Friday, January 19, 2007

九条燃ゆ前に(1)


理想主義的護憲論



平和をたぐり寄せるためには「9条」を手放すことは出来ないと私は考えている。だが、こうした考えを代表する「護憲」派は説得的な主張を展開できているのだろうか。まだ間に合ううちに、改めて検討しておく必要がある。

日本国憲法第9条についてのいかなる改正にも反対する「護憲」論者の中でも、非武装中立論のような理想主義的な主張を正面から唱える者は少なくなってきている。そうした流れに抗して、大塚英志は敢えて理想主義的に護憲を語る*1

大塚によれば、9条とは「ことば」の問題である。一切の武力行使を放棄した9条は、ことばを信じ、ことばによって他者と話し交渉して合意点を見つけていこうとする選択肢を示した。ところが、戦後の日本はこうした「ことばによる外交」の道を採らず、9条を実現してこなかった。戦争を放棄した主権国家としてのあり方の可能性は放棄されてきたのである。こうした武力によらない外交解決という理想論は現実的ではないとして笑われる傾向にあるが、理想論を笑うことは現実におもねることにほかならない。より困難でラディカルなのは理想論を語ることであるから、理念と現実の乖離に臨んでは、理念ではなくて現実の方をきちんと修正せよという原理主義的選択を再評価する必要がある。そうした原理主義的選択として、9条を前提に非武装中立の外交をするという理想主義を復興する選択肢が再び選ばれるべきなのである。

大塚は社民党などは非武装中立を放棄していったと言うが、少なくとも遠い将来の目標としての非武装国家については社民党も共産党もそれを放棄しているわけではない。「将来の非武装の日本を目指す」「現実を平和憲法の理念に接近させる着実な努力こそが求められている」といった社民党の宣言は大塚の主張と一致する*2。また、「世界史的にも先駆的意義をもつ九条の完全実施にむけて、憲法違反の現実を改革していくことこそ、政治の責任である」とか「独立・中立を宣言した日本が、諸外国とほんとうの友好関係をむすび、道理ある外交によって世界平和に貢献するならば、わが国が常備軍によらず安全を確保することが、二十一世紀には可能になる」といった共産党の宣言も基本的には同じことを言っている*3

こうした言葉に接する限り、即時の非武装中立や自衛隊の廃止を求める勢力はもはや無きに等しいとは言え、将来的・潜在的なものとしての理想主義的要求は未だ根強いと言えそうである。実際、大塚が言うような「ことばによる外交」論は昔から一貫して見られる主張であり、最近では井筒和幸が、「ちゃんとした「大人の国」は戦争しない、その代わりにどうするかというと外交するわけです」と述べている*4。こうした立場は要するに「いかに<脅威>をつくらないか、いかに日本に攻めてくる国をつくらない(その国にとっても日本が大切な存在になる)かという観点で外交努力をしていく必要がある」という主張に終始することになるが*5、「それで外交に失敗したらどうするのか」という端的な反問に対して一般的にあまり積極的に答えようとしないために、説得力はあまり大きくない。

この反問に対して、非武装を維持したままで積極的に答えようとした者も過去にはたくさんいる。その主張は、粛々と降伏論、パルチザン的抵抗論、非暴力不服従論、逃亡論と様々だが、いずれも非現実的であるとか、特定の価値観(絶対平和主義)を全国民に押し付けるものであるなどという理由で有力な反論を与えられている*6。そうしたこともあって、今ではとりあえず自衛力の暫定的保有は認める者が多い。しかし、外交努力によって将来には非武装を実現するとは言っても、外交に失敗する可能性はいつでも想定できるわけだから、失敗したときどうするのかという反問に対する有力な一般的回答を用意しない限り、問題は全く解決していないことになる。要するに社民党や共産党も含めて多くの論者は問題の先送りという形でのみ理想主義を保持しているわけであり、同時にそれを手段的に用いているわけであるが、それについてはまた後で触れよう。


二つの現実主義的護憲論



大塚のように「武装か、非武装か」という選択を迫るのは子どもの論理だと言うのは、内田樹である*7。内田は、9条と自衛隊の間にある矛盾を積極的に評価しようとする。内田によれば、自衛隊という武力は9条という「封印」とともにあることによって正統性を得ているのであり、その意味で両者は相補的である。

どういうことか。内田の論理をたどれば、こうである。法律はわるいことをさせないためにあり、9条は戦争をさせないためにある。改憲派は憲法に「戦争をしてもよい条件」を書き込もうとしているが、それは刑法に殺人罪とともに「人を殺してもよい条件」を規定するようなものである。ときには人を殺さなければならないことがあるのは事実であるが、刑法には「人を殺してもよい条件」は規定されていない。それは、「人を殺してもよい条件」を定めてしまえば、「人を殺してはいけない」という禁令が無効化されてしまうからである。したがって、我々は「人を殺してはならない」という理念と「人を殺さなければならない場合がある」という現実との両立不可能な要請を同時に引き受け、同時に生きなければならない。どちらかに「すっきり」すればよいというものではない。9条と自衛隊もまた、そのような矛盾した要請であり、9条(「戦争をしてはいけない」)という封印があってこそ止むを得ない場合の自衛(「戦争をしなければならない場合」)に正統性が付与されるという意味で、両者は相補的な存在なのである。

内田はその他にも色々と言っているが、主張の核心は以上に尽くされている。しかし、彼の刑法解釈は間違っていると言わざるを得ない。刑法には「総則」と呼ばれる部分が初めにあり、そこで「正当防衛」などの「犯罪が成立しない条件」が一般的に規定されている。これが殺人罪に適用されることでいわば「人を殺してもよい条件」が導かれる。また、刑法199条自体、読み方によっては「死刑又は無期若しくは五年以上の懲役」と引き換えにであれば「人を殺してもよい」と言っていると解釈することは不可能ではない。したがって、刑法には明示的にではないにせよ「人を殺してもよい条件」が定められていると言える。これに対して、刑法と性質が異なる(総則も罰則規定も無い)憲法においては明示的に「戦争をしてもよい条件」を定める必要があると考えることは、是非はともかく一つの立場として有り得る。

刑法の例が不適切であることから明らかなのは、例外条件(「人を殺してもよい条件」)の規定は必ずしも一般規定(「人を殺してはならない」)の無効化を意味しないということである。つまり、「戦争をしてもよい条件」を9条に新たに明記したとしても、「戦争をしてはならない」という一般的禁令が完全に無効化するとは限らない。刑法において「人を殺してもよい条件」と「人を殺してはならない」という禁令が両立しているように、憲法においても「戦争をしてもよい条件」と「戦争をしてはならない」という禁令は両立し得ないわけではない。そして、現実に両者は解釈改憲によって両立してきた。9条のそもそもの画期的意義は、「戦争をしてはいけない」という一般的禁令に留まらず、戦力不保持を定めることによって現実に戦争ができる能力自体を封じ、いかなる例外条件も認めない絶対的禁令として現れた点にある。それが自衛力の保持を禁止していないと解釈された時点で、絶対的禁令は例外条件を許容する一般的禁令に変化したのである。したがって、実際には、内田の言う「戦争をしてもよい条件」は既に定められていると考えるのが自然である。

ところが、総則によって例外条件がある程度明示的に定められている刑法と異なり、9条においてはあくまで解釈によって「戦争をしてもよい条件」が定められているために、解釈変更によっていくらでもその条件を拡張できるのではないかという不安が広がっている。度重なる解釈によって、いわば封印が弱まっているのではないか、そのうち実質的に封印が破られるのではないか、という不安である。こうした不安に基づき、「新たな封印」として明示的な自衛隊への制約を求める立場に対して、従来の封印の意味ばかりを強調する内田の主張がどれほど説得的であるかは疑問である。

他方、長谷部恭男は、自衛のための実力組織を保持することを否定しない「穏和な平和主義」を採るべきことを主張する。その上で長谷部は、「従来の政府解釈で認められている自衛のための実力の保持を明記しようというだけであれば」、その改正には「何の意味もない」から9条の改正は必要ないと言う*8。長谷部によれば、9条は「ある問題に対する答えを一義的に定める準則」ではなく、「答えをある特定の方向へと導く力として働くにとどまる原理」であるから、自衛力の保持は憲法には抵触しない*9。9条が「準則」だとすれば、それは絶対平和主義を「唯一の「善き生き方」である」として「特定の価値観を全国民に押しつけるものと考えざるをえない」から、立憲主義の立場からは9条は「原理」として解するほかない、とされる*10

しかし、9条を(特にその2項を)「準則」でないと解するのは無理があるように思われる。少なくともその条項は当初「準則」として受け取られたし、現在でも国民の大半は「準則」として受け取っている。そして、仮に9条を「準則」だと解釈しても、それは国家に対して戦争放棄・戦力不保持・交戦権否認を求めているだけであり、各国民に対して絶対平和主義的に振る舞うことを要求しているわけではないから、特定の価値観を押し付けるものだとまでは言えないであろう。歴史的に見れば、9条はもともと「準則」として解されていたのが、解釈改憲によって「原理」と見做されるようになってきたと考えるのがもっとも自然である。とすれば、長谷部は内容面においては9条改正支持派であるとも言える。彼が改正に反対するのは、基本的には、既に解釈によって認められていることを明記するだけであれば無意味であるという、形式面における理由に基づくにすぎない。

このような長谷部の形式的護憲論は、自衛隊の野放図な海外派兵に対する新たな歯止めが必要とする議論に対して、十分な説得力を持ち得るだろうか。むしろ長谷部自身によって「いったん譲歩を始めると、そもそも憲法の文言に格別の根拠がない以上、踏みとどまるべき適切な地点はどこにもない」と言われているように*11、「原理」としての9条解釈などでは、更なる解釈変更によってますます歯止めとしての9条が切り崩されていくのではないか、という不安は払拭され難いように思われる。


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*1:以下、大塚の主張は全て、大塚英志[2005]『憲法力』角川書店、第10章による。



*4:高橋哲哉・斎藤貴男編[2006]『憲法が変わっても戦争にならないと思っている人のための本』日本評論社、36頁。

*5:同、74頁。

*6:長谷部恭男[2004]『憲法と平和を問いなおす』ちくま新書、第8章。

*7:以下、内田の主張は全て、内田樹ほか[2006]『9条どうでしょう』毎日新聞社、による。

*8:長谷部恭男[2006]『憲法とは何か』岩波新書、20頁。

*9:長谷部[2004]171頁。

*10:長谷部[2006]71‐72頁。

*11:長谷部[2004]163頁。



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