Sunday, May 31, 2009

精神障害者をどう裁くか


良書である。既に多数の著作を持つ現役の精神科医が、とりわけ法に触れた精神障害者の扱いに焦点を当てながら、社会が精神障害者にかかわる仕方について検討を加えている。

まず精神障害の定義と分類から始まり、データに拠って触法精神障害者の実態が描写された後に(第1章)、精神障害者処遇の歴史を遡ることで刑法39条を支える思想の形成過程が辿られる(第2章)。既に良く読まれている芹沢一也の著作と併せて読むことを薦めたい。



次に、日本の精神保健福祉法と医療観察法の成り立ちと運用実態について詳細な解説が加えられる(第3章、第4章)。コンパクトな整理の意義もさることながら、触法精神障害者の処遇に関心を持つ諸論者から立場を超えた批判にさらされた医療観察法への比較的高い評価が注目されるところである。

臨床に携わってきた立場から人道主義的見解の「非現実性」や精神医学への誤解を正す終盤からは、さらに刺激的な収穫が得られるだろう(第5章、第6章)。特に39条との関わりでは、異なる立場の論者によって編まれた論文集と包括的な批判論を併読することで論点の理解と思考の深まりを一層期待できるはずである(併せて参照)。


個人的には、末尾近くで引かれている弁護士の証言がなかなか衝撃的であった。孫引きとなるが、一部を抜き出しておこう(209-210頁、強調は引用者)。

 例えば放火罪の場合は、放火罪は非常に立証が難しいんですね。現行犯でやらないといけない。現場近くでにやにやして立っている。あいつはいつも立っているなと。おかしい、捕まる。で、当然のことですけども、IQはぎりぎりです。五〇いくか、六〇いくかよくわからないけれども、簡易鑑定にかかるわけですね、大体、放火というと。ちなみに簡易鑑定は大体二五万ぐらいするんですけれども。放火だと割合と簡易鑑定というのはとりやすいという傾向があります。というか、大体とりますね。それをやりますとIQの値というのはぎりぎりが出ます。

 ぎりぎりが出たときに、じゃあ裁判所はどうするか。で、さっきの世間体の話をすると、放火罪で捕まえましたと、で、捕まえた人間を刑務所に送らないとたたかれるだろうと。一つはそういう恐怖心みたいなのを裁判所は持ちます。検察官も同じです。これは責任能力を争わないというか、そこを問題にしない方向で行こうという、一種の談合的なものが生まれます。

 じゃあ弁護側はどうするか。一応争うふりをします。ふりをしていて、僕がそうやったということを言いたくはありませんけれども。一応争うということをとったとしても、しょせん材料がない。じゃあどうすればいいかという方向が正直言って見えないのです。で、刑務所に行ってしまう。弁護人のほうはどうするかといったときに、さっき言ったのは、横でにやにやしているという状況で、もしかするとこれは無罪なんじゃないかというケースがあるのです、正直言って。責任能力がないという方向での無罪で争うことはもちろんあるんですけど。話を聞いていて全然支離滅裂なんですね、被告人の言っていることというのは。


本書全体の議論にふくらみを与えているのは、豊富な実例の描写である。触法精神障害者の処遇に関心を持つ人は多くないかもしれないが、被害者感情の重視に基づいて39条への批判が高まる一方で、現在の刑務所が居場所を失った精神障害者で溢れていることも知られるようになっている。裁判員制度もスタートした今、手元に置いておきたい一冊であることは疑いがなかろう。


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