Sunday, May 24, 2009

リスクと不確実性について


少し前の話になるが、kaikajiさんとBaatarismさんの以下のやりとりに触発されて考えたことをまとめておく。



論点となっているのはリスク管理とコスト&ベネフィットの考慮である。話題自体は(政治)経済学的な色彩が強いけれども、リスク概念は分野によって意味合いがそれぞれ異なるので、まず用語の整理から始めよう。

社会学では、危険dangerリスクriskを区別することが多い*1。危険が人に危害を及ぼす可能性のあるもの全般、あるいはその可能性そのものを指すとすれば、社会学的概念としてのリスクは、人が行った何らかの選択や決定に伴う不確実性から生じる不安を意味している。天災など自らの選択の帰結ではない現象は、危険には含まれるが、リスクではない。社会学的リスクは、近代化の進展によって拡大した個人の自由が伴う未来予測の不確実性を背景としており、その不確実な未来についての主観的な認識と評価によって構成されている。

他方、主に自然科学分野で為されているリスク・マネジメントについての議論では、リスクとの区別が問題になるのは危険ではなくハザードhazardである。ハザードは対象に固有の潜在的危険性・有害性を意味し、「危険源」などと訳される。これに対してリスクは、ハザードが何らかのきっかけによって現実の被害を引き起こす可能性を意味するとされる。例えば大量の火薬が保管されている倉庫はハザードだが、周辺に火の気が無ければリスクはそれ程高くない。そこに誰かが火の気を持ち込むことによって、その場のリスクは急激に高まることになる。

このような意味でのリスクは、客観的な危険度と言うべきハザードに加えて、現実の被害が引き起こされる可能性(確率)を考え合わせたもので、いわば「(客観的)危険出現可能性」とでも訳すべき概念である。それは、個人の選択に伴う社会学的リスクとは異なる。むしろ社会学的議論においてリスクと区別される場合のデンジャーに近い。しかし、それでは折角在る言葉が勿体無いので、ここでは可能性であったものが実際に出現する/した事態のことを(便宜的に)デンジャーと呼ぶことにしよう。

そうすると、危険出現可能性としてのリスクは、対象が引き起こし得るデンジャーはどのようなものであるのか(ハザード)と、対象がデンジャーを引き起こす可能性はどのくらいあるのか(確率)――どのような状況になれば引き起こされるのか(条件)を含む――の考慮によって算出されることになる。ハザードも考慮されるということは、たとえ実際に起こる可能性が低いデンジャーであっても、その被害が甚大となることが予測されるなら、対象のリスクは高いと判断され得るということである。

これに対して、経済学で用いられるリスク概念は、帰結への考慮を含まず、純粋に「危険が出現する可能性」、つまり確率を意味するために存在している。Baatarismさんが引用している竹森俊平『1997年――世界を変えた金融危機』によれば、先で言う「対象がデンジャーを引き起こす可能性はどのくらいあるのか(確率)」についての認識の部分が、経済学では広義の不確実性uncertaintyの問題として議論される。そして広義の不確実性の内で、過去に前例・類例があるなどの理由から客観的データによって可能性を判断できる(確率分布を想定できる)ケースはリスクと考えられ、過去に例が無くデータによる判断が不可能である(確率分布を想定できない)ケースは「真の不確実性(ナイトの不確実性)」であると見做される。

以上、図表で示せばもう少し解り易くなるところを面倒なのでしないが、同一単語が複数分野で異なる意味に使用されているところを強引に同一ないし近似の概念として整合性を与えようとする試みをするとすればこうなるかなということを、してみた。最も一般的と思われる危険出現可能性としてのリスク概念を「広義のリスク」とするならば、社会学的リスク(再帰的リスク)概念と経済学的リスク(確率的リスク)概念は、それぞれ別個の「狭義のリスク」である。


本題に移ろう。前掲のやり取りの中で「コスト」として想定されているものの幾つか(例えば国民の犠牲)は、発射されたロケットが引き起こし得る帰結、すなわちハザードの一種として解釈可能である。どのようなミサイルないし物体がどのような地域に着弾/落下すればどの程度の被害が予測されるかなど、ハザードは客観的な判断の対象となり得る。Baatarismさんはコストの定量化そのものが評価者のイデオロギーに左右されてしまうと指摘しているが、それは正確な言い方ではない。イデオロギーによって左右されるところが大きいのは、客観的算出が可能な「広義のリスク」ではなく、そのような客観的リスクに対する再帰的評価に基づいて構成される社会学的リスクの方である。

先に、社会学的リスクは不確実な未来についての主観的な認識と評価によって構成されると述べた。私たちが完全な情報を得て、有り得る事態の全てについて合理的な分析を加え、客観的な確率についての認識を形成することは、現実には困難であり、ほとんど不可能だと言ってもよい。そのため、(「真の不確実性」に属するとされる状況も含めて)私たちが実際に依拠しているのは個々人が(客観的根拠も援用しながら)内的に算出する主観的確率の認識である。

個人の行為は、主観的確率とハザードの主観的評価(主観的危険度)との総合によって形成される社会学的リスク認識に基づく予期によって駆動される*2。主観的確率は客観的確率とは独立に形成され得るが、危険度の主観的評価は客観的なハザードの認識を前提にしている。被害が同じ程度であっても、評価者が何を守るべき価値と考えているかによって、事態が持つ意味は異なってくる。簡単に言えば、ミサイル攻撃によって100人の命が失われた場合に、「100人も死んでしまった」と考えるのか、「100人で済んで良かった」と考えるのかの違いである。そのような評価は、各人の価値観に依存する*3。したがって、客観的なリスク認識(ハザードと確率)について概ね一致することができても、採るべき対応について一致するとは限らない。

「危険について述べる場合には、われわれはこう生きたい、という観点が入ってくる」と言われるはこのためだが*4、それでも再帰的評価とは離れて、可能な限り客観的なハザードや確率の認識を行おうとすることができないわけではないし、それを止めるべきでもない。むしろ最終的には政治過程において決定されるしかないと理解しながら、そのような集合的リスク評価がより有益であるための客観的材料を提供するのが科学的認識の役割であるし、そこで専門家の知識翻訳と社会内の議論促進の役割を担うのがマスメディアの仕事であるはずだろう。だから私は今こそ「「勘定」に訴えかける議論がぜひとも必要」とするkaikajiさんの問題意識に強く共感するし、そのような議論を示すことは、本来経済学に限られることのない科学全体の使命であると思う。


ただ、それとは別に私がこのエントリを書こうと思ったのは、Baatarismさんが依拠する経済学上の「真の不確実性」概念にある種の胡散臭さを感じたためでもある。Baatarismさんは北朝鮮が日本をミサイルで攻撃するケースは「真の不確実性」に属すると言う。そして、そのような事態が発生する確率を見積もることは不可能なので、対抗手段として比較的コストが小さいミサイル防衛システムを採用することは妥当だと結論している。その結論の是非はここでは扱わないことにして、私が引っ掛かるのは論証の過程で示される、今現在は「危険性が非常に低いように思えたとしても、近い未来にどうなるかは誰にも分からない」との認識である。この論理は当該ケースが「真の不確実性」に属すると見做される所以でもあるのだが、何と言うか、あまりにも「身も蓋も無い」言い草ではなかろうか。

少し意地の悪い言い方になるが、このような「身も蓋も無い」言い草が許されるのであれば、「街を行き交う人々がいくら温厚そうに見えても、いつ豹変して私を襲うかもしれないから、拳銃の所持を許して欲しい」との主張を容易に正当化できそうである。このあたりは社会学の得意分野であるが、そもそも社会秩序の成り立ちそのものが「真の不確実性」に属する問題であり、今度すれ違う人が私を襲って金品を奪おうとするかもしれないという疑いは、本来全く不合理なものではないはずであるから。

それでも社会に秩序が成立し、国際社会にも一定の秩序が成り立っているのは、そこに何らかの確率認知の体系(社会学的に言い換えると予期の体系)が形成されたからではなかろうか。確かに、それは経済学的リスクのように客観的・統計的に判断可能な確率ではなく、主観的ないし間主観的な確率認識であるだろう。だから実際には、「どうなるかは誰にも分からない」。しかしそもそもAの確率が99%であるということは、Aでない確率が1%存在するということだから、究極的にはどんな状況であっても「近い未来にどうなるかは誰にも分からない」のである。
したがって、このような言い方は(Baatarismさんの意図とは無関係に)「真の不確実性」について言及するに留まらず、確率的な思考全体の有効性を否定してしまいかねない*5。客観的/主観的にかかわらず、確率とは不確実な未来に対して多少なりとも合理的な行為を選択し、望ましい未来を構築していくために用いられる手段であるから、今現在「危険性が非常に低いように思え」るのであれば、まず第一に議論されるべきなのは、その理由であるはずなのだ。現状そのように「思える」ことは何によって可能になったことであるのかを考えることは、通常思われているよりもずっと重要なことであると思う。

実はBaatarismさんの結論を支えているのは、当該ケースが「真の不確実性」であるかどうかよりも、「もし北朝鮮が本当に日本にミサイル攻撃を行ったら、日本の人口密集地に莫大な被害が出る可能性はほぼ100%」であるというハザードについての認識の方である。この認識が妥当であれば、たとえ当該ケースが「真の不確実性」とは言えず、北朝鮮によるミサイル攻撃の確率を算出することが可能で、しかもその確率が非常に低いとしても、ハザードの大きさのために(広義の)リスクはミサイル防衛システムを採用することを正当化可能である程に高い、との立論は説得的で有り得る(その説得性は受け手の再帰的評価に依存する)。つまりBaatarismさんの主張には、別に「真の不確実性」概念は必要でない。

そもそも経済学的リスクと「真の不確実性」の区別のされ方はだいぶ曖昧であり、恣意的判断の混入を許す余地が大きいように見える。それならば、広義の不確実性内部の緩やかな区別は維持するとしても、確率認識の可能・不可能で分けるよりも、認識の客観性の大小で起伏をつける方が良いと思う。あるケースが「真の不確実性」に属しているのかどうかは、本当のところ大した問題ではない。あまりこういう概念を有難がるのもどうかなと思った、という、そういう話をした。



*2『利害関係理論の基礎』、第1章第3節2、を参照。

*3:もっと言えば、これはA.センの言うcapabilityにかかわる問題である。例えば地雷によって同じく両足を失った人でも、「命が在るだけ良かった」と思う人もいれば、将来を嘱望された陸上選手であったために「死んだ方がマシだった」と思う人もいるかもしれない。

*4:ウルリヒ・ベック『危険社会』(東廉・伊藤美登里訳、法政大学出版局、1998年)、90頁。

*5:それは極端に言うと社会秩序そのものへの攻撃で有り得る。


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