Saturday, October 17, 2009

当事者と利害関係者の違い


当事者と利害関係者」@Soul for Sale PhaseⅡ、より。


ステイクホルダーという概念が社会問題の中で有効に機能するのは、これまで発言を認められてこなかった人々を「当事者」として当該の出来事の中に巻き込んでいくときだ。それは会社経営に権利を持つ、株主と経営者以外の人々は誰かとか、環境問題に対する、「直接の影響」を被る範囲はどこまでかとか、そういう場面で噴出する。だからステイクホルダーとしての当事者は、必然的にその境界を揺るがし、曖昧にしていく傾向にある。

それに対して社会問題を扱う研究者にとっての「当事者」とは、これまで「蚊帳の外」だった人々に、物言う権利があることを示し、彼らの声に耳を傾ける必要性を訴えるという点で、人を「アイデンティファイ」する振る舞いに関わっている。つまり「誰が当事者か」という問題を確定することから、社会問題の性格付けを変えるというものなのだ。そしてこの言葉は、何らかの「アイデンティティ」を必要としている人々を巡る社会問題の中で使われがちであることを含め、どちらかというと「境界を確定する」ために用いられることが多いようだ。

もしかしたらそれで大した問題はないのかもしれないけど、例えばまちづくりに関する「当事者」とは、「そこに住所を持つ人」なのか「そこを訪れるすべての人」なのか、なんてことを考え出すと、「当事者を巡るポリティクス」は、とたんに問題の本質へと切り込んでくるものになる。また、時間の話も重要だ。いまある状態にいる人だけが当事者なのか、それともかつてそういう経験をした人はみな「当事者」たる資格を有するのか。その辺りのことって、誰か考えているんだろうか。

本当なら、何か別の言葉を発明した方がいいのかもしれない。アイデンティティ・ポリティクスと社会問題の関係は複雑だし、ましてや研究の世界でそれを扱うとなると、すごくデリケートな問題が多々発生するのだし。きっと「私たち・が・当事者だ」というのと「私たち・も・利害関係者だ」という物言いとの間にこそ、マジモンの権力が横たわっているのではないか。


「その辺りのこと」は、私が考えています。正確に言えば、考えた結果を既に論文の中で書きました(『利害関係理論の基礎』、第1章第5節2「利害関係者と当事者」)。当事者概念と利害関係者/stakeholder概念のそれぞれについて考察されたものは幾つもありますが、二つの概念を比較して異同と理論的関係性について詳細に検討を加えた例は稀有なはずです。


stakeholder概念が「境界」を曖昧にしていくのに対して、当事者概念は「境界」を画定しようとするとの指摘は的確だと思います。ただ、stakeholderという言葉を使う人も何らかの利害関心・問題関心からそうしている以上、曖昧にするだけして、そのままでいいとは思わないでしょう。その人たちも、普通はどこかで画定へと向かうはずなのです。他方で、当事者概念によって「アイデンティファイ」を行おうとする人たちだって、今まで「蚊帳の外」だったことへの異議申し立てとしてそうするわけですから、既存の「境界」を揺すぶるというプロセスを必ず経ることになります。

つまり、異なる文脈で使われがちであるように思われる二つの概念ですが、それぞれが社会問題の中で占めている位置と言うか、果たしている機能は大して変わらないのです。ほとんど同じだと言ってもいい。文脈が違うように思えるのは、使う人の強調点の違いが反映されているためだと考えるべきでしょう。


stakeholderの範囲を問題にして、利害関係って何だろうかと真剣に考え始めると、それはどこまでも際限無く広がってしまい得るものだということに気付きます。利害関係の中身は理論上何でも有り得ますから、ある問題に対して、誰もがstakeholderで有り得るのです。当事者概念がstakeholder概念と違うのは、そこで既存の「境界」を問題にする時に、「境界」の中に入って「物言う権利」を認められるべき主体が、人物単位・属性単位で予めハッキリと想定されていることです。誤解を恐れずに言えば、stakeholder概念は手続き、当事者概念は結果に相対的な力点を置いていると捉えるのが解り易いのかもしれません。

敢えて意地の悪い言い方をすれば、当事者なるものは、誰の声を重んじて誰の声を無視するのかという排除の意志を、より露骨な仕方で伴わせている概念なのです。無論、急いで付け加えなければなりませんが、「境界」の画定という排除を必然的に伴う点では、利害関係概念も政治性と無縁ではありません。ただ、そうした政治的な価値意識や権力の作用が、一連のプロセスにおけるどの時点で介入し、働くのか。その点に違いが見出せるのだということです。


 それゆえ、当事者概念を定義するに当たっては、本人体験性を条件とする狭義の当事者と、本人以外の関係者を含めた広義の当事者を区別した野崎の議論に準じるのが、最も適切であると思われる。すなわち、狭義の当事者the person in questionとは「特定の行為または状態を過去に経験したことがあるか、現在経験している本人」を意味し、広義の当事者the person concernedとは「特定の行為または状態を過去に経験したことがあるか、現在経験している本人、およびその関係者」を意味する。

 だが、ここで直ちに気づくことは、広義の当事者の定義が「関係者」の定義に依存しており、それゆえに不完全であるということである。本人以外の関係者を当事者に含める限り、「関係者とは誰か」という問いに答えなければ、「当事者とは誰か」という問いに答えたことにはならない。そうであれば、当事者性についての研究は、最終的に利害関係についての研究によって補完されなければならないだろう。

 また、より根本的な問題も存在する。それは、「本人体験」とはどのような体験でも有り得るために、当事者とは誰でも有り得ることである。不登校という事象についての「本人体験」として一般に想定されるのは不登校そのものの経験であるが、不登校の子供を持つ親にとっては、自分の子供が不登校であるということは紛れもない「本人体験」であるし、不登校の生徒を担当する教師にとっては、担当する生徒が不登校であるということは同様に「本人体験」である。それぞれの体験と、体験から表出される感情はそれぞれに個別的・唯一的であり、その意味での「重み」に優务があるわけではない。

 また、不登校者、親、教師、その他の関係者は、不登校という事象における自らの体験に基づくニーズをそれぞれに有していると推測できる。したがって、当事者たる要件を本人体験ないし体験に基づくニーズに求めるのであれば、論理的には、不登校という事象における当事者は、不登校者、親、教師、その他の関係者の誰でも有り得る。

 こうした事実は、「当事者とは本人体験者である」といった定義が、それだけでは当事者の範囲をほとんど限定しないということを意味する。それにもかかわらず、不登校の中心的な当事者が不登校者であると一般に見做されているように、特定の事象について特定の体験が当事者性の指標とされやすいのはなぜであろうか。誰もが当事者で有り得るのに特定の当事者のみが当事者として現れるのはなぜであろうか。

 それは、私たちが当事者を指示するに当たって、複数の「本人体験」および体験に基づいたニーズ=<利害>の間に予め優先順位を想定し、重要であると考える体験およびニーズを有する当事者だけをその事象における当事者として見做すという選択を行っているからである。不登校者の親や担当教師よりも不登校者自身が中心的な当事者として扱われ、しばしば不登校者のみが当事者として扱われるのは、不登校者自身の体験およびニーズの方がより重大であると考えられているからであり、不登校についての専門家が不登校の当事者として扱われないのは、専門家にとっての個別の不登校に直面するという体験およびそこから生じるニーズがあまり重大でないと考えられているからである。

 つまりここでは、多様な「本人体験」に基づく多様な当事者集団の中から、その体験およびニーズに対して優先的に配慮すべきであると考えられた当事者を狭義の当事者(本人)と見做し、二次的に配慮すべきであると考えられた当事者を広義の当事者(関係者)と見做す、という選択が行われていることになる。このように考えるならば、当事者概念の意味内容、あるいは当事者性の要件には、規範的予断が含まれていると言わねばならず、それは記述理論の観点からして欠陥が見出されたということである。

 他方、当事者たる要件としての本人体験と体験から生じるニーズを<利害関係>と見做すことは可能であるから、当事者概念および当事者性についての議論は、利害関係理論の枠内で説明可能である。特定の問題状況において、「当事者は誰々である」という有意味な限定を為すことは、その体験およびニーズに対して優先的に配慮すべき利害関係者を選択し、彼に当事者という呼称を付するということにほかならない。したがって、当事者概念は、利害関係理論の内部に位置付け直されるべきである。

 もっとも私は、こうした事実を指摘することによって、当事者概念を用いることが無意味であると言いたいわけではない。ただ<利害関係>概念と当事者概念の異同と、それぞれの適性を明らかにしたいだけである。本人体験を要件とする当事者概念は、「体験」が可能な特定の行為、状態、事件、事案などを前提として用いられるため、事物そのものなどに対しても用いることのできる<利害関係>概念よりも汎用性が低い。それゆえ、政治的対立状況や問題状況を包括的に記述するためには、<利害関係>概念の方が適している。

 また、野崎が指摘しているように、個別性・排他性の強調と結び付きやすい当事者概念の使用は、結果として「当事者ではない人たちを寄せつけないような強度」を持って排他的・権威的に機能してしまいがちであり、「当事者の言っていることが「当事者であるだけで」正当性を帯びてしまう」傾向を生みやすい点にも注意が必要である。利害関係者という概念は、当事者という強い言葉が意味する範囲から洩れてしまいがちな周辺的関係者を含めた多様な人々を同一平面上で捉えることによって、当事者とされる人々の地位を敢えて相対化するような視座を提示することができる。それは、問題状況を反省的に捉え直す上で大きな寄与を為すことができるだろう。

 ただし、本人体験という中心部を明確に照らし出し、押し出す力強さと、抽象を拒み、固有性を提示することができる点で、当事者概念には大きな強みがある。<利害関係>概念は広範な当事者・関係者を同じ地平で捉えるために、そうした政治的突破力を弱める方向に働いてしまいやすいようにも思える。それゆえ、<利害関係>概念と当事者概念は、領域と場面によって使い分けられればよいのであって、相互排他的であると見做す必要はない。


(前掲論文、81-83頁。注を略。文中の「野崎の議論」は、野崎泰伸「当事者性の再検討」(『人間文化学研究集録』第14号、2004年)を指す。)

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