクベエは子供時代から行動を共にしてきたヤマネによって殺されるが、やはり子供時代からフクベエと行動を共にするカツマタが二人目の“ともだち”となり、「復活」の形を採って現れることにより、“ともだち”は神格化された“世界大統領”として君臨することになる*3。“ともだち”はしかし、ケンヂ一派が行ったとされてきたテロは全て自らが計画したものであったことを突如告白する。

最終的にケンヂたちは“ともだち”の支配を転覆し、“ともだち”の死後、世界を救った真の英雄として認知されることになるが、二人目の“ともだち”が誰であったのかは、ケンヂが最後に「思い出す」まで明らかにならない。


幾度かの「転倒」



フクベエは、子供時代にケンヂたちの仲間に入りたかったが入れなかったという意味で疎外を味わっており、しばしばケンヂたちによって存在を「忘却」されていた。そうした中でフクベエは、行動を共にするヤマネ、サダキヨ、カツマタに対して、自分のことを名前ではなく「ただのともだち」として呼ぶように要求し、意識的な自己忘却を図る。そして成長したフクベエは、固有名を失った“ともだち”として支持者を集め、自分たちの「敵」に対して「絶交」という形で暴力を行使しながら、“ともだち”の輪を広げていく*4

“ともだち”教団が飛躍的に影響力を拡大するようになる事件の筋書きは、「正義の味方」が「敵から世界の平和を守る」ストーリーを夢見て子供時代のケンヂたちが書き上げた「予言の書」に基づくものであった*5。異なっていたのは、フクベエによって盗まれ、「コピー」された(一度目のコピー)そのストーリーにおいて、「敵」と措定されたのは、本来「正義の味方」になるはずのケンヂたちの方であった点である。ここで「正義の味方と悪の大魔王」の構図は、一度転倒している

しかし、フクベエは死に、カツマタが二人目の“ともだち”として登場する。カツマタはケンヂをコピーしたフクベエのコピーであり、「コピーのコピー」である(二度目のコピー*6。カツマタは“世界大統領”となりながら、ウィルス散布による人類の滅亡を企図し、過去の真実を告白することで、“ともだち”自身が「悪」であることを暴露してしまう。ここに、「正義vs悪」をめぐる二度目の転倒が起こる。


全世界の人々の“ともだち”になりながら、自身こそテロリストであったことを告白したカツマタは*7全世界にとっての「敵」、絶対普遍的な「敵」になることに成功したように見える。おそらく、そのような普遍的な「悪の大魔王」の現出は、普遍的な「正義の味方」のように見える“世界大統領”が反転することによってこそ可能であったと考えるべきなのだろう。

二度目の転倒の後で、ケンヂたちは世界の平和を守る「正義の味方」として「公式に」位置付けられることになる。だが、それ以前の“ともだち”勢力の幹部との対決の中で、ケンヂは注目すべき発言を行っている。彼は、「悪」になることを望んで“ともだち”に従いケンヂたちを苦しめてきたと語る相手に対して、「悪になることは難しい。正義の味方になる方がよっぽど簡単だ」と諭し、自ら「正義の味方」になることを宣言する。私は、このように正義と悪の二項対立を意識的に抱え込もうとする言葉に強い印象を覚えずにはいられない。だが、今はこれを棚上げにして話を先に進めよう。


実は、二人目の“ともだち”であるカツマタは、ケンヂが行った不正=悪の罪を着せられ、その事件によってフクベエから「死」を与えられた過去を持つ。これ以後、ケンヂたちとは違うクラスの「カツマタくん」は実際に死んだものと噂され、ケンヂたちから存在そのものを「忘却」されていくことになる*8

ここには「ケンヂたちをコピーしたフクベエをコピーするカツマタ」という構図の前提となる、「ケンヂたちから「忘却」されがちなフクベエから「忘却」されるカツマタ」という構図が見出せるが、それよりも重要なことは、カツマタの「死」の原因がケンヂの不正にあるという事実である。つまり、普遍的な「悪の大魔王」に成長したように見える“ともだち”の「悪」は、「正義の味方」に返り咲いたケンヂの「悪」が生んだものにほかならない。したがって、この事実が明らかになった時点で、「正義の味方と悪の大魔王」の構図は三度目の(あるいは原初的な)転倒を迎えたと見做さなければなるまい*9


「真の正義」と「絶対悪」



さて、物語終盤、ケンヂと対峙した“ともだち”は、ケンヂに過去の不正を思い出させようと、自らの身を省みるように促す。だが、ケンヂはそのことを言われるまでもなく「覚えている」、「忘れたことなんかない」と語り、“ともだち”に謝ろうとする。その時“ともだち”は動揺し、「謝るな」と言う。「謝られたら、全てが終わってしまう」と言う*10

なぜか。「正義の味方」が「悪の大魔王」に謝ってしまったら、物語が成立しないから。乱暴にそう言ってしまってもよいが、もう少し突き詰めて考えよう。ことは「正義」と「悪」の本質に関わっている。絶対普遍的な「真の正義」とは、いかなる観点からも相対化不可能であり、全ての存在を包摂し、全ての存在に対して妥当する究極的な「正しさ」を伴っていなければならない。他方、「絶対悪」は、いかなる観点からも正当化不可能であり、全ての存在に対して敵対し、誰によっても正しいと信じられることのない普遍的な「悪」でなければならない。「真の正義」と「絶対悪」は、一方が存在すると仮定するのならば、他方も存在する関係にある。そして、「正義の味方」が主人公である子供向けヒーロー物語においては、こうした正義と悪の対立が世界観の基礎をなしている。『20世紀少年』の特徴は、相対主義が蔓延する日本においては子供しか信じないような正義vs悪という単純な二項対立図式を、意識的に物語の中心に据えたことにある。


それでは、本作中において、「真の正義」の存在は信じられているのか。そういうふうに読めないこともない。ケンヂが過去に不正を犯していることから、ケンヂの「正義の味方」性は傷つけられているが、それでも「正義の味方」という概念そのものは疑われているわけではない。そこから、本作は「真の正義」の存在そのものは疑わずに、正義を担い、正義に「味方する」主体としての生身の人間の過ちに焦点を当てたものだと解釈することは十分可能だろう*11

しかし、「真の正義」の存在を想定するとしても、それを解釈し、どうすればそれに「味方」したことになるのかを判断するのは個別特殊的・主観的でしか有り得ない個々人であるから、人が自らの信じるものに従って行動し、その信念が「正義」として提示されるという事態そのものは、「真の正義」の存在を想定しない場合と変わらない。つまり、「真の正義」が存在しようがしまいが、人は(自分が信じる)「正義の味方」になり得るのである*12


これに対して、「悪」の場合はそうはいかない。ある立場が何らかの(相対的でしかない現実の)「正義」によって正当化を試みられたとすれば、その立場はもはや「悪」たり得ない。その立場は一つの(ローカルな)「正義」と見做されねばならず、その立場を採る者は一種の(相対的な)「正義の味方」として現れてくる。したがって本来、ある立場が「悪」であるためには、それは「絶対悪」でなければならない。「悪」は、いかなる観点からも正当化不可能な立場、あらゆる(ローカルな)「正義」から孤立した立場としてしか在り得ないのである。

私は、先のケンヂの言葉、「悪になることは難しい。正義の味方になる方がよっぽど簡単だ」という言葉を、このような論理からの帰結として解釈したいと思う。多様な「正義」の全てに対して敵対するような「悪」は、(「真の正義」同様)存在し得ない。人類を滅亡させるという行いですら、「地球や宇宙のためにはそうすべきではないか」という形で正当化が試みられ得るのだから。


子供向けのヒーロー物語に登場する「悪の大魔王」が、決して共感することができないような異形の存在でなければならず、世界征服などの目的の背景に何らか汲むべき理由を持っていてはならない理由も、ここから理解できる。「悪」は「絶対悪」でなければ、成立しないのである。

しかし実際、そうした意味での「絶対悪」を描くことに成功した作品がこれまで存在しただろうか。思えば、作者の前作『MONSTER』も「絶対悪」を描こうとする試みとして解釈することができるが、そこでも「悪の大魔王」にはその出自に「汲むべき理由」があった。結局、(「真の正義」同様)存在し得えず、そして想像することもできない「絶対悪」は、描くことができないのだろう。


物語に戻ろう。“ともだち”にとって、ケンヂの「正義の味方」性が傷つけられただけならよかった。だが、「正義の味方」が過去の過ちを「悪の大魔王」に謝るようなら、「悪」は、いかなる観点からも理解し得ない「絶対悪」ではなくなってしまう。「正義の味方」と「悪の大魔王」の双方が、その役柄の性格規定を破壊されていくのならば、そのヒーロー物語は終えられなければならないだろう。

また、カツマタの「死」を引き起こした自らの不正をケンヂが「忘却」していなかったとすれば、ケンヂの不正の罪を被ったカツマタの存在はケンヂの中で生き続けていたことになる*13。すると、固有名を奪われた「ただのともだち」でしかなかった“ともだち”に、固有名が返却されてしまう“ともだち”が普遍的な「正義の味方」や絶対的な「悪の大魔王」になり得た(ように思えた)のは、「彼」が誰でもない「ただのともだち」であり、ローカルなもの・個別特殊的なもの(=相対的なもの)に還元できない存在として現れたからである。“ともだち”が固有名「カツマタ」として把握されるようになった時、「正義の味方」が「悪の大魔王」から世界を守る「子供向け」の物語は、終幕を余儀なくされたのである*14


それゆえ、『20世紀少年』に思想的意義を求めるとすれば、それが「正義vs悪」という二項対立を自覚的に抱え込みながら「絶対悪」を描くことに「失敗」することによって、遂行的に「真の正義」は在り得るかという問いに否定的回答を突きつけた点こそが評価されるべきである。『20世紀少年』は、その「大人向け」の込み入った過程によって、子供っぽく相対主義へと直行する『DEATH NOTE』とは区別されなければならないのである。



*1:「『DEATH NOTE』に思想は無い」 http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20061129/1164808880

*2:「正義の臨界を超えて」(原題:「神と正義について」) http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20070123/p1

*3:“ともだち”はシンボルマークが描かれた覆面をしており、顔を見せない。

*4:“ともだち”の輪は世界大の普遍的共同体に拡大したところで、「敵」を宇宙に求めることになる。物語終盤の社会において、ケンヂらテロリスト・反体制勢力は、宇宙人であると語られている。

*5:なお、作中において「世界」として現れる範囲は、日本と欧米諸国、それからせいぜい中国を加えた程度のものにすぎない。“ともだち”による世界征服(世界の「滅亡」)が、西暦から「ともだち暦」への移行で象徴されることからも、この作品における「世界」像が伺える。これを作者の「世界」像の反映と見るか、“ともだち”を生んだ子供的想像力を前提とする物語に伴う当然の制約と見るかは自由であろう。

*6:世界大の普遍的共同体を実現した“ともだち”が、コピーやコピーのコピーでしかなかったことは、「大きな物語」がシュミラークルやシュミラークルのシュミラークルとしてしか成立・実現し得ないという現実を示しているのかもしれない。そもそも、ケンヂたちが描いたストーリーそのものが、いかにも漫画やテレビに影響された子供が考えそうな、どこにでもある物語でしかない。

*7:実際には、最初のテロ行為はフクベエが行ったことであるが。

*8:フクベエによって「死」を与えられたのはカツマタだけではない。サダキヨもまた、転校後にケンヂたちから「忘却」され、(おそらくフクベエの作為的な流言によって)死者として扱われていた過去を持つ。

*9:しかし、中学生となって退屈な日々を送っていたカツマタに自殺を思い留まらせ、未来を生きさせたのは、ケンヂが放送室から学校中に流した“20th century boy”だった。このことを以て四度目の、未来へ向けた(?)転倒が存在したのだと見ることも、あるいは可能なのかもしれない。

*10:そしてその後、カツマタは死ぬ。

*11:もっとも、「真の正義」の存在は疑われてもいないが、明示的に信じられているわけでもないので、必ずしも「真の正義」の存在が想定されているとは限らないと相対主義に引きつけて解釈することも可能なのかもしれない。

*12:実際、ケンヂが信じているように見える「正義」とはそれほど大層なものではない。それは、人を殺すべきではないとか、自ら死ぬべきではないとか、万引きは控えるべきだとか、そういったような極めて「ふつう」の、日常的な道徳感覚から導かれるような「正しいこと」「善きこと」であるに過ぎない。究極的に正しいと言える根拠も無く、状況によって容易に相対化され得るような、「真の正義」からは程遠いローカルな正義であるに過ぎない。

*13:ケンヂは自らの罪を被った同級生がカツマタであったと知っていたわけではないだろうが、それでも「忘却」が為されなかったという事態は変わらない。忘却されなかった“20th century boy”カツマタは、ケンヂを通じて21世紀を生きた。

*14:“ともだち”がフクベエであることが露になった時点で物語が終えられなかったのは、未だ固有名に還元されない「ただのともだち」たり得るカツマタが存在したからである。


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