Saturday, January 13, 2007

所有論ノート―道徳的感覚の視点から


所有権意識と道徳的感覚



所有権という概念はどのようにして生まれるのだろうか。加藤雅信によれば、農耕社会・遊牧社会・狩猟採集社会に関わらず、食料生産極大化の社会的要請から資本投下の対象に対する資本投下者の所有権が観念される。ただ、これはあくまでも社会的に見た所有権概念発生についての話であって、個体的な所有権意識の問題は別にある。

個体的な所有権意識と言うとき、法的に保障された所有権を尊重しなければならないという意識以前に、事物の所有/占有についての道徳的な感覚が存在している。われわれは、そうした感覚に基づいて、あらゆる所有/占有の道徳的正当性についての判断を日常的に行っている。そうした感覚の根拠は、功績、必要、慣行、事実状態など様々な種類があり、規範的議論において主張される所有権の正当化根拠と重なる部分が多い。

例えば、ジョン・ロックの所有権論では、誰にも所有されていない無主の財を発見・開拓し、そこに労働によって価値を付加・創造することが所有権発生の根拠とされている。ロック的所有権論を受け継ぐマリー・ロスバードによれば、市場において獲得した財なども、財の所有権交換プロセスを遡っていけば最終的には労働による価値創造に行き着くのであり、そこで根拠付けられた所有権を譲渡・交換している限り、市場システム・私有財産制度は肯定される。数多の批判にもかかわらず、こうしたタイプの所有権正当化の議論が未だに多くの人々に支持されているのは、功績(価値創造)に応じて権利を得るという原理が、多くの人々の道徳的感覚に強く訴えかける力を保っているからである。


道徳的感覚と環境的要因



こうした道徳感覚は、外部環境の変化によって左右されることがある。卑近な事例を用いて説明しよう。

電車の中で平気で食事をしたり、化粧をしたり、熟睡したりする人々は、しばしば批判の的となる。 批判の内容は、公共空間に身を置きながら、まるで自分の部屋に居るかのように振る舞うことはみっともない、というものである。だが、そうした批判において想定されている「電車」とは、概ね横並び型座席の車両のみを指しており、新幹線などの前向き型座席の車両や地方路線に多いボックス型座席の車両を考慮に入れていない。

同じ電車であるにもかかわらず、前向き型座席やボックス型座席で食事を摂る人に対する批判はあまり聞いたことがない。それは、これらの座席と横並び型座席の間に何らかの相違が存在するからに違いない。おそらく最大の相違は、空間の切り取り方であろう。横並び型座席における車両内は、空いていれば端から端を見渡せるほど、仕切りのないオープンな空間である。それに対して前向き型座席とボックス型座席は、座席の構造上、相対的に車両内が見渡しにくく、空間が一定の閉鎖性、個別性を有している。それゆえ、より公開性が顕著な横並び型座席においては、前向き型座席やボックス型座席におけるよりも一層「公共的」な振る舞いを求められる傾向が生まれやすいのであろう。ここでは明白に、外部環境の変化が道徳的感覚の働きに影響を及ぼしている。


個体的所有権意識と環境的要因



環境的要因が道徳的感覚に影響を及ぼすということは、個体的な所有権意識も外部環境と無縁ではいられないということであり、さらに言えば、個体的所有権意識を社会的な所有権概念からそれ程画然と切り離して考えることはできないということでもあろう。

この点をよく示すのは、所有/占有についての道徳的感覚における必要という要素である。例えば飲食店や公共交通機関において、空席が目立つ場合には、二人掛けや四人掛けの席を一人で使っていたとしても、誰もそれをとがめることはない。だが、混雑している場合に必要以上に座席を占拠するならば、周囲の人々は強い非難感情を抱くであろう。つまり、空席が目立つ場合、すなわち財が豊富に存在している場合には、財を必要以上に占有することは特に不当であるとは見做されないが、混雑している場合、すなわち財が希少な場合には、財を必要以上に占有することは不当であると見做される。

同様に混雑している場合でも、必要以上の占有が存在せず、単純に満席であるのならば、座ることのできない人が非難感情を抱くことはないだろう。必要に見合った占有の帰結として財が不足するのであれば、特定の人を道徳的に非難することは難しい。つまり、事実的占有は、実際に占有の必要や使用の実績が示されることによって、道徳的な正当性を承認されやすくなる。逆に、たとえ法的所有権に基づくであっても、その占有に必要や使用実績が認められない場合、道徳的には不当であると見做されることがある。「使っていないんだから、もらってもいいじゃないか」という日常的感覚は、必要という要素に基づく道徳的感覚である。

このような道徳的感覚が抱かれるということは、個体的な所有権意識を社会全体の必要や生産性および効率性と切り離して考えることはできないということである。


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