Saturday, October 29, 2011

政治学方法論+現代政治読書会 第1回


要領



  • 日時:10月29日(土) 18:30開始

  • 場所:法政大学大学院棟 302教室

  • 文献:


    • 斉藤淳 [2010]: 『自民党長期政権の政治経済学――利益誘導政治の自己矛盾』勁草書房.

    • 菅原琢 [2009]: 『世論の曲解――なぜ自民党は大敗したのか』光文社(光文社新書).


記録



  • 参加者:3名

  • 次回予定:上神貴佳/堤英敬 (編) [2011]: 『民主党の組織と政策』東洋経済新報社.

Tuesday, August 2, 2011

「コンセンサス」はいつ得られるのか――3つの条件


政治・政策に関する言説に触れていると、「この問題については国民的な議論が必要である」とか「まだコンセンサスが得られているとは言えない」などといった言い回しを、よく耳にします。ところが、どうなれば国民的な議論が行われたことになり、どこまで行けばコンセンサスが得られたことになるのかは、ほとんど明らかにされません。

議論は重要ですが、永遠に議論するわけにはいきませんし、永遠に議論したとしても100%のコンセンサスが得られることはありません。いつかの時点で決定が必要とされる以上、広範な議論と合意形成を求める主張には、「最低限ここまで達成できたらコンセンサスが得られたと見なしてよい」という基準の提示が伴うべきでしょう。

難しいのは、たとえば世論調査で国民の7割から8割が原発の停止・廃炉に賛成しているとして、それをコンセンサスと見なしてよいのかどうか。もし「よい」と考えるのなら、その人はコンセンサスと多数決の違いを理解していません。「過半数では物足りないけど8割ならいいんじゃないか」というのは、単純多数決か特別多数決かという違いだけであって、多数派の意見をそのまま通すという意味では変わりません。それをコンセンサスとは呼びません。

ある方針・政策(policy)や決定に7~8割の人が賛成しているところで、残りの少数が強硬に反対する場合、その対立をどのように調停し、実行可能な選択肢を見出していくかという局面に、コンセンサスへ向けた努力が現われるわけです。原発問題についてそうであるように、自らの主張・立場を容易に崩さない人々というのはふつう、当該のイシューに対する強い利害関心(とそれに伴う専門性)や何らかの権力を持っている個人・集団です。そしてそれゆえにこそ、方針・政策や決定を(彼らの協力を得るか、少なくとも妨害を行わせないことによって)円滑に遂行するために、対立を乗り越えたコンセンサスが目指されることになるのです。

以上を踏まえて、ある方針・政策または決定について、コンセンサスが得られたと見なすために満たすことが必要な3つの基準を、試みに示してみます。


基準1.公示性



  • 当該のイシューについての情報がアクセスしやすい状態で公開されており、基本的な諸事項が広い範囲で周知・理解されている。


基準2.包摂性・包括性



  • 主要なステークホルダー(利害関係者)が決定過程への実質的なアクセスを得ることができる。

  • 主要なステークホルダーの包摂の上で、イシューについての主要な論点の全てが検討される。


基準3.コミットメントを伴う合意



  • 参加者がイシューについて取り交わす合意(agreement)には、合意された方針・政策ないし決定を自らの立場としてその実現を将来にわたって支持・推進するという、責任あるコミットメント(commitment)が伴わなければならない。

    • 合意は、参加者ごとに異なる理由に基づくものであって構わない。

    • 合意に伴うコミットメントは永続的である必要はないが、継続的であることが求められる。コミットメントからの離脱は、合意の前提となっていた何らかの条件の変化など、変容を説明する理由の提示を必要とする。


それぞれに潜む問題



1つ目の基準については、あまり問題となるようなところは多くないように思えます。どこまで行けば情報が周知されたことになるのか、というのは1つあり得ますが、これだけメディアが発達している中でそれほど重大な問題となり得るとは思えません。問題は情報が専門性を多く含む場合や情報の解釈をめぐって争いが生じる場合ですが、これらは論点についての認識と理解という意味で、既に2つ目の基準と多分に重なってきます。

2つ目は最も重要でかつ難しい問題です。この基準そのものが極めて政治的なものになり得ます。「誰がステークホルダーであるのか?」という判断は、イシューが何であるのか、つまり「何のステークホルダーか?」という課題設定(イシューの定義)と無関係ではあり得ません。例えば原発問題にしても、それが電力や経済の問題なのか、生命や世代間倫理の問題なのか、といった問題の意味付けの仕方によって、考え方は違っています。

この問題のステークホルダーは誰々である、と選定していくこと自体において、イシューは定義されていくことになります。それは政治です。決定過程に未来世代の人々を含められないことに象徴的であるように、包摂性を完全に実現することはできません。論点の包括性(これはイシューの定義の時点で既にある程度限定されています)についても同じことが言えます。したがって、コンセンサスは常に不完全で暫定的なものです。これは欠陥のように思えますが、絶えず異議申し立てに開かれるという意味で、有益でもあります。コンセンサスが万能で無謬のものと見なされると、それが排除・侵害しているものが意識されなくなり、政策変更も困難になるからです。

不完全で暫定的なコンセンサスを、それでも実効力あるものにしようとするのが、3つ目の基準です。コンセンサスに与した者は、少なくともある限定的な範囲で、その実現に協調して尽力すべし、ということになります。ここに至ると、責任に訴えるという意味で、倫理の問題が入り込んできます。

3つ全ての基準に関係するのは、それぞれをどのような形で行うのかという手続きの問題です。しかし、それはまた別のところで考えましょう。


Friday, June 3, 2011

かかわりあいの政治学8――「チーム」はなぜ愛されるのか


野球やサッカーなどのプロスポーツを愛好する人々には、決まって「ひいき」にしているチームがあるものだ。プロ野球であれば阪神タイガース、Jリーグであれば浦和レッズが、それぞれ熱烈なファン(サポーター)を多く持つことで有名だろう。こうしたファンの中には、子供の頃から何十年もの間にわたり、一貫して同じチームを愛し・応援し続ける人がかなりの割合で存在する。

だが、素朴な疑問がある。年月とともに各チームの選手やスタッフは入れ替わり、チームの戦術やプレイスタイルも全く同じではいられないだろう。チームのユニフォームや本拠とする競技場、スポンサー、場合によってはチーム名さえも、変わってしまうことがあるかもしれない。すると、そうした変化にもかかわらず同じチームを愛し続けるファンたちは、一体そのチームの何を愛しているのだろうか?

実際、こうした変化に伴って、自覚的にファンをやめたり、なんとなく熱心には応援しなくなったりする人は、それなりに存在する。だが、熱心なファンの多くは、チームが経験する様々な変遷にもかかわらず、自分が応援するチームへの愛を容易には失わないようである。これは一体、何によるものなのだろうか。チームの変化がファンの愛を失わせるものではないとすれば、ある日に選手・スタッフ全員が一挙に入れ替わり、ユニフォームやチーム名も変更されて、まるきり別のチームのようになってしまっても、彼らはこのチームを応援し続けるのだろうか。

もちろん、そんなことは考えにくい。選手の入れ替わりがチームへの愛を失わせないのは、あくまでもそれが一部の選手ごとに漸次的な速度で行われる(そしてその間に新入選手をチームの一員と見る認識の形成が進む)からであって、同時に丸々入れ替わってしまったときに同じ愛が維持されることは稀であろう。逆に長い年月の中で徐々に変化が生じ、その歴史をファンが共有するのであれば、結果として(客観的に見れば)全く別のチームになっていたとしても、ファンはそれを同じチームと見る。ここでは、ある種の連続性(経路・文脈の繋がり)がカギとなっているように思われる。


このように考えてくると、チームの同一性問題は、人格の同一性をめぐる哲学的議論と似てくる。30年前には人を人とも思わないような殺人鬼だった人物が、今では虫も殺さない好々爺になっていた場合に、「30年前の彼」と「現在の彼」という2つの異なる時点における人格を直ちに同一人格と見るのは困難である。これら異時点間の人格は、そのままでは相互に直接の「連結性」を持つものではないからである。両人格を同一と考えさせる理由があるとすれば、「現在の彼」は確かに「30年前の彼」から徐々に徐々に変化した果てに存在するものであり、その間のある時期ある時期の「彼」たちの「継続性」を通じることで「つながっている」という1点しかない*1

あるチームが経た内実の変化にもかかわらず、それは自分が愛する「あのチーム」だと変わらず思えるのは、同様の思考から説明できるだろう。実質的には全く別の存在になっているとしても、その間の年月を介した結び付きに基づくなら、同じ「あのチーム」であるとの見なしが可能になるのである。こうした説明の仕方は、法人格が同じである(から同じチームだ)などといったフォーマルな制度から為し得る形式的な説明を支え、その内実を補填するものである。それは、法人格などの社会的実在に一貫した統合性を与えるメカニズムこそ、こうした「見なし」にほかならないからだ。

個々のチームには何か固有の「本質」が存在するのだと、論理的に信じられる人は(おそらく)いないだろう。しかし、人についてはそうではない。個々の人間は、その人が他でもなくその人でしか在り得ない所以たる固有の本質を持っている。そう信じている人は多い。あるいは少なくとも、固有名を持つ1人の人物の存在を何らかの確定記述――男/女であるとか、出身・国籍がどこで、何語を話し、エスニシティや階層は何であるのかとか、身長・体重はいくつで、どんな容貌をしており、どういう声で、どんな話し方をし、どのような表情を見せ、いかなる考え方を持っているのかなどなど、その人に関して記述し得る属性・情報の全て――に還元し尽くすことはできない、といった考え方に反対する人は少ないように思う。

けれども、固有名を確定記述に還元できない「余剰」とする立場は、実のところ何も説明していない。こうした立場は、ある確定記述の集合を一個体と見なすときに識別タグの役割を果たすべく付けられる固有名に「余剰」という別名を与えているだけで、そのような「見なし」がなぜ可能であるのかを何も説明しない。タグがなぜ機能するのかを説明しない。見なしを「規定」や「命名」などと呼んだところで、やはり言い換えでしかない。個体の存立について説明を与えようとするなら、年月を超えてチームを同じチームたらしめる継続性のような、一定の繋がり・結び付きの存在がなぜ見なしを可能にするのかを問わなければ、何の説明も可能にならないのである。

見なしはなぜ可能なのか。見なしを支えているものは何か。何らかの形で繋がっている、結び付いているということが、同じであること、1つであることの理由になるのはなぜか。あるまとまりが他と区別される1個として取り出されることは、いかにして可能なのか。こうしたことが問われければ、特定チームへの変わらぬ支持も、唯一人の伴侶への恒久の愛も、自分自身の存立の基盤も、何一つ本当には説明できない。


*1:細胞などの物質的連続性を考えてみても、同じことが言える。肉体を構成する物質は日々入れ替わり、その意味で数年前の私と現在の私は、全く異なる物質から構成されていることになるからである。


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