Sunday, November 9, 2008

かかわりあいの政治学3――出来事が持つ意味


(承前)


 個別の出来事が個別の出来事以上のものになることがある。直接には少数の人がかかわっただけの特異な出来事が、その特異性を維持したまま、その出来事が属する〈現在〉の全体を圧縮して代表することがある。日本の戦後史から例をとれば、連合赤軍事件がそのような出来事だったし、オウム真理教事件もそうであった。


大澤真幸「はじめに」大澤真幸編『アキハバラ発 〈00年代〉への問い』(岩波書店、2008年)、ⅴ頁


個別の出来事は、個別の出来事でしかない。それが個別の出来事以上のものに「思えるようになる」のは、出来事の外部からの視線が、出来事に何らかの「代表性」(ないし象徴性)を読み込むからである。「代表性」とは何だろうか。それは構成の代表なのか、利害の代表なのか、意思の代表なのか。「全体を圧縮して代表する」とは何だろうか。圧縮された全体が一個の事件によって代表されると言うことは、何も代表されていないということではなかろうか。その空虚な「代表性」の内部に、何でも好きなものを詰め込んで代表させて見せることができる、ということではなかろうか。「代表させっこゲーム」に興じる人々は、対象となる出来事を巡る言説に利害関心を持っているに過ぎず、出来事そのものに「かかわっている」わけでは、確かにない。


しかしながら、狭い意味では出来事にかかわっていない人間が、その出来事そのものに強い「かかわり」を持つことは、確かにある。TVを通して知る遠い彼方の出来事が、「自分のこと」としか感じられなくなるようなケースは、稀ではない。出来事から大きな衝撃を受け、深い悲しみの穴に落ち込む。あるいは出来事に激しい怒りを覚え、誰か/何かを強く憎む。そのいずれでもないにせよ、出来事に感情を揺り動かされ、出来事の行方に高い関心を寄せる。そうした人々は、その出来事に「かかわり」を持っていると言えるだろう。

もちろん、そこにも各人なりの「読み込み」が無いとは言えない。出来事についての言説に「かかわっている」人間と、出来事そのものに「かかわっている」人間との区別は、そうスッパリと付けられるものではない。それでも、スッパリと言えることはある。「個別の出来事が個別の出来事以上のものになることがある」とすれば――と言うよりも一層正確に言うなら:個別の出来事が「少数の人がかかわっただけの特異な出来事」に留まらず、それ以上の意味を帯びることがあるのは、それが何かを「代表」するからではなく、広い範囲の多数の人々と直接に結び付くからなのだ。


私は過去に、秋葉原無差別殺傷事件のような出来事について語ることは公的に必要なことではなく、「究極的には当事者にしか必要でない」ことだと述べた。そこで言う「当事者」とは、狭義の「かかわり」を持つ「少数の人」に限られるものではなく、それら「少数の人」と何らの接触も持たずして、図らずも出来事に「直接の結び付き」を持つことになった多数の人々を含み得る幅を備えた言葉である。より適切には、「関係者」と言い換えた方がよかろう。


この意味での「かかわり」は種類も程度も多様であり、「関係者」の範囲は無限に広がり得る。しかし、一般に認識される「当事者」が持つ狭義の「かかわり」と、「関係者」が持つ広義の「かかわり」の間に、自明な階梯が存在するわけではない。前者が後者よりも重視されるとすれば、それは何らかの社会的合意に基づくものであり、自然な序列ではない。社会の秩序は、その内外に存在する無数の「かかわり」の内で、何かを採り上げ、何かを打ち棄てることによって成立していく。だから、「かかわり」について掘り下げて考えることは、社会の構成を明らかにすると同時に、その組み換えの可能性に意識を向かわせる作業ともなる。

そのようなことを念頭に置きつつ、次回以降も細やかなことを考えていきたい。

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