Tuesday, August 3, 2010

社会運動は日本を変えてこなかったか?


多少時宜を外した感が無きにしも非ずですが、西田亮介氏がシノドスブログに寄稿している「「あたらしい『新しい公共』円卓会議」は、市民運動を越えられるか?」(2010年7月5日)と題する記事について、少しコメントしたいと思います。

予め言っておきますと、私はこの記事では非常に重要な問題が扱われていると思いますし、その結論にも概ね賛成です。しかしながら、いかにひいき目に見ても、「「アマチュアリズム」とパトスに支えられた「社会運動」は、日本社会の変革に大きな実行力を持ちえなかった」との診断は、随分と大味で、容易に受け容れることはできないものです。たぶん、いささか狭義の――つまり昔ながらの大文字の――「政治」や、トータルにイメージされた――日本文化論と結び付きやすいような――社会の「構造的問題」などへの意識に引っ張られ過ぎたゆえの認識なのかな、という感じを抱きます。


「運動」は日本社会を大して変革してこなかったと言われますが、しかし戦後に限っても反証になりそうなものは幾つも思い浮かびます。公害問題によって激しく噴き出した運動は、行政や企業活動を変革しなかったでしょうか。その潮流は、現在の「エコ」かまびすしい社会の実現に貢献した環境運動と地続きなものです。昨年は消費者庁が新設されましたが、これは長きに渡る消費者運動における最近の成果ではないのでしょうか。女性運動はどうでしょう。男女共同参画がうたわれるようになった昨今ですが、これを実現したのが運動の成果ではないのなら、フェミニズムや「ジェンダー」はなぜあんなに叩かれるのでしょうか。

キリがないのでこの位で止めておきますが*1、少し省みれば解るように、様々な社会運動は現に日本の社会を変革してきましたし、それは政策や行政の変容とも深く結び付いています。そもそも「歴史を遡」って挙げられる事例が小泉改革と全共闘運動の2つだけである時点で既に疑問符が浮かばざるを得ないのですが、更に(少なくとも)その間にあったことを全てひっくるめ、議論の縮尺が全く異なる小熊英二氏と大嶽秀夫氏の著作を介することによって先の「診断」を引き出すのは、さすがに無茶です*2

西田氏が過去の運動に学ぶことの必要性を訴えている点は、素晴らしいと思い、共感します。ただ、そこで具体的にどのような運動が想定されており、何を学ぼうとしているのかは(当該の記事だけでは)よく解りませんし、そもそも先に指摘した無茶ゆえに、何を以て「失敗」と診断されているのかの根拠も判然としません。いささか意地悪な見方をすれば、何の説明も無く持ち込まれる「従来の「市民運動」的イデオロギー」なる言葉遣いからして、結局ステレオタイプ的に構成された「プロ市民」的イメージを前提とした目線で運動史をつまみ食いしているだけなのかな、という印象さえ抱いてしまいます。敢えて辛い言葉を選ぶなら、「社会運動」に対する認識が貧困なのではないか、ということです。


私は社会運動論や社会運動史などは門外漢ですが、簡単に整理してみます。例えば松浦正浩氏は、交渉と対比する形で、「自分の考え方や主張を、他人にも賛同してもらうことで、同じ利害関心を持つ人たちを増やそうとする活動」を「社会運動」と呼んでいます*3。松浦氏によれば、社会運動には「国民の大多数が同じ意見を持っている(であろう)ことを可視化することによって、政治家を動かしたり、新しい法律や政策をつくらせたりする圧力となっている」面があり、それがなければ、「国が解決すべき社会的問題」を市民社会の側から設定することは不可能になるとされます*4

関連で、mojimojiさんの以下の文章は重要なものですから、見ておきましょう。


社会制度は常に不完全であり、そこに取り残された人がいる。ゆえに、社会制度が頼れないところでも、(1)当面の生活を支えるための活動が必要であり、(2)その状況を変更して社会制度を作っていく活動が必要である。これら二つは、原理的に無報酬・持ち出しで負担する人がいなければ不可能な事柄である。ボランティアの本質は、今そこにないものを補充し作っていく活動であるという、活動内容における先駆性である。




松浦氏が「社会運動」と呼ぶものは、この(2)に対応していることが解るでしょう。つまり、社会内の何らかのニーズに対応しようとするボランタリーな活動が在るときに、そのニーズを直接に「支える」活動=(1)と、ニーズに応じて社会を「変える」活動=(2)とを分類することができて、後者は社会運動と呼ばれることが多い、ということです。もちろん、これはあり得る1つの整理ですから、「社会運動」の定義がこれに限られる、ということではありません。

フォーマルな政治過程では十分に利害が反映できず、ニーズへの対応が望めない場合に、政治システムへの異なる形でのインプットを可能にする代替的な利害反映回路として社会運動が存在する。まずは、そのように捉えてみましょう。その上で、運動が長期的に継続され、各種の運動団体がフォーマルな政治過程との一定の結び付き(ロビイングなど)を得て社会的に認知されるようになれば、運動は「制度」化されていくと考えられます。すると、社会を「変える」活動としての社会運動には、非制度的な段階に留まるものと、制度化されてセミ・フォーマルな回路を形作っていくものの2種類が在る、と見なせます。

いわゆる「プロ市民」批判的な社会運動観というものは、後者の制度化された運動ばかりに焦点を当てたものではないでしょうか*5。既に制度の一種に成り得たものばかりを見て「社会運動」と呼んでいるのであれば、それが社会を大きく変革しないように見えるのも当然です。「社会運動」なる言葉の意味付けは自由であり得ますが、それが私たちも現に享受している果実を不当に貶めるような意味で使われるのであれば、いかなる観点から見ても決して好ましいとは言えませんし、何よりも歴史に学ぼうとする姿勢が偽りであるということになってしまうでしょう。


人々を「支える」活動と社会を「変える」活動についての近年注目すべき動向は、企業の社会的責任(CSR)や社会的企業/起業の興隆でしょう。CSR一般は、社会制度の一部としての企業体が、その外部に取り残してきたニーズ(期待・要請)への対応を日常の事業活動プロセスそのものの中に組み込んでいこうとすることだと捉えられます*6。社会的企業/起業に至っては、より直接に、これまでボランタリーに行なわれてきた「支える」活動をビジネスの組み立ての中で行うような存在であると見なせるでしょう。社会的企業/起業によっては、「支える」活動に留まらず、さらに積極的にビジネスの論理から社会を「変える」活動へと踏み込んでいくことも少なくないと思います。この点では、CSRの一部としての社会的責任投資(SRI)も、社会内のニーズをビジネス内在的に企業の事業内容へと反映させる回路を働かせることで、「変える」活動の一部たり得ると考えられます。

このように、伝統的に知られてきたボランタリーな活動のみならず、近年盛んになりつつある、ビジネスから社会制度不全への対応を行っていこうとする活動をも「社会運動」と捉えることができるとすれば、それは社会運動の可能性を一層大きく見積もることに繋がるでしょう。そしてそのように拡大・再定義された「社会運動」概念は、大きな社会変革への望みが託された「新しい公共」概念とも軌を一にするものであろうと、私は思うのです。


活動内容ボランタリー論理ビジネス論理
(1)人々を「支える」ボランティア社会的企業(+事業型NPO)
(2)社会を「変える」=広義の社会運動狭義の社会運動(非制度/制度)社会的企業、SRIなど

(*この表の整理は実験的なもので、あまり厳密ではありません)


文献



*1:この辺りについては拙エントリも参考にして下さい。

*2:私は、全共闘運動も先に挙げたような様々な運動と深く結び付いていたのであり、その意味で日本社会を何も変えなかったわけではない、と思います。

*3:松浦正浩『実践! 交渉学――いかに合意形成を図るか』筑摩書房(ちくま新書)、141頁。

*4:同、141-143頁。

*5:違う言い方をすれば、通俗的な「運動」批判とは、過去の非制度的な運動が成し遂げてきた基盤の上に立って、制度化されて成熟した――ためにいささか発酵した――運動を罵倒するという、一種おめでたい振る舞いではないでしょうか。

*6:CSRについては、谷本寛治『CSR――企業と社会を考える』(NTT出版、2006年)などを参照。


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