Friday, January 12, 2007

個人は社会の前に存在する


個体の唯一性



他人の「固有性」は自明でないから、初対面で相手の固有性を把握することはできないと考えられるのが一般的である。ここで言う「固有性」とは、その人がその人である理由であり、代替可能な社会的属性などに還元されないその人固有の「かけがえのない」部分のことである。それは時に「この私性 thisness」と呼ばれることもある。

だが、改めて考えてみると、初対面の人についても、テレビで見た人についても、ある種の固有性は自明である。ある人を見たとき、私は彼が彼でしかなく、他の何者でもないということを瞬時に認識する。その時点では私は彼の「かけがえのなさ」がどの部分にあるのか知らないし、私にとっての彼は決して「かけがえのない」存在ではないが、彼という存在が根本的に代替不可能であることを私は既に知っている。

そこで私が彼に見出す固有性とは、実は全く抽象的かつ形式的なレベルのものであり、一般的に考えられている「この私性」とは異なる。「この私性」としての固有性は、ある個体から社会的属性をすべて取り除いた後に残る何かを意味している。多くの人はこのような部分が自分にも他人にもどこかに存在しているはずだと思っているが、実際のところそんな部分が存在しているのかどうかは不明である。もしかしたら、無いかもしれない。人間は誰でも、代替可能な社会的属性と社会的諸関係の集合体でしかないかもしれない。その場合には個体に「この私性」を見出すことはできないが、抽象的かつ形式的な固有性は変わらず見出すことができる。

抽象的かつ形式的な固有性とは、何であるのか。一旦、整理しよう。個体とは、社会的属性および社会的諸関係と、「この私性」としての固有性とが総合された存在である。後者は前者に還元されないとされるが、その存在自体は証明が困難である。だが、「この私性」としての固有性が存在するか否かにかかわらず、抽象的かつ形式的な固有性は必ず存在する。それは、社会的属性および社会的諸関係と「この私性」を総合した存在としての個体に宿る、端的な「唯一性」のことである。個体が個体として存在するということだけで見出すことができる「単独性」のことである*1

個体は、ただ個体として存在しているだけで他の何者でもなく、代替不可能である。この意味での固有性は、初対面であろうがテレビで見ただけであろうが、あらゆる個体に見出すことができる。それは個体が個体であるだけで有する固有性であるから、社会的属性や社会的諸関係に還元できない「この私性」を有しているかどうかとは無関係である。個体はただ個体であるというだけで、唯一無二の固有存在なのである。


場としての個体



ところで、ある人の決定とは、現実には様々な社会的文脈や人間関係の中で決定されたことであるから、孤立的な「自己決定」なんてそもそも不可能である、と言われることがある*2。私たちは個人である前に家族の一員であり、大小さまざまな規模の共同体の一員であって、家族の一員である「前に」個人であるような人間はこの世に存在しない、と。そもそも自我は先行して存在する共同体内部の諸関係に応じて獲得されるもので、それ以前の私には「私」という概念が存在しないのであるから、社会の前にまず個人が存在するかのように考えることは誤りである、と。

しかしながら、こうした立論にはあまり説得力がない。たとえ社会的諸関係が決定に多大な影響を与えたとしても、個人が最終的に判断を下す限りにおいては、それはあくまでも自己決定である。自己像は確かに多くの部分を他者に拠っているが、決して他者によって形成されるわけではない。他者や社会が大きな影響を及ぼすとしても、それを統合して自己像を形成していくのはあくまで自己でしかない。社会的諸関係というものは、個人の「唯一性」の中に組み込まれる形でしか個人に影響を及ぼすことができないのであって、個人の上位や外部にあるものでもなければ、個人に先行して存在しうるものでもない。

人間には自我概念が獲得される以前の時期が存在するとか、われわれは独立した個的生命体である以前には両親の一部であったとか、こうしたことは事実である。だが、そうした成長段階についての議論と区別される個人の存立そのものについての議論においては、個人が特に家族その他の共同体に属しなくても存立しうる独立した個体であって、個人である前に何かでなくてはならないことはないことを認めなくてはならない。

自我概念の成長段階から他者や社会的諸関係が大いに影響を及ぼしているのだから、個人が最初から主体的に様々な関係を取り結んでいくという構図は神話に過ぎない、という主張は正しい。だが、それは「まず個人が存在する」という出発点まで否定してよいことを意味しない。自我概念が未発達な段階であっても、その個人が存在しないわけではない。なるほど、赤ん坊に自我概念は無かった。だが、赤ん坊は最初からいた。なるほど、彼の自我は社会的に構築されてきた。だが、社会内における自らの位置を認識し、それに応じて自我を形成・再編してきたのは、彼自身以外の何者でもない。

社会的諸関係によって構築されるとしても、構築の場としての個人は先に存在しなければならない。個人は確かに社会的諸関係なくしては有り得ないが、それと同時に社会的諸関係も個人なくしては有り得ない。社会的諸関係による個人への規定と拘束は、前提となる個人がまず存在していなければ始まらない。したがって、「まず個人が存在する」という事実認識は、決して譲ることができないのである。


*1:「単独性」については以下を参照。柄谷行人[1994]『探究Ⅱ』講談社学術文庫。柄谷行人[1999]『ヒューモアトしての唯物論』講談社学術文庫。

*2:例えば、小松美彦[2004]『自己決定権は幻想である』洋泉社新書。




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