Saturday, July 7, 2007

科学的なるものの概念



科学とは何か



「科学とは何か」(A)と問われる時、そこには常に、「科学とは何であるべきか」(B)という問いがはらまれている。私が問いAに答えて「科学とは~である」と定義した瞬間に、その定義からはみ出すものは非科学=科学ならざるものとされ、決して科学と名指されるべきではないことになる。ここでは、問いAに答えることは、「科学と名指されるべきものはこのような条件を満たすものでなければならない」といった規範的限定を伴う規範的立場の表明を意味する。したがって、問いAが問いBから完全に独立して成り立つ事態は、およそ想定し難い。

BではないAを問うための一つの方法として、現実社会において「科学」という語彙がどのような意味で用いられているのかを分析した上で、様々な使用例から最大公約数的な「科学」の意味を取り出す仕方が考えられる。もっとも、現実に「科学」という語彙がXという意味で用いられていることが「科学とはXである」ことを必然的に意味するわけではなく、この定義に対する規範的な異議申し立て(「科学という言葉をそのような意味で用いるべきではない」)は有り得るから、この方法を採ってAに答える場合にも、「科学とはXを意味するべきである」という規範的主張としての性格が完全に消え去るわけではない。

ただし、「科学」という語彙が現実にどのような意味で用いられており、どのような機能を果たしているのかを把握するという限定された目的のためならば、「科学とはXである」と定義することに伴う規範的色彩は希薄になる。すなわち、そこで「科学とはXである」という定義を行うことは、「現実把握のために、さしあたり以下では「科学」という語彙をこのような意味で使用する」といった規約的定義を行うという「宣言」であるにすぎない。こうした定義は規約的なものであるから、「科学という言葉をそのような意味で用いるべきではない」といった規範的な異議申し立ては一般的に無効となる。もちろん、規約的定義に対しても「現実の把握のためにはそのような定義は妥当ではない」といった種類の批判は可能だが、これは規範的な異議申し立てとはひとまず異なるレベルに属する批判である。

そこで、限定された目的に供する規約的定義としてではあるが、問いAに対応する定義を私なりに提出しておこう。


科学とは、私たちが何らかの形で関わる世界の在り方を、何らかの方法によって解明し、論理的に説明しようとする営みである。


「何らかの形で関わる」とは、私たちが見たり、聞いたり、話したり、嗅いだり、触れたり、感じたり、考えたり、想像したりできればよいのであって、その対象が実際に存在しているか否かは問題ではない。「世界」とは、ありとあらゆる事物と現象の全てを指す。「解明」とは、そうした事象の性質・機能・原理・法則・関係などを明らかにすることであり、その方法として主に観察や実験、反省的思弁などが用いられるが、「何らかの方法によって」とあるように、その他の方法も用いられ得る。「論理的に説明」とは、何らかの根拠に基づいた思考の筋道が示され得るような方法によって、自己ないし他者が理解可能な形で現実を認識ないし伝達することを意味する。それは、世界の在り方について抱かれる「なぜ~か?」という疑問を解くために有用な理屈を提示することであり、その説明が「真の」現実、あるいは「現実そのもの」と一致しているか否かは、問題ではない。

以上の定義によれば、かなり広範な営為が科学として把握されることになる。例えば、「去年、雨乞いをしたら雨が降ったから、雨乞いをすれば雨が降る」といった粗雑な帰納に基づく推測も、「神がおわすならば、われらは救われるはずだ」といった宗教的な前提に基づく演繹も、一定の根拠に基づいて論理的な説明を試みようとしている以上、多少なりとも科学としての性格を有していると言える。私たちはこれらと同程度か、もう少しだけ精緻な論理的説明を日常的に行っているから、私たち自身の日常生活の中に、科学的な営みは溢れ返っていることになる。科学的性格の濃淡は、当該の根拠およびそれに基づく説明に従うならば、現実をどれだけ合理的・整合的に理解することができるようになるか、という相対的な尺度によって測られるのである。哲学・倫理学・思想史研究・歴史学・文学・神学など、通常は科学として把握されることが相対的に少ない諸学問も、研究対象を精査した上で、最も合理的と思われる結論ないし解釈を提示して、その論理的な弁証を試みようとする点で、科学の外に出ることはない。

しかし、このような包括的に過ぎるようにも思える定義を用いるならば、科学ではないものを探す方が難しくなるのではないか、という疑問が抱かれるかもしれない。例えば、単なる勘に基づいた判断も科学的営為なのであろうか。確かに、勘は一種の根拠として捉えられるかもしれないが、勘から直接導かれる判断には、世界の在り方を解明・説明しようとする独自の論理体系が伴われておらず、その点で科学的性格を欠いている。また、特定事象に対する規範的判断および規範的主張は、世界の解明や説明から離れて実践に踏み込んだ営みであるので、科学とは言い難い。このように考える場合、倫理学が科学に含まれ得るか疑問が生じる。それは、最終的には科学からは離れると考えてよいだろう。だが、世界の特定の部分について発せられる「なぜ~(べき)か?」という疑問を解くための論理的説明を試みるという点で、少なくともその過程において、あるいは中途まで、科学的性格を有すると言い得る。


科学と非科学の区別



さて、ここまでの私の説明に納得した人がどれだけいるだろうか。上記のような包括的な定義で満足する人は多くない。そうした人々は、「科学」という語彙の意味について、更なる限定化を求め、問いBの領域へと踏み込むのである。

問いBはしかし、いささか漠然としているので、そこで期待されているであろう答えが導けるような具体化を試みるならば、以下のように再構成可能であると思われる。「科学とは何を目的とするのか。そして、その目的を達成するために、どのような方法を採るべきなのか」(C)。

そこで、BやCに答えようとする者は、様々な基準を持ち出して、科学が科学であるための条件を限定化しようとする。持ち出される基準は再現可能性や反証可能性、可塑性、問題解決能力など多様であるが、実際のところ、そうした基準に絶対的なものは無く、科学と非科学とを明確に区別することは困難であるとされる*1。つまり、科学としての性質は程度の問題であって、科学と非科学の間には広いグレーゾーンが存在しているのであるから、両者を截然と区別するような境界線を引くことはできないのだと言う。

しかし同時に、「科学と非科学の間に区別を設けることができないと考えるべきではない」とも言われる。そうした主張は、次のような論法で行われる*2。

前提1:「ハゲでない人から髪を1本抜いてもハゲにならない」と、前提2:「髪が10000本ある人はハゲではない」を認めるならば、髪が10000本ある人から髪を1本ずつ抜いていった場合を考えることによって、「髪が0本の人でもハゲではない」という結論が導けるが、これはおかしい。ハゲの人とハゲでない人の違いは程度問題かもしれないが、両者の間には厳然とした違いが存在するはずである。そこで、前提1:「ある人から髪を1本抜いてもその人がハゲかどうかについての信念の度合いはほとんど変わらない」と、前提2:「髪が10000本ある人はハゲであるという信念の度合いは極めて低い」を設定して考えてみるならば、問題が解決できる。すなわち、髪が10000本ある人から髪を1本抜いたところで、彼がハゲであるかについての信念の度合いは「ほとんど」変わらないとしても、わずかの変化が積もり積もって、髪が0本になるまでには彼がハゲであるという信念の度合いが100%近くになっていることは十分考えられる。

同じことが科学と非科学の関係についても言えるだろう。つまり、科学と非科学の間に明確な境界線を引くことはできないにしても、幾つかの基準をチェックリスト的に用いることによって、どれくらい科学的であるかという程度を測ることはできる。そして、どの基準からもほとんど科学的性格が見出せないようなものは、明らかに非科学であると見做すことができる。したがって、科学と非科学の間にグレーゾーンが存在するからといって、両者を区別することはできないと考えることは間違いであり、両者の間には厳然とした違いが存在するのである。


科学/疑似科学と名指す欲望



以上のような論法には、説得力がある。私が用いた規約的定義の場合にも、定義=限定を行っている以上、そこから明らかに外れるものは「非科学」と名指されざるを得ない。何が明らかに外れるのかということを判断する基準が確定していないとしても、「科学」の定義から明らかに外れるものは「非科学」である、という想定は必然的に受け入れなければならない。その点で、科学と非科学の間に明確な境界線を引くことが困難であるとしても、両者の区別を放棄するべきではないという立場は、それ自体として妥当である。

しかしながら、私がここで考えてみたいのは、こうした立場を採る人々が「非科学」として「科学」から区別しようとしているものを、「疑似科学」や「ニセ科学」といった名前で呼び、それらが「科学」を「僭称」することを批判しているという事態についてである*3。

疑似科学やニセ科学として名指されるための条件は、「科学ならざるものでありながら、科学を自称するか、科学であるかのような装いをする」(Y)ことに求められるだろうと思う。伊勢田哲治や菊池誠は、こうした疑似科学ないしニセ科学の実例として、創造科学や占星術、ある種の代替医療、血液型性格判断、マイナスイオン家電、ゲルマニウム製品、ゲーム脳などを挙げている。だが、上で述べたような彼らの立場からすれば、疑似科学ないしニセ科学と名指されるような理論においても、ある程度の科学的性格が見出されることは有り得る。一般的には、それらは科学的性格が希薄であるとは言えても、科学的性格を全く有していないと言えるような場合はそれほど多くないようである。例えば創造科学について伊勢田は、「ほとんど科学と呼べない」とは述べていても、それが「非科学である」とか「科学ではない」などとは断言していない*4。

しかしながら、疑似科学ないしニセ科学をY(科学を僭称する非科学)のように定義したとするならば、希薄ながらもある程度の科学的性格を有しているものや、「ほとんど科学とは呼べない」かもしれないが、わずかながらも科学的な部分を備えているものなどを、疑似科学ないしニセ科学と名指すことは、厳密に言えば不正確であろう。もちろん、疑似科学ないしニセ科学を「科学的性格が著しく希薄であり、科学的であると見做し得る部分を極めて限定的にしか備えていないにもかかわらず、科学的性格を誇張するか、科学的と見做し得る程度が相当に高いかのような装いをする」(Z)ものなどと定義する場合には、それらはグレーゾーンを含んだ範囲を意味する用語として、「非科学」とは区別される。だが、伊勢田や菊池においては、どちらかと言えば、ZよりもYのような定義が堅持されているように見える。若干の不正確さを伴わせてまで、科学的性格が希薄ではあるが非科学であるかどうか不明確な理論を、非科学であることを想起させるような疑似科学ないしニセ科学といった語彙によって名指そうとするのはなぜなのか。

ハゲの例から考え直そう。そもそも、ハゲと非ハゲを区別しなければならない必然性は存在しない。頭髪の多少を観念するならば頭髪が全く無い状態も観念せざるを得ないが、そうした相対的な程度の違いを記述するためには、頭髪が多い/少ない/無いといった相対的な表現方法を用いれば足りる。したがって、頭髪が無い状態だけを指して特別の言葉を用いる必然性は無い。そこで頭髪が無い状態を指してハゲと呼ぶようになるのは、そのような特別の言葉を用いた限定的な指示を行いたいという欲望が存在するからである。

もし、ハゲという語彙が本来、頭髪が全く無い状態のみを意味したのであれば、頭髪が少ない状態を指してハゲと呼ぶのは不正確であるが、現在ではハゲという語彙はそのような意味で使用されている。それはおそらく、少なくとも現在では、ハゲという語彙によって名指すことを欲望されているのは、頭髪が無い状態から薄い状態までを含めた広い範囲であるということだろう。すると、ハゲという語彙の使用を支える欲望とは、頭髪が薄い状態を頭髪が無い状態に引き付けて解釈したいという欲望なのではなかろうか。

科学についても、基本的には科学的性格が濃いか薄いか、強いか弱いか、という相対的な表現が存在すれば十分であり、科学的性格が全く認められないものも有り得るであろうが、そうしたものだけを取り上げて名指すことにさしたる必要性は存在しない。しかし、ひとまず「非科学」という言葉が存在する。そして、「非科学的」という言葉が、おそらくは科学的性格が全く見出せないわけではないような理論に対しても使われることがある。それは、科学的性格が希薄であるものを、科学的性格を有しないものに引き付けて解釈したいという欲望に基づく行為なのではないか。

おそらく、疑似科学とかニセ科学などといった呼称は、そのような欲望をより直接に投影したものであろう。創造科学その他の科学的性格が希薄な理論を批判する際には、基本的には、「科学的性格が希薄であるにもかかわらず、科学的性格を不当な程に誇張している」と批判すれば足りるはずであるが、それを敢えて疑似科学ないしニセ科学と名指そうとすることが、特定の欲望ないし目的意識を体現している。

そうした欲望ないし目的意識の中心は、いわゆる疑似科学やニセ科学による科学の「僭称」がもたらす社会的不利益を極小化しようとするものであると思われ、それ自体として私も部分的に共有したいと思うものである。疑似科学とかニセ科学などといった名指しがなされ、科学的性格が希薄な理論が科学的性格を有していないものに引き付けて解釈される時、そこには前述の不正確さが伴うが、そうした不正確さは実践的な目的意識の前では瑣末な理論的齟齬であるにすぎないと見做されるのかもしれない*5。

しかしながら、私はそうした不正確さがはらみかねない危険性の方に目が行く。科学的性格が希薄ながらも全く存在しないわけではない理論が、疑似科学ないしニセ科学と名指され、ほぼ非科学と同義に解釈されることが一般化するならば、相対的であるはずの科学的性格の差異が絶対化され、科学と非科学の本質的な差異と見做されるようになってしまうのではないか。それは丁度、頭髪の相対的多少に基づくにすぎないはずのハゲという語彙が、何かそうした絶対的・本質的な人間的特徴を持つ集団が存在するかのような印象を伴わせて使われることがあるように。

おそらく、疑似科学ないしニセ科学という名指しによって、そうした本質主義的な想定を強化するような機能が生まれる事態は、いわゆる疑似科学ないしニセ科学による科学の「僭称」を批判する人々の目的意識から著しく遠い帰結である。だが、疑似科学ないしニセ科学という名指しを支える欲望には、そういった帰結を呼び込みかねない芽が全く存在しないわけではない。その芽とは、明確には指示することができないとしても、どこかに「真の科学」が存在するはず/べきであり、同時に決して科学と呼ぶべきでないものが確実に存在するという想定である。それは問いBに踏み込んだ以上、避けることのできない想定であるが、一つの規範的な立場でしかない。「科学」とは一つの概念であるから、その定義は一様ではないし、本質的に科学であるものや本質的に科学でないものなど存在しない。それにもかかわらず私たちは「科学とは何か/何であるべきか」と問うた瞬間から、科学なるものと科学ならざるものを分けて考えてしまい、そしてそうした区別は、しばしば本質主義的な区別に傾きやすいのである。

もちろん、Bを問うことが、必ず本質主義に傾くわけではない。しかし、疑似科学とかニセ科学といった用語は、「これは科学だ」「これは科学ではない」といった明確な断定に傾きやすい私たちの本質主義的な欲望を刺激し、そうした欲望によって利用されかねないという危険性を伴っている。それゆえ、科学的性格が希薄な理論を特に名指したいならば、疑似科学とかニセ科学といった非科学を想起させるような語彙を用いるのではなく、より正確な別の表現を用いるべきである。私には巧い代替案が思い浮かばないが、例えば「未成熟な科学」などのような相対的差異を前提とした呼称が望ましいと思う。


科学を科学の外部に基礎づける



最後に、科学とその外部との関係について考えてみよう。「科学の成果をしつけや道徳の論拠として用いるべきではない」などと言われることがあるが、これは間違っている。事実から価値を導くことはできないとしても、事実を提示することによって、価値にかかわる説得の論拠にすることはできる。例えば、人の命は一つしかないから命を大切にしなさいとか、人生は一回きりだから後悔が無いように生きなさいなどと言われることがあるが、これらは特定の事実を特定の道徳の論拠に用いている。人間が一度死んでも生き返ることが可能であれば、こうした道徳的言明の説得力は変化し得るが、だからといってこうした論法が妥当でないということにはならないであろう。ある道徳を正しいものとして受け入れるかどうかは、各人が自らの頭で考えることであるが、その過程で科学の成果を参考にすることは有り得るのである。

したがって、科学はその外部で行われる規範的な議論とも深くかかわっている。科学の目的を何に求めるべきかは規範的な問いに属するが、ここではひとまず最大公約数的な理解に基づく規約的な仕方で、それを「世界の在り方についてのより合理的・整合的な理解をもたらすこと」に求めておこう。これは科学そのものの、つまり科学に内在的な目的であり、科学的営為の成否は、まずこの目的を達成した程度によって測られることになる。これを(1)真理性のテストと呼んでおこう。

科学の成否はひとまず(1)によって測られるが、通常はそれだけでは済まない。科学は次に、それがいかなる利益に資そうとしているかという志向性によっても評価される。それは、a.自己の利益、b.特定の他者の利益、c.特定の集団や社会の利益、d.人間一般の利益、e.人間より広い範囲の存在の利益、いずれの目的に従うのかはともかく、科学それ自体の外部に位置する何らかの目的に役立つことを目指す限りにおいて、社会的に有意味であると見做される。学問とは、科学的な研究を体系的・専門的に行う営みであるが、純粋に科学内在的な目的のみに従い、真理性を高めることを追求するような学問研究者は、通常は専門家と言うよりも好事家に分類される。ふつう専門家とは社会的に有意味な専門性を備えた者を言うが、好事家も専門家であることには違いが無いから、社会的に有意味な専門的研究を行う者を「社会的専門家」、自身の知識欲や好奇心のみに従って専門的な研究を行う者を「好事的専門家」と呼んでおこう。社会的に有意味な科学と好事的な科学とを分けたり、前者の内部における志向性の優劣を評価したりすることを、ここでは(2)志向性のテストと呼ぶ。

さらに、本来の志向性にかかわらず、それがもたらす実際の帰結によって科学的営為を評価することを(3)帰結のテストと呼ぼう。主観的には好事的であるにすぎない専門的研究も結果的に莫大な社会的利益をもたらすことが有り得るし、世のため人のためを思ってなされた専門的研究が、とてつもない害悪をもたらすことも有り得る。科学は、その成果の提示ないし活用によって現実に働きかけるが、その働きかけの帰結に従って、科学にとっての外部的観点から評価されることになる。(3)によって否定的な評価を下された科学的営為は、ふつう成功したとは言わない。あるいは、科学に内在的な目的にとっては成功しても、科学にとっての外部的観点からは失敗したと見做されたことになる。このフィードバックによって、科学は自らを反省し、修正を試みるのである。

ふつう専門家と呼ばれる場合に、単なる知識欲と好奇心のみに従って研究を行う好事家が想定されないのは、専門性には社会的意義と責任が求められるべきであると考えられているからである。そうした意義と責任は、(2)および(3)のテストに基づいて測られたり求められたりする。社会が専門家に学問=専門的な科学的研究を許すのは、それが社会的な意義を持ち、その帰結に責任を負う限りにおいてである。その意味で、科学/学問/専門性とは、自らの外部の価値に基礎付けられなければならない。自らの外部の価値に無頓着な科学は、ただ趣味に属するのみであり、社会的な支持を得ることを望み難い。

科学/学問/専門性がその外部に基礎付けられなければならないということは、それが自らの外部に存在する認識や価値を批判してはならないということを意味しない。科学はむしろ、自らの外部に存在するものを積極的に批判することによって、現実への働きかけを絶えず行うべきである。科学は自らが生み出した成果によって既存の社会を破壊することもできるし、必ずしもそれを控えるべきではない。だが、同時にそうした営為も(2)や(3)によって評価され、時に批判される。それは専門性を支える社会の側からの専門性への批判であり、そうした批判に臨んで科学/学問/専門性は反省と修正を迫られる。そうした相互批判が建設的に機能するような構造を形成・維持することが重要なのであって、専門性に学ばない社会と、現実の社会に学ばない専門性とは、共に唾棄されるべきなのである。



*1:伊勢田哲治[2003]『疑似科学と科学の哲学』名古屋大学出版会。

*2:伊勢田[2003]、9頁、259‐260頁。

*3:伊勢田[2003]。菊池誠「視点・論点 まん延するニセ科学」(http://d.hatena.ne.jp/f_iryo1/20061221/shiten)。菊池誠「「科学とニセ科学」レジュメ(ver.2)」(http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/nisekagaku/pseudo_resume.html)。

*4:伊勢田[2003]、261頁。

*5:もちろん、そうした不正確さなど存在しないという立場が主流なのかもしれない。それは、疑似科学ないしニセ科学の定義としてZに近いものが採用されるからかもしれないし、そもそも非科学とはそれを非科学であると見做す「信念の度合い」が100%に近いことによって非科学なのであり、必ずしも100%でなくても非科学であると見做して問題ないと考えられるからかもしれない。しかし後者の場合、それは「厳然とした違い」によって科学と非科学を区別できたことになるのだろうか。


Saturday, June 2, 2007

所有論ノート(2)―私的所有権と自己所有権


ロック労働混入説の解釈



 たとえ地とすべての下級の被造物が万人の共有のものであっても、しかも人は誰でも自分自身の一身については所有権をもっている。これには彼以外の何人も、なんらの権利を有しないものである。彼の身体の労働、彼の手の働きは、まさしく彼のものであるといってよい。そこで彼が自然が備えそこにそれを残しておいたその状態から取り出すものはなんでも、彼が自分の労働を混えたのであり、そうして彼自身のものである何物かをそれに附加えたのであって、このようにしてそれは彼の所有となるのである。それは彼によって自然がそれを置いた共有の状態から取り出されたから、彼のこの労働によって、他の人々の共有の権利を排斥するなにものかがそれに附加されたのである。この労働は、その労働をなしたものの所有であることは疑いをいれないから、彼のみが己の労働のひとたび加えられたものに対して、権利をもつのである。少なくともほかに他人の共有のものとして、十分なだけが、また同じようによいものが、残されているかぎり、そうなのである。(ロック[1968:32-33])


ジョン・ロックによる私的所有権正当化の議論は現在でも頻繁に参照されているが、彼の議論の解釈は一様でない*1。上に引用した最も有名な一節は、自己の所有たる身体による労働の「混入」が対象についての所有権を発生させると述べているように見えるが、解釈者の主張は一致しない。解釈には幾つかパターンがあるが、大きく分ければ、「労働の混入」という表現を文字通りに受け取る解釈と、それを比喩として受け取る解釈の二つがある。

労働混入説を文字通りに真に受けた場合、困難は山積みになる。まず自己の労働を所有物と見做すことが可能であるかが問題になるが、これを問わないとしても、労働が財に「混入する」と考えることの難しさに、どうしてもつまずかざるを得ない*2。また、仮に「労働の混入」が成り立ち得るとしても、労働を混ぜ合わせたからといって、それが財への所有権が発生する理由になると考えなければならない理由は全くない。自己の所有物を無主物と混ぜ合わせることは、むしろ自己の所有物を失う理由になってもよいはずである。ロバート・ノージックが挙げている例を借りれば、自己の所有であるトマトジュースを海に注いだ場合、彼は海を所有するに至るのか、それとも単にジュースを失った愚か者なのだろうか(ノージック[1995:293-294])。労働混入説自体からは、この答えは出て来ない。

それゆえ、「労働の混入」という表現は比喩に過ぎないと解する者が多い*3。この場合、ロックの意図は、価値の創造などの功績が財への所有権を発生させる、というところにあったのだと理解されることになる。ノージックも、「トマトジュース問題」を挙げた後でこちらの解釈の可能性を検討している。ロックの所有論を価値創造ないし功績からの議論と解することは、おそらく一般的な説得力が最も大きいと思われるが、後述するように無視できない困難がある。

しかし、それよりも私が問題だと思うのは、「労働の混入」という表現を単なる比喩だと切り捨ててしまうならば、同時に自己所有権の議論も切り捨てて構わないことになってしまう点である。ある物を発見したとか採集したなどの功績や、その過程に費やされた時間や手間、その他の資源などの負担、あるいは労働によって対象に付加された価値などを理由として財への所有権を認めるのならば、別に自己所有権の前提など必要ない。しかし、ロックは所有権を主題とする第五章の三節目という冒頭で、私的所有権の第一の論拠の前提として自己所有権について述べているのだから、普通に考えれば、これは解釈上切り捨ててよいことではない。したがって、私はロックの労働混入説を割合正面から受け取るべきであり、比喩として切り捨てるべきではないと考えている*4。

とはいえ、別に一つの解釈だけを採る必要はない。後述するようにロックは帰結主義的理由も挙げているし、彼の私的所有権正当化論は、多元的な論拠に基づいていたと考えるべきだろう(森村[1997:77])。

そこで、功績ないし価値創造からの私的所有権正当化の議論が抱える問題について整理しておこう。まず確認しておくべきことは、功績は価値創造に還元されないということである(それゆえ私は先程から両者を区別している)。ロックは所有権が発生する労働の例として、果実の採集なども挙げているが、リンゴを木からもぎ取ったからといって、リンゴに何か価値が付加されるわけではない。それゆえ、所有権発生の根拠とされる功績は、価値創造に限られない*5。「リンゴを木からもぎ取ることは、リンゴをより利用しやすくすることでリンゴの価値を高める」などと言うことは確かに可能ではあるが(森村[1997:67])、そうした一般的でない言い方をしてまで功績を価値創造に一元化する必要はないだろう。

価値創造からの議論に限って言うと、まず発生する所有権が生み出された価値増加分に限られず、対象全体に拡大されるのは何故なのか(ノージック[1995:294])。また、最初の価値創造者だけが排他的な所有権を有し、同じ財に後から価値を付け加えた者が所有権を獲得しないのは何故なのか*6。こうした疑問は、価値創造からの議論そのものによって解決することはできない。

多元的解釈の立場からすれば、ここで労働混入説からの説明を試みるべきかもしれない。労働混入説を、労働の混入によって自己の所有たる身体=人格(person)の範囲が対象まで拡張される(財が自己の一部となる)、という考え方であると解するなら(森村[1997:86]、森村[1995:128])、一度労働を投下した時点で本人と対象が一体化するという理由によって、最初の労働投下者が対象全体への排他的な権利を有することを説明できるようにも思える*7。とはいえ、この場合にも、後から労働を投下した者、ないし価値を付加した者の人格は何故財まで拡張されないのか、複数の人間が同じ財に一体化することは何故できないのか、という疑問が完全に解消されるわけではないから、労働混入説改め人格拡張説を持ち出すことが「後続者問題」を解決するに十分であるとは言えそうにない。


私的所有権の正当化根拠と設定目的



「後続者問題」については後でもう一度触れるとして、改めて労働混入説=人格拡張説について少し述べておきたい。「労働の混入」を比喩だと考える森村進は、この論拠はロックにとって副次的なものであったとする(森村[1997:129])。しかし私は、普通人が一番最初に挙げる論拠は副次的ではないと思うから、先にも述べたようにこの解釈には反対である。私はむしろ、ロックにとって労働混入説=人格拡張説が中心的論拠であり、価値創造からの議論や、私的所有権を認めた方が生産が増大するといった帰結主義的理由の方が副次的であったと思う。

それはともかく、労働混入説=人格拡張説を私的所有権正当化の論拠とするならば、一つ疑問が湧く。それは、例えば森で木の実を発見した者がその木の実の所有権を手に入れるのだとすれば、同じようにして夜空に輝く星の中から誰も知らない星を新発見した者は、その星の所有権を手に入れることになるのだろうか。発見者の身体=人格は、夜空の星まで拡張され得るのか*8。答えは否定的である。森村によれば、所有権は財に関する人々の間の規範的関係であり、そこで重要なのは財が人間にとって利用可能か否かであるから、夜空の星のように人間の手が届かないものは、所有権の議論において最初から存在しないのだという(森村[1997:66])。

しかし、その利用可能性とは何であるのか。おそらくは占有可能性であろう。トマトジュースの例を思い出して考えてみれば、ロックも森村も海への所有権が発生するとは言わないだろうが、混ぜた相手が通りの水たまりであったならば、その液体への所有権を認めてくれそうである。違いは結局取り出せるか否か、占有の対象になり得るか否かなのではないか。そしてこの前提は、言うまでもなく労働混入説=人格拡張説からは出て来ない。それは要するに、夜空の星のような手の届かないものに所有権を認めるのは無意味ないし有害であるという、言うなれば所有権が設定されるそもそもの事情ないし目的から出て来る前提である。それでは、この所有権設定の事情ないし目的とは何かと言えば、それは結局社会一般の利益への考慮といったものに還元されるほかない。

この事情ないし目的は、ロックにおける私的所有権正当化の第三の論拠たる帰結主義的理由と接合されていく。帰結主義的理由には、ロックが挙げている生産増加の他に、財の私有化によって資源利用がもたらす負の外部性が内部化されて財の有効利用に繋がるといった理由なども含まれるが(森村[1995:141])、それは要するに社会一般の全体的・集合的な利益や効率の面で私的所有権を設定することが望ましいという手段的理由である。

多少大雑把な言い方になるが、現実的な所有権秩序に照らして人格拡張や価値創造からは説明できないような不都合の是正は、全てこの帰結主義的理由、ないし社会一般の利益という観点から行われていると見てよい。「夜空の星問題」は、それが所有権設定の目的からして無意味だという理由で解消される。「後続者問題」に臨んで重層的・流動的な所有権設定を否定する論拠になるのも、社会一般の利益のために安定的な所有権秩序を求める観点である*9。労働混入=人格拡張説からは説明できない、不効率な仕方での労働投入による所有権発生の否定を説明できるのも、この観点である。

このように考えられる以上、価値創造・功績からの議論や、労働混入・人格拡張からの議論に、私的所有権正当化の論拠としてある程度の地位を認めてよいとしても(別に認める必然性も無いのだが)、最も一般的かつ基底的な論拠としては社会一般の利益のような帰結主義的理由に拠るべきことは明らかである。そして、そうであるならば、政治的合意が得られる範囲で積極的な再分配を行うために所有権を制限・侵害することには大した障害はない*10。少なくとも、それはリバタリアンが考えるほどには強い制約ではない。


自己所有権論の無理



さて、併せて自己所有権についても述べておこう。森村はロックにならって自己所有権を私的所有権正当化の前提に据え、自己所有権テーゼとしてこれを強く主張している(森村[1995]、森村[2006])。森村によれば、私たちは「各人は等しく独立に自分の身体や生命や自由への権利を持つ」という自己所有権テーゼを既に受け入れている(森村[1995:19])。私たちが、複数の人の命を救うために一人の人間の命を犠牲にして臓器を分配する「生存のくじ」のような制度に反対するのは、自己所有権テーゼへの支持を証明していると言うのである*11。「たとえXが心臓を患って、心臓移植なしでは死んでしまうとしても、Xは他人に心臓の移植を要求する権利はないし、強制的な心臓移植が正当化されるわけでもない。なぜなら各人は自分の身体への権利をもっており、他人はそれを侵害してはならないからである」(森村[1995:31])。

そしてまた、個人の自律とか自由といった価値も、自己所有権を前提としているのだと森村は言う。なぜなら、「もし自己所有権が前提されていなかったら、各人のもつ自由の範囲が自分の身体に限定される理由はない」から、その自由は他人の身体をも部分的に支配することになってしまう。それが避けられるのは、「各人のもつ自由の対象は自分の身体であって他人の身体ではないという自己所有権テーゼ」が当然視されているからなのである、と(森村[1995:34-36])。

率直に言って、強弁だなという気がする。また、私には自己所有権テーゼが持ち出される必然性が解らない。まず、人間は自己の身体を事実占有し、支配しているから、そのことを主たる原因として「この身体は私のものである」という感覚が生じるということは解る(森村[1995:40-41])。そしてまた、「私は身体である」と言えるからといって、「私は身体を所有する」と言えなくなるわけではないという主張にも賛同しておこう(森村[2006:19])。しかしながら、人は自分の身体を自分の所有物だと考えることもあるかもしれないが、それよりも(自分そのものである)自らの身体は自分にとって決定的に重要なかけがえのないものであり、自分の支配が及ばなければ困るものだという感覚の方が、より根本的・基底的であろう。その「困る」という感覚は、「私のもの」などという手段的な物言いよりも、ずっと決定的な水準に存在している。

「私の身体は私の所有物である」という言説では、「困る」感覚の原因である「私の身体は私そのものである」という事実を含意できないし、「私の身体に関わる事態は私にとって決定的に重要である」という根本的な水準の議論に触れられない。あるいはこう言ってもいいかもしれない。自己所有権テーゼは「私の身体は私のものだ」という物言いを「私の身体は私の所有物だ」という限定的な意味に切り縮めてしまい、この物言いを本来裏打ちしている「私の身体は私にとって決定的に重大なかけがえのないものだ」という感覚を拭い去る、と。

「生存のくじ」に反対する人々は、それでは「困る」という感覚に基づいて反対をしているのであって、必ずしも自己所有権テーゼなるものを受け入れているわけではない。各人にとって決定的に重大なものが脅かされるという感覚に基づく反対を以て、特定のテーゼへの支持の証明と理解するのは、不当な読み替えであろう。

個人が有している生命に関わる権利や基本的な諸自由、重要な事柄についての自己決定権などは、それらがお互いにとって決定的に重要であるという明示的・黙示的な合意によって成立し得るから、別に自己所有権テーゼを前提とする必要などない。Xの自由や権利が通常Yの身体や自由を拘束することに結び付かないのは、Yの身体に関することはXにとって相対的に低い重要性しか持たない一方、Yにとっては決定的に重要であると考えられているからであり、排他的な自己所有権が前提とされているからではない。要するに各人にとっての決定的重要性の程度によって調整されているのであるから、そこに自己所有権テーゼが入る余地は最初からない。

また、人は時に他者の身体に関わることでも自己にとっての決定的な重要性を感ずる時があるから、決定的重要性の感覚を排他性が強い自己所有権テーゼによって置き換えることは、本来の目的に適わずにかえって有害になり得る。この身体を実効支配し、この身体についての最大の利害を負っている私には、この身体に対する最大の権利が認められてしかるべきであるが、私の身体に利害を負う人は私以外にも有り得るのだから、この身体は私の所有物であると最初に言ってしまうことは好ましくない。ひとまず最初には、この身体の所有権など私を含めた誰にもない、と言っておくべきだろう。

さて、森村は自己所有権テーゼを前提として、そこから価値創造と自由の拡張という二つの論拠を中心に私的所有権を正当化しようとする(森村[1995])*12。しかし既に述べたように、価値創造からの議論をするならば自己所有権を前提にする必要などない。森村が「自由からの議論」と呼ぶ、所有者の自由の延長として所有権を正当化する議論が私にはよく理解できないし、それが労働混入=人格拡張説とどこまで異なるのかも解りにくいが、こちらの議論も自己所有権を前提とする必要はあまり感じられない*13。つまり、私的所有権を正当化する上でも、自己所有権テーゼを主張する意味など大して無いのではないか。

このような次第で、結局私には自己所有権テーゼが持ち出される必然性が了解しにくい。それは森村その他の個人的趣味だよ、と言われればそうなのだろうと頷く。実際、森村は自己所有権とは自己決定権とか個人の自律・自由といったものに言い換えてよいなどと言っている。その言い換えは成り立つのかもしれないが、上に述べた理由で反対の言い換えは為すべきでない。結論として、自己所有権テーゼは有害無益な主張である、ということに落ち着く。


<引用文献>

・ロック[1968]『市民政府論』鵜飼信成訳、岩波書店(岩波文庫)

・イェーリング[1982]『権利のための闘争』村上淳一訳、岩波書店(岩波文庫)

・ロバート・ノージック[1995]『アナーキー・国家・ユートピア』嶋津格訳、木鐸社

・森村進[1995]『財産権の理論』弘文堂

・森村進[1997]『ロック所有論の再生』有斐閣

・森村進[2006]「自己所有権論の擁護」『一橋法学』第5巻第2号



*1:この記事ではロックのいわゆる「十分性の制約」や「腐敗の制約」などについては述べないことにする。理由は、それが煩瑣である割には重要に思われないからである。

*2:ただし、後述のように人格拡張説として理解する余地はある。

*3:森村[1997]第二章によれば、S.バックルやG.スリーニヴァザンなどがこの立場を採るようである。また、後述のように森村自身もこの立場に属する。

*4:この点で私はM.ブロッカーに賛成である。森村[1997:86]

*5:なお、私の「功績」という言葉の用法は、森村[1995]および森村[1997]における「労働の辛苦への報酬」を意味する用法とは異なる。

*6:ただし、同じことは功績についても言えそうである。例えば、リンゴを採集してきた者がそれを理由としてリンゴの所有権を獲得するなら、そのリンゴの皮を剥き、小さく切って食べやすくした者がそれを理由として同時に所有権を獲得してもよさそうなものである。

*7:なお、所有物に所有者の人格が拡張されているという考え方は、イェーリング[1982:71-72]にも見られる。

*8:これは、ノージック[1995:293]で指摘されている労働が混入される対象範囲の未確定性の問題にやや近い。ノージックはそこで、火星のある地点を整地した宇宙飛行士が所有するに至るのは、その地点のみか、火星全体か、宇宙全体か、という例を挙げている。

*9:これによって民法上の「一物一権主義」が貫かれることになる。

*10:もっとも、帰結主義的理由によって所有権の無際限な侵害が許されるのであれば、それは権利とは呼べないから、所有権には一応の切り札性が認められるべきではある。ただし、その理由は他の権利と同様、個人の自律のために不可欠であるといった理由で十分であり、所有権に特異な理由(価値創造や人格拡張など)を持ち出す必要はない。

*11:「生存のくじ」について以下を参照。http://www.arsvi.com/0e/l03.htm

*12:森村は価値を創造した者が対象物を獲得する権利を有するのは当然であり、これは人間にとって「それ以上正当化を必要としないような根本的な直観の一つである」と述べている(森村[1995:47])。だが、それは単に功績や負担を理由とした正当化の一つの型であり、他の理由(例えば必要)と比べてすぐれて根本的であるわけではない。私が釣った魚が私のものであると感じられるのは、「私が釣ったから」というそれ以上遡れない理由(直観)によるのではなく、少なくとも私が魚を釣るために費やした費用・時間・手間その他の負担と、実際に釣り上げたという功績を理由として考慮するならば、こうした理由を持たない人よりは私が魚を得る理由を有しているだろう、といった議論が可能である(それを正当であると認めるか否かはまた別の問題である)。そして、魚を釣り上げた私の横に餓死寸前の人がはいつくばっていた場合、私の功績と彼の必要と、いずれが正当な所有権の理由になるのかは自明ではない。

*13:そもそも労働混入=人格拡張説も自己所有権の議論を前提とする必要は無かったような気もする。「いや、ある」という説得的な主張を知っている方には教えて欲しい。


Saturday, May 12, 2007

比較不能性など存在しない


長谷部恭男は、ある人が何かを「かけがえのない」ものと見做す時、その「かけがえのない」ものは、他のものと比較不能になると言う。「かけがえのなさ」はふつう、代替不能性を意味する。そして、比較不能であるとは、二つの物事について、「いずれかが他方よりもよいというわけではなく、かつ両方の価値が等しいわけでもない」場合を意味するとされる。その上で、長谷部は次のように述べる。


 つまり、かけがえのない、他の何ものとも比べられない友情を手に入れるためには、ある友情関係を、そのようなものとみなすことが必要条件となる。百万円では友人を裏切れないが、一億円なら裏切るという人は、その友情をかけがえのないものとは考えていない。百万円では安すぎるというだけである。また、なぜ友情がかけがえがないのか、なぜ他のもの、たとえば金と比較してそれほど重要なのか、と問う人は、そもそもかけがえのない友情を手に入れることのできない人である。友情を比較不能だとみなす人にとって、友情と他のものとを比較衡量する客観的な物差しは存在しない。そのような物差しの存在を否定することが、かけがえのない友情を取り結ぶ能力を構成する。


(長谷部恭男「比べようのないもの」『比較不能な価値の迷路』東京大学出版会、2000年、31‐32頁)


しかし、いくら金を積まれても友情は裏切れないと考えているからといって、その人にとって友情が比較不能であるという証明になるだろうか。その人は、何らかの物差しに基づく比較によって、友情を優位に置いているだけかもしれない。そして、恋人とか自分の生命などといったもののためには、友情を裏切ることを厭わないかもしれない。

たとえば、百万円あっても愛する恋人の命を救えないが、一億円あれば救える時に、一億円で友人を裏切ることを選んだ人は、その友情をかけがえのないものとは考えていなかったのであろうか。そうではなかったと仮定しよう。この人にとって、友人も恋人も、かけがえのない(代替不能な)存在であった。しかし、この人は恋人を選んだ。なぜだろうか。それは、少なくともこの人にとって、友情を裏切ってでも恋人を救うことが何らかの意味で「よい」ことだと思えたからだろう。すると、この人は少なくとも何らかの主観的な物差しによって、かけがえのないもの同士を比較した上で決定を下したことになる。

これでは長谷部の議論は成り立たなくなる。一体、何が問題だったのだろう。それは、長谷部が代替不能性と比較不能性を混同していることである。かけがえのないものは、比較不能であるように思える。けれども、私たちは実際、かけがえのないもの同士の間で選択を迫られることが多いし、選択の際には何らかの形で比較をしている。そうである以上、代替不能性は比較不能性とは異なる。友人と恋人を比較して、いずれかを選んだということは、他方をかけがえのないものであるとは考えていない、ということを意味しないのである(逆に言えば、何かを代替不能であると見做すことは、それが他のものと比較不能になることを意味しない)。

さらに言うならば、私たちは常に様々な制約の中で無数の選択を行っていかねばならず、その際には何らかの基準を設けて比較を試みているはずである。そして、比較の対象には、代替不能なものも含まれる。つまり、私たちにとって、比較不能性など存在しない。存在するのは、代替不能性だけである。




比較不能な価値の迷路―リベラル・デモクラシーの憲法理論


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