Monday, August 23, 2010

デモクラシーは「民主主義」なのか


日本では“democracy”と言えば「民主主義」と訳されることが一般的です。場合によって「民主政」「民主制」などとも訳されることがあり、私などはこの訳し分けに積極的な意義を見出して区別し、民主主義/民主政の両面を包含したい場合には「デモクラシー」の語を使いますが*1、最も普及している訳語が「民主主義」であることは疑いようがありません。

しかし、しばしば指摘されることですが、本来“democracy”が意味するのは「民衆(デーモス)の支配(クラティア)」という政体であって、これは君主政や貴族政に対するものではありますが、「~主義(-ism)」ではありません。したがって語源・語義的には「民主政」の訳が正統に思えるのですが、日本では「自由主義」や「社会主義」などと一種並列に「民主主義」が語られる傾向が根強く見られます。

この辺りの事情がどこに由来し、どういった影響を及ぼしているのかについて、白井厚『社会思想史断章』(日本経済評論社、1989年)に大変興味深い一節がありましたので、以下に引用します(38-40頁。イタリックは原文傍点、太字引用者)。


 古い文献をたどると、一八六一年(文久元年)に起草された加藤弘之『隣草』には"万民同権"(洋名デモカラチセレプブリーキ)の語があり、後に彼は『立憲政体略』(一八六八年・慶応四年)においてディモクラスィを"万民共治"と訳した。そののち馬場辰猪は"共存同衆"、徳富蘇峰は"平民主義"、都築馨六は"民政"、小野塚喜平次は"衆民主義"などの訳語をあてている。

 ディモクラスィという言葉をしばしば用いるようになったのは、いわゆる大正ディモクラスィの時代であって、美濃部達吉はこれを"民政主義"と訳し、尾崎行雄はこれを"輿論主義""公論主義"と呼び、吉野作造は"主民主義""民本主義"の語を用いた。

 ここで注意すべきことは、ディモクラスィは、天皇制絶対主義的旧憲法体制と真向から衝突するはずの新しい政治制度としてではなく、主義、思想、信条として、旧憲法体制とは必ずしも矛盾しないごく一般的な原理としてわが国に受け入れられたことである。"民本主義"の名を世に高からしめた吉野作造は、その「憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず」(一九一六年・大正五年)において、主権在民の民主主義は君主国たるわが国には通用せず、民本主義は、"法理論上の主権の存在を問わず、主権の行用上、主権者はすべからく一般民衆の利福並に意嚮を重ずるを方針とすべしという主義"だと説明した。すなわち、天皇制絶対主義との対決を回避して、非立憲政治的な元老・軍閥・官僚らにブルジョア社会への適応を要求したにとどまったのである。[…中略…] こうして、大正ディモクラスィの精華とうたわれた吉野の民本主義も、実は主権論が骨抜きにされ、天皇制支配下で許容されうるほどに水割りされた"憲政常道""議会政治"という信条にすぎなかったのである。

 このような水割りは、第二次世界大戦後に占領軍によってディモクラスィを強要された時にも、当時の日本の支配者層によって種々試みられた。[…中略…] そして議会の論議においても、本来"民主的"であった"国体"は不変であるという主張がなされ、その上で"国民主権"が憲法に明記され"日本国民の総意"として天皇が温存されたのである。こうしてディモクラスィの復活強化論は、自由民権運動など戦前のデモクラティックな運動や天皇制支配の犠牲者に対する積極的な評価にもなりうるが、他の一面において、ほかならぬ天皇制絶対主義をもデモクラティックなりとする詭弁に役立った。現在唱えられている"民主主義"なる言葉は、こうした水割りによって、ある時は議会主義に、ある時は合法主義に、ブルジョアジィの支配とも天皇制の温存とも矛盾せずどうにでも都合のよいように解釈され、自民党から共産党に至る各政党のシンボルとして、十分な検討もなく用いられてきているのである。ディモクラスィを"主義"として、しかも"民主"的な"主義"として訳したことは、このような、いかにも日本的な用法を生むのに役立ったというべきであろう。


著者の評価に全面的に賛同するか否かにかかわらず重要なことは、“democracy”が「民主主義」ないし「民本主義」と訳され、「政体」としてではなく先ず「主義」として受け取られたことによって、日本ではデモクラシーに「制度」的側面よりも「考え方」を見出す傾向が強く刻印されてしまった、との見方です。

もちろん事は単純ではなく、デモクラシーには(福田歓一の言葉を借りれば)「機構原理」に留まらない「価値原理」が含まれていることも、確かな事実です。それら両原理を総合した「社会構成原理」にこそ、デモクラシーの全体像を見るべきでしょう。しかし日本では、デモクラシーを民主「主義」として解釈することで価値原理的側面ばかりを重んじる偏りが生じ、その結果として機構原理的側面への注目が十分に為されず、政治を語る際にも「民主主義」の名の下で様々に解釈された精神論が展開されてきました。

制度への洞察を欠いたデモクラシー論はお題目にしかなり得ません。「日本には民主主義が根付いていない/根付かない」などと言いたくなる人ほど、そこで「民主主義」という言葉とともにどのような「政体」がイメージされているのか、それがどういった制度と結び付き得るのかを、自分に問い直してみるべきなのです。理念と制度を結び付けた議論を通じてこそ、各々が実現したいと思うデモクラシーの姿が明らかになります。そのデモクラシーが日本で可能か、それはどのようにしてかは、そこから始まる話でしょう。

もとより、機構原理と価値原理の総合としてのデモクラシーには単一の正解など在り得ません。もし「民主主義」なる言葉の使用を通じて何かが「割られ」ざるを得ないとしても、では何で「割る」べきか、を問題にするべきでしょう。「民主主義」、「民主政」、「デモクラシー」のどの用語を使おうと、人それぞれ意味するところが違ってくるのは避けられません。ですから、私は「「民主主義」って言うな!」とは言いません。私たちが共有すべきスローガンは「民主主義よりデモクラシーを」ではなく、「どんなデモクラシー(民主主義)を?」なのです。


文献



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