Monday, December 13, 2010

ステークホルダーの両義性――あるいは政治主体としてのステークホルダーについて


数ヶ月前に私は、「ステークホルダー・デモクラシーの可能性」なる文章を公表しました。十分だったかどうかは分かりませんが、そこでは、経営学でのstakeholder theoryの文脈を押さえつつ、stakeとstakeholderの語源・語義を簡単に整理して、「公共化された利害関係者」としてのstakeholder概念のニュアンスを明らかにしたつもりです。

その際の意識は主に、「ステークホルダー」なる新奇な言葉を使うことに懐疑的な人への説明にあったのですが、その後、事業仕分けを巡る議論などを眺めていると、むしろステークホルダー論を積極的に振り回すようなタイプの人々にある種の怖さを覚えるようになりました


stakeholder theoryは元々、企業の活動から影響を受け、企業に対して重大な利害を有しながら、意思決定への影響力を持ち得ない主体を再定義する所から出発しました。stakeholderはstockholderと対比される形で概念化されましたが、その内部に株主を含んでいます。したがって、ステークホルダー論は本来、単に組織や集団がその外部に広がる社会への応答性を高めねばならないというだけの話ではなく、組織・集団の内外を問わず、重大な利害関係を有する主体を決定過程に包摂し、内部化すべきであるとの主張を含んでいます。そこで包摂すべき主体として概念化されたのが、「ステークホルダー」です。

ステークホルダーが決定過程に内部化されるべき主体であるということは、決定はステークホルダーに委ねられる、ということです。つまりステークホルダー論には、(1)組織・集団の社会への応答性を高めると同時に、(2)その社会から区切られた特定のステークホルダーには特別の地位や権限を認める、という二重の含意が最初から伴っています。もちろん、その特別性は、決定過程を担うべき主たるステークホルダーの外部に拡がる、周縁的なステークホルダーとしての社会への応答性に担保されなければなりません。しかし、それでも基本的には、ステークホルダーと認識される主体には自律的な地位が与えられて然るべきなのです。

ところが、組織・集団の社会的責任を問う文脈でステークホルダー論が人口に膾炙するにつれ、特定の組織・団体に割り振られている特権・利権を社会の側が剥奪する(分捕り返す)、といった類の話へと矮小化・意味変換がなされつつあるのではないか。事業仕分けに象徴的なのですが、近頃そのような印象を覚えることが多いです。社会的責任や社会貢献といった言葉が、(財源問題をテコにしながら)薄く広い利害のために、濃く強い利害を持つ特定部分から何かを引っぺがしてくるために用いられるとすれば、それはステークホルダー論の逆用と言うべき事態であり、そのような誤解釈は避けられなければなりません。


事業仕分け的なものは評価が難しいのですが、少なくともそのポピュリスティックな部分というのは、過去の権力構造への反動として現れているもので、個別の事業に対して薄く弱い利害しか持たない「社会」や「国民」が従来の利益配分を蹴散らすことができるのは、権力構造の変容が、彼らにその権力をもたらしたからです。従来の偏りに対する批判が別方向への偏りを生むのは避け難い面があるとはいえ、ニーズ自体は変わらず存在しているのですから、分捕り返しへの執心は止めて、適切な利益配分を為し得る枠組みの構築を考えるべきでしょう。

権力は、集合的で匿名的な「国民」にあります。彼らは、何に対しても薄く弱い利害を持つ周縁的なステークホルダーとして存在します。しかし、その内部を貫いて共通する利害は「財源」などに限られており、利害に見合わない大きな権力が持て余されているように見えます。そうであるならば、その権力は、個別の単位や政策領域ごとにステークホルダーへと分割・移譲されるべきではないでしょうか。ステークホルダー論は、既存の権利義務関係に限られない利害関係の実態に即して、決定過程を再解釈へと開くものです。利害と権力の非対称性を問題にして、利害に応じた権力の配分を求めます。もしステークホルダー論を振りかざそうとするのなら、匿名的な「国民」が直接関与する段階を限定する方向へと舵を切るべきでしょう。


若干くどくなるかもしれませんが、もう少し大きな構図の中で話してみます。グローバルな相互依存を前提に、企業の経済活動が社会に大きなインパクトを与える可能性が大きくなるほど、その意思決定には企業市民としての公共的責任が伴うようになります。社会の多様化・複雑化と資源の制約性に伴って政府の統治能力が限界に直面し、従来のヒエラルキー型ガバメントから、ネットワーク型ガバナンスへの移行が語られる中で、企業やNGO・NPOなど、非政府的アクターが政府と共にガバナンスを担う主体と見なされるようになっています。すると、コーポレート・ガバナンスもまた、単なる私企業内部の統制に留まらず、ガバナンスを担い得る公共的アクター内部のガバナンスとして、(グローバル/リージョナル/ナショナル/ローカルなど)マルチレベル・ガバナンスの一層に位置付けられることになります。

つまり、企業に対するステークホルダー論というのは、社会内に拡散しているサブ政治を公共的なガバナンスの問題として捉え直す意味を元々持っている(少なくとも持ち得る)のです。企業に限った話ではありません。非政府的アクターがその外のガバナンスに対してステークホルダーとして参与するのと同時に、当の組織・集団におけるガバナンスにも、内外から多様なステークホルダーが関わるのでなければなりません。ステークホルダーとは、ガバナンスの主体なのです。政治主体としてのステークホルダー概念が、単なる狭い内輪的な利害関係者ではなく、「公共化された利害関係者」として捉えられなければならない理由は、ここにあります。

ステークホルダー論は、決定を濃く強いステークホルダーによる自律的な合意に基づかせるとともに、その外に薄く弱く広がるステークホルダー(社会)への応答性を備えねばならない、との二重性を抱えます。なぜ今その二重性が必要になったかと言えば、利害関係の分布が多様化・複雑化して、従来の利益集団のような利害の均質性を前提できなくなったからです。ガバナンスが対応すべきリスクは不確実であり、個別のイシューについて誰が利害関係を持ち得るのかは自明ではないため、ステークホルダーの範囲は既存の境界線やメンバーシップとの必然的結び付きを持ちません*1
労働組合の代表性の問題がよく採り上げられるところですが、ステークホルダーの概念化には、既存の利益代表を刷新して代表性を再構築しようとする意図が刻印されています*2。誰が決定すべきか自明でないから、その範囲を再定義するために境界線を一旦外へと開こうとするのですが、それは再び閉じるためです。ステークホルダーとは、開きながら閉じ、閉じながら開く概念なのです。それゆえ、ステークホルダー論を支持するのであれば、決定を担うべきステークホルダーに社会が信任を与えてあげなければなりません。社会への応答性要求は、この信任とセットでこそ論じられるべきものなのです。


*1:それゆえに、ステークホルダーを社会から区切るべく、既存のカテゴリに囚われない「ステークホルダー分析」が必要とされます。

*2:代表性の問いは、「ステークホルダー代表」の問題として再設定されることになります。


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