Saturday, April 2, 2011

来るべきステークホルダーへの応答――政治の配分的側面と構成的側面



過去は到来する。未来は構成される。私たちが構成する未来が、誰かにとっての過去として、決定された形で到来するのである。原子力発電所と、それがもたらすコストとリスクについての思考は、私たちの視野に、ヒトの一生を超えるタイムスパンを要求する。もし政治が「価値の権威的配分」(D. イーストン)であるとするなら、その配分が同時に次の「政治」の条件を構成することへの視座も欠かすことができないだろう。それは、配分(分配)としての性格とは一応区別される、政治の構成的側面である。




法外なものとリークの射程――ウィキリークスをめぐって



「受益者負担」と言われながら、負担が未来へと先送りされるとき、私たちはどう考えればよいか。主要な問題は、システムの「持続可能性」などではない(それは二次的問題である)。コストとリスクを負わされる者に発言が可能でないことが問題なのだ――「代表なくして課税なし!」。今・ここで、語り得ない者たち。そうした「来るべきステークホルダー」への応答性を確保することが、いかにして可能か。原理的には、そのことをこそ考えなければならない。

ステークホルダー一般への応答性問題は、近年大いに意識化が進んでいるところではある。例えば労働分野において従来の「産業民主主義」に換えて「ステークホルダー民主主義」が言われるとき、そこでは就労形態の流動化による利益代表の困難性(ゆえの建て直しの必要)とともに、株式持合いや労使馴れ合いなどの企業内部に閉じた論理に留まらない、一般社会への応答性が意識化されていると思う。「ステークホルダー」というやや曖昧な言葉の選択自体が、不確実な可能的利害関係者の到来への身構えを、内に含んでいるのである。

企業の法令違反など不祥事に対して、その内部告発者を保護する必要があるのは、まさにこうしたステークホルダー(一義的には顧客)が、企業内部に閉じた論理によって不当な損害を被ることを避けるためである。同じことは政府内部についても言える。政治家や官僚が、自らの都合のために法を曲げることは許されないし、それでなくとも巨大な権力を管理している政府の決定・執行過程については、常に透明性が確保されていなければならない。そのために高い基準で情報公開が義務付けられているのであるが、一般の人々が専門性を含んだ政府部内の情報を吟味しながら日々権力を監視することは、現実には難しい。政治の動きを常に批判的にチェックし、時にインサイダーによるリーク情報をも利用しながら社会に判断材料を提供するジャーナリズムの役割は、ここにある。

だが状況は変化しつつある。情報技術の発達によって、一次情報への人々のアクセスは容易になり、それを不特定他者に向けて発信することも気軽にできるようになった。そうして必ずしも政府やマスメディアを通じない形で情報をやり取りするネットワークの中には、多様な分野の専門家も含まれており、情報の分析・編集もまた、従来の回路をバイパスする形で行える可能性を感じさせる。もちろん、未だ既存のメディアの重要性が失われたわけではないが、マスメディア自体も事実上の権力を有する巨大な企業体であることを思えば、個人や非営利団体などの市民メディアが一層成長を遂げることは、ステークホルダーへの応答性確保を通じた公益実現のために、不可欠のはずである。

企業や政府など、ある主体のステークホルダーとは、それが応答すべき範囲であると考えられる。企業であれば株主・従業員・顧客など、政府であれば国民が主なステークホルダーであろう。内部告発が保護されるべきなのは、情報の非対称性を背景に、団体内部のステークホルダー(例えば経営者や官僚)が外部のステークホルダーの不利益になるような行為を密かに行なうことを防ぐためである*1。その場合、内部告発者は企業・政府よりも広く一般社会の利益(公益)のために行為するわけである。もし、その告発が国家全体の利益を損ねるものであるとしても、それが国際社会にとって有益な情報であれば、告発はより広い公益に資したと言えるだろう。リークは常に、より広い公益、つまりはその告発を支持・正当化してくれる、より大きな集団の存在を期待・確信して行われる*2。集団間における公=「みんな」の範囲のズレが、リークの基盤を提供しているのである。

では、近時話題になったウィキリークスはどうか。その行動原理はアナーキズムであると言われることもあるほど、ウィキリークスの活動は国家全てに敵対するものではないのか。その全方位的リークを支持する「より大きな集団」など存在しているのだろうか。小林恭子ほか『日本人が知らないウィキリークス』に一章を寄せている塚越健司は、ウィキリークスが「国益」に適うか、あるいは「善か悪か」といった議論を、「いくら議論しても解決されない問題」だから意義がないと切り捨てている*3。こうした相対主義は一つの見識であるが、物足りないようにも思う。ウィキリークスが善悪で論じられないことには同意する。また、まず「この社会がリーク社会化していること」を、最早動かし難い条件として正しく認識すべきであるとの論旨にも賛同する。だが、そうした不可逆性の高い事態であるからこそ、それがもたらすものを含んだ一定の評価は、やはり必要なのではないか。

この点について浜野喬士は、同じ本の中で仮説的に答えを提示している*4。浜野によれば、ウィキリークスは公益に合致しているのか?という問いの立て方自体がよくない。塚越も指摘しているように、公益とは所詮、誰かにとっての利益でしかないからだ。「しかしウィキリークスが行っている暴露には、即座に何のため、誰のため、いかなる公益のため、ということが言えないような性格のものが沢山ある」ため、ウィキリークスが奉仕する公益や正義を「はっきり名指すことはできない」。そう浜野は言う。つまり、ウィキリークス(的なもの)による暴露とは、今この瞬間には具体化していない「純粋公益」という、未だ見えぬ着地点へ向けた冒険的な跳躍なのである。そのリークを支持する「より大きな集団」は、これから到来する――(かもしれない)。

さて、ウィキリークスの性質にそのような部分があるとすると、その評価を単純に下すことはできない。「法外なものごとについて」で一部論じたように、国民代表の権力には、多少なりとも未決の部分が残されていなければならない。もちろん、そのような余剰が権力の肥大化を招きかねないことは言うまでもない。それでもなお、法外な権力の余地は認められなければならない。誰のためにか?――語り得ぬ者のために。あるいはまた、今はまだ現れない「来るべきステークホルダー」のために。世論とは、語り得る者たち(ひいては武器を取り得る者たち)の所有である。代表は語り得る者たち(人民peuple)の代理に留まらず、語り得ぬ者たちを含めた集団の全体(国民nation)を代表しなければならない。裁量の余地が全く許されなければ、柔軟性はあり得ず、予期不能な未来に及ぶ問題には対処しきれない。法外な権力の存在を否定することは、代表の可能性を否定するということである。

ウィキリークス的なものの台頭は、こうした代表可能性への挑戦、より正確に言えば、こうした代表可能性を独占的に定義することへの挑戦である。法外な権力の存在を許す代わりに私たちは、その適切な行使をチェックするため、時間を経た文書の公開などの手段を用いる。今すぐの応答を求めない代わりに、応答の予定時刻を設定し、後の世代に判断を委ねることで正統性を担保しているわけである。だがここでネックとなるのは、何を機密事項に指定するかは結局権力自身に任せられているということであり、ウィキリークス的なものが批判しているのは、一義的には、こうした権力の自己規定的な在り方であると思われる。つまり、設定された応答の予定時刻を敢然と無視して暴露を為すことで、権力行使の適否を今・この場にいる「われわれ」による直接の検証にさらそうとするのである。そこでは時間の堆積が許されない。

ところが両義的であるのは、その暴露によって誰が利益を得るのか「名指すことのできない」告発の存在である。この冒険的な跳躍は、今・この瞬間には誰のためにもならない情報を、来るべきステークホルダーによる事後検証の材料として残すための作業と捉えることもできる。ウィキリークス的なものが単に機密の独占的定義を許さず、情報を今・この瞬間での検証にかけようとするだけならば、それは語り得る者たちによるポピュリスティックな統治(代理政治、忖度政治)への帰依を意味し、その活動は応答範囲をヨコには曖昧に拡げる代わり、タテには短く切り取るだけのことであるだろう。その場合でも権力による恣意的な機密設定への抑制効果をもたらす意義は存在するが、代表政治へのダメージを与える可能性もまた、無視することはできない。

だがもし、ウィキリークス的な活動が、インターネットという、一旦そこに流れれば半永久的に漂い続けることになる情報の海へ、今はまだ誰にとっても価値のない、来るべきステークホルダーたちのための材料を投げ込み続けることを意味するのであれば、それは代表政治にとって違った相貌を帯びることになるだろう*5。そして、ウィキリークス的なものをそのような性格を併せ持つ存在として私たちが捉えることによってこそ、その活動は今・この瞬間のポピュリズムによる規定力から、少しでも逃れることが可能になるはずである。

ガバナンスの無限遡及を止めるもの――シルバー・デモクラシーをめぐって



さてしかし、情報をだけ残しておけば来るべきステークホルダーへの応答は十分ということには、無論ならない。その政治力の欠如を、より正面から見据えて考える必要があるのではないか。今は語り得ないとしても、将来語り出すことが予想される彼らの政治的影響力を、事実上の形で先行して現出させることができないか。0歳児も含めて国民全員に参政権を付与するというアイデアは、そうした考えの制度化案の1つであると考えられる(同様のアイデアについて、デーメニ投票法の解説や社会実情データ図録の「【コラム】未成年に選挙権を」も参照)。

こうしたアイデアは、少子高齢化のために高齢者の政治的発言力ばかりが増し、若年層の利害を代表する勢力が政治の場において存在感を細らせているという、「シルバー・デモクラシー」論の議論枠組みに乗っかっていると言えるだろう。この問題認識は当を得たものであり、重要なのは0歳児にまで選挙権をというアイデアの当否よりも、「次世代の声を現在の政治決定に反映できるようなシステム」、つまり来るべきステークホルダーを政治過程に包摂するための制度をいかにして作るべきかという問いそのものの共有である。


とはいえ、具体的な案に即して考えることは必要なので、「0歳児にも投票権」案も含めて、少し検討してみよう。政治的プレゼンスがどんどん小さくなっていく若年層、ひいては未来世代の利害を政治的にどう代表させるかについて、方向性としては3つあると考える。(1)中立的代表者(官僚など)による一般的代表。(2)保護者など、具体的代表者への代替的授権(先の案)。(3)政治力の不在を代償するものとしての基礎的な財・サービスの一律支給を保障。

(1)は従来と変わらないと言える。ただ、菅原琢さんが言われているように、若者特有の利害というのは想定しにくいように思うし、子どもや未来世代などは社会一般の事柄に対する薄く広いステークホルダーとしての性格が強く、中立者による代表可能性は相対的に高いと思われるので、これで十分という立場もあり得るだろう。つまり、現行世代が未来世代のことを常に配慮しながら政治を行えばよいのであって、具体的な制度化は特に必要ないという考えである。

これに対して(2)は、子どもの利害を代表する具体的な人物を立てる案として、大きな改革である。もっともこの場合、理念上は子どもの利害が的確に代表されればいいのであって、代表者が親であるべき必然性はない。先の記事のような提案の場合では、親と子のズレをどう考えるかが問題になる。親が子どものためを考えて投票するとは限らないだけでなく、逆にそれを懸念して、法制化の際に子どものために投票することを義務付けたり奨励したりすることも、政治的行動の自由を制限するもので望ましくないのではないか(1票分は元から子どものものだから、問題ないと言われるのかもしれないが)。

そもそも自由主義的・個人主義的な価値観に立つなら、子どもの権利を保護者が代替的に行使することを積極的に促すような制度設計はあまり好ましくないだろう。0歳児から保護者に代替的な権利行使を許すとして、徐々に成人に近づいていく子どもは自分の判断を保護者に伝えることができるようになるだろう。代替的授権者は、子どもが何歳になった頃からそれに従うべきなのだろうか。その判断も代替的授権者に任せられるとして、子どもが何歳から自らの権利を自らで行使してよいのかを保護者が決めるような、過度にパターナリスティックな制度は望ましくない*6

もし代替的な授権を行うのであれば、それを子どもの政治力一般を補填するための手段と考えるより、少子化対策などの特別の目的を掲げて、そのために未成年の親世代の政治力を増強するという直接的な目的‐手段関係を明らかにした方がいいだろう。未成年にも選挙権を与えるというレトリックは用いず、子どもを持つ親に加重投票権を与えると正面から銘打ち、あくまでも親の権利であることを明確にするのである。

しかし、少子化対策として子どもを持つ親に加重投票権を与えることを認めるのであれば、他の様々な政策目的のためにマイノリティに加重投票権を与えたり、クォータ制を設けたりすることの議論もまた真剣に検討されていいように思う*7。とはいえ、この話は本筋から離れるので、指摘するに留める。

最後に(3)である。これは大まかなニーズさえ満たしておけば、政治的影響力の付与について考えすぎなくてもよいのではないか、との考えに基づく。子ども特有の利害を想定しにくいとすれば、むしろ何にでも使えるリソースだけを配分しておく方が、来るべきステークホルダーへの応答性を確保したことになるのではないか。こうした方策は子ども手当てなどの形で現在でもある程度行われているとも見れるが、政策目的を政治力の不在への補償的措置と意味付ける点で異なる。この場合、要すれば政治的意思決定無能力者(語り得ない/得なかった者)への手当てとして、現物支給(ないしその権利付与)が行われるわけである。

来るべきステークホルダーへの応答のために可能なこととしては、既に情報面について述べた。すなわち、私たちには次代の人々が政治過程を事後的に検証・批判することを可能にする情報の記録と開示が求められる。それに加えて採り得る選択肢として、将来の政治主体形成を担う充実した教育サービスの提供と、その享受のための資源を含む基礎的な資源の配分(人生前半の社会保障)などが考えられる。これらは、政治的影響力が制限されている未来世代への代償的処置として整備されることになる。

あるいは、このような考え方からベーシック・インカムを正当化することはできないだろうか。政治力不均衡の衡平化策としての、ベーシック・インカムである。もちろんそれは、濱口桂一郎さんが批判するところの、社会的に排除される者に対する「捨て扶持」としてのベーシック・インカムと、論理構造上変わらないかもしれない。だが、社会に参加しようとしてもできない人々、ゲームに賭けようとしても(今はまだ)賭けられない者たちのために賭け金を「とっておく」ことはそれほど不当とは思われない。ベーシック・インカムを立憲主義的諸制度同様、多数者の専制への防波堤として制度化する理路の可能性も、閉ざされてはいないのではなかろうか。


このようなアイデアの議論をしている段階は、気楽なものである。問題は「誰がそれをするのか?」ということだ。そもそもシルバー・デモクラシー論において問題となっていたのは、何か具体的なイシューに沿っての個別の政治問題と言うより、これからのそれらを左右する政治の担い手が誰であるか、つまりは次の政治を構成する政治であり、それはガバナンスのガバナンス、メタ・ガバナンスと言ってもよい*8

メタ・ガバナンスとして捉えるなら、先の方向性の内で(3)を強化するための仕組みとして(2)を考える、ということもできる。言うまでもなく、子ども・教育政策は元々メタ・ガバナンスとしての性格を持っているが、分野を限定せず、政治そのものが絶えずそうした構成的側面を持っていることは意識されねばならないだろう。政治とは集合的な問題(紛争)をめぐる対立と解決の過程であるが、ある解決は次の対立の条件を準備するものである。「価値の権威的配分」は、同時に次なる紛争の構成でもある。ある決定は、次の決定へと至るスタート地点を規定しているに過ぎない。不可逆性の高い決定は有り得ても、真に終局的な決定や最終解決などは存在しない。政治は終わりなきゲームである。

メタ・ガバナンスとは決定のための制度条件であり、それ自体が先行する決定(政治)の所産である。ゆえにメタ・ガバナンスは無限遡及する。「ガバナンスを変えるガバナンス・を変えるガバナンス・を変える……」といった具合に、政治的対抗関係を規定する対立軸が組み変わらない限り、政治の政治は、ただの政治と同次元に終わってしまうのである。

シルバー・デモクラシー論は中高年と若年層の間の非対称なメタ・ガバナンスの構造を問題にしているが、それを変えるためには中高年をも巻き込んでいかなければならない。dojinさんが指摘しているように、世代間対立を煽ることに若者=弱者にとってのメリットは何もない。既存の対立軸を固定的に前提する限り、少数派がメタ・ガバナンスで勝つことはできないのである。勝つためには、対立軸を組み換え、アジェンダを再設定するしかない。

そのためには一種の「アイデアの政治」、つまり経済的な利益ではない何らか他なる価値、理念の訴えが必要であるかもしれない。「アイデアの政治」とは、例えばここ30年ぐらいの間に「環境」が政治イシューとして定着し、「エコ」「地球にやさしく」などが誰の耳目にも親しく触れるようになったように、何らかの理念が人々の意識に影響を与えて政治を動かすという考え方を意味する。より論争的には「小さな政府」「官から民へ」などもそうしたアイデアと言えるし、「新しい公共」や「熟議」もその例になり得るものである*9。シルバー・デモクラシー論も高齢世代に反省を迫ることを通じてそうした効果を狙う部分もあるのかもしれないが、却って世代間対立を再生産しているだけかもしれない。

政治を分配として見ることに偏ると、それによって誰が甘い汁をすすっているのかにばかり目がいくようになる。自分が苦しいのは、「誰かがズルをしている」結果であるというわけである。官僚や政治家からどんどん「オモチャ」を取り上げれば国が良くなるとか、中高年の正社員の首を切れば若者が幸せになるといったような幻想は、そのような政治観を反映している。それは今・この瞬間に切り取られた政治の断面をしか見ない近視眼的な見方であり*10、正しくポピュリズムの構成要素である。現行の子ども手当てが一種のアイデアを伴って導入されながら、一般にはアイデアとしてよりも利益、つまり単なるバラマキ政策の一つとして捉えられ、狭義の利益を超えるアイデアとしての浸透や共感獲得に失敗したのは、分配的な政治観の強靭さゆえもあるだろう。

政治が本質的にメタ・ガバナンスとしての性格を備えること、遠く将来に及ぶタイムスパンを伴った構成的側面を持つことが、広く認識される必要がある。様々な利害が衝突して綱引きをする対抗関係の暫定的所産として政治を捉える視点が、綱を引く人々の位置を少しずつ変えようとするような、それを通じて未来を構成していく=未来へ応答していくような営みとしての政治の側面が、知られねばならない。来るべきステークホルダーとしての子どもの政治力の欠如を代償するために、情報・教育・社会保障を提供・整備するというアイデアの提起は、政治をこのような「構成」として捉え返すための一助として為したまでである。


*1:分野によっては、プリンシパルとエージェントの関係としてこの問題を捉えようとする。

*2:その期待の妥当性を最終的にジャッジする司法の決定的重要性は、ここでは(またしても!)指摘するに留めておく。

*3:塚越健司「ウィキリークスとは何か――加速するリーク社会化」小林恭子ほか『日本人が知らないウィキリークス』洋泉社(新書y)、2011年、1章。

*4:浜野喬士「「正義はなされよ、世界は滅びよ」前掲書、6章。

*5:そこでは応答予定時刻を狂わせるよりもむしろ、応答の必要性さえ認識されていないような情報に、「要応答」のタグを付けて回るようなことが行われているのである。

*6:ここで過度にパターナリスティックと言ったのは、形式的には子どもの権利であるものを実質的には親の判断で行使することになる制度の問題点を言ったのであって、未成年の権利を制限するようなパターナリズム一般が望ましくないという意味ではない。予め、子どもが何歳からは親はその意思を尊重するなどといった規定があるなど(しかしそれは親の政治的自由を制約するために望ましくないような気がするが)、親の自由裁量が限られているならば話は変わってくるだろう。

*7:あるいはクォータ制の一種として、「子ども代表議席」を幾つか設けて、発言権を確保することも考えられるかもしれない。ただ、数議席与えたからといって実質的影響力は不明であるし、その選出方法も問題となる。

*8:城山英明によれば、メタ・ガバナンスとは「ガバナンスの生成・変化を可能とするメカニズム」である。城山英明「グローバル化における国家機能の行方――メタガバナンスはいかにして可能か」『世界』2010年10月号、161-167頁。

*9:これは結局「良いポピュリズム」の唱道ではないのか、と言われればそうだろう。つまり、新しいアイデアを持ち出してより広範な有権者を掌握すること、その実際の利益とは無関係に、人々を巧妙に「騙す」ことに努力せよ、と。「小泉劇場政治」のお株を奪って、こちらの側から絶えず再演し続けよ、と。そう言っていることになるかもしれない。狭義の利益に基づく対立軸を突き崩すアイデアの政治には、多少なりともそうした側面が付きまとう。そこにあるのは、理念の浸透を通じた一方向的な影響の与え方、利益の超え方であり、「話し合い」とは異なる。その点の評価は人それぞれであってよい。

*10:これをreflexivityを欠いた、と表現することもできるであろうが、人々が情報に触れる量と速度が飛躍的に上昇し、それに伴って判断を求められる頻度も刹那的なレベルにまで増加している以上、自然な帰結ではある。反省の機会は作為的に設けられるしかないが、日常の速さがそれを許さない。この強じんな日常を作り変えるためのメタ日常の創出こそが、政治には求められているのかもしれない。


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