Sunday, November 16, 2008

戦後アメリカの政治思想


  • 仲正昌樹『集中講義!アメリカ現代思想――リベラリズムの冒険』日本放送出版協会(NHKブックス)、2008年

  • 会田弘継『追跡・アメリカの思想家たち』新潮社(新潮選書)、2008年


米大統領選イヤーの今年はアメリカにまつわる書籍が多数刊行されたが、今回はその中で、戦後アメリカの政治思想ないし思想家に焦点を当てた上の二冊を採り上げたい。『集中講義』は、複雑な哲学的議論を一般向けに解り易く――かつ皮肉たっぷりに――解説する手腕に定評がある政治思想史家の書き下ろしであり、「自由」と「リベラリズム」を巡る様々な理論(フロム、ハイエク、アレント、ロールズ、リバタリアニズム、コミュニタリアニズム、ポストモダン思想、フェミニズム、多文化主義、ローティなど)の歴史的展開を、現実の政治や社会の動向との関連を明示しながら丁寧に解説している。

著者によれば、かつてアメリカはA.トクヴィルにその「非哲学性」を指摘され、長い間「アメリカ哲学」や「アメリカ思想」などの存在は無きに等しいものと考えられていた。ところが1980年代後半以降、フランス現代思想が有意な発展を見せずに衰退していくのと入れ代わりに、「アメリカ発」の哲学が世界的に幅を利かせるようになった。「アメリカ発」の哲学は、第一にアメリカ版ポストモダン思想としてフランス現代思想を独自に継承し、第二に分析哲学としてドイツ観念論を傍流へと押しやり、第三に本書が扱うロールズ以降の「正義論」として倫理学・政治哲学・法哲学を再活性化させた。これら「アメリカ発」の哲学は、社会主義の退潮とグローバリゼーションの進行とともに日本でも90年代から影響力を増しており、今や思想や哲学と言えば、まずアメリカの議論が参照されるようになっている。したがって、本書はアメリカ思想についての導入であると同時に、価値を巡る哲学全般への導入としても有用である。


ただし、『集中講義』はリベラリズムを議論の軸としているために、必ずしもアメリカの戦後思潮の全体をカバーできているわけではない。保守的な思想家を多数採り上げている『思想家たち』は、その補完として役立つであろう。『集中講義』が専門的な議論の変遷を中心に扱っているのに対して、ジャーナリストである著者の雑誌連載をまとめた『思想家たち』には、大学人のみならず、在野の思想家や宗教家、ジャーナリストなど多様な人物が登場する。そこで問題とされるのは学問的な理論の体系であるよりもむしろ、一般大衆や現実政治とより直接に結び付きやすい思想運動や言論活動が主である。タイトルからもうかがえる通り、本書は思想そのものと同等か、それ以上に思想家の生にも関心を寄せており、読み物としても楽しめる水準に出来ている(もっとも、その分だけ思想そのものへの踏み込みには物足りないところも少なくない)。

ロールズ(第7章)やノージック(第8章)も扱われてはいるが、中心となっているのは、伝統の存在しない若い国家アメリカで進歩への懐疑と伝統の重視を旨とするバーク的保守主義を「創造」したラッセル・カーク(第1章)をはじめとする、保守的な思想家たちである。カークに近い反近代的な思想家としては、非国家的な共同体の役割を重視するロバート・ニスベット(第9章)や、産業主義を敵視した南部農本主義者リチャード・ウィーバー(第4章)、やや立ち位置は異なるが戦後アメリカの保守論壇を代表する論客でレーガン政権誕生に大きく寄与したウィリアム・バックリー(第10章)、古代ギリシア哲学の解読を通じて近代への批判的視線を形成しているレオ・シュトラウス(第5章)などが扱われている。シュトラウスに代表されるような反近代的な視線を織り込みながらも近代的な価値を積極的に肯定する保守派としては、アーヴィング・クリストルとともにいわゆるネオ・コンサバティブの始祖とされているノーマン・ポドレッツ(第2章)と、単独主義的な軍事行動や介入主義的な価値観外交を積極的に推進しようとするネオコン第三世代(ロバート・ケーガン、ウィリアム・クリストルら)との微妙な距離感を見せる第二世代フランシス・フクヤマ(第11章)が採り上げられている。さらに、硬骨のジャーナリストH.L.メンケン(第6章)や、1920年代から30年代にかけて自由主義神学に抵抗して宗教右派の源流を作ったJ.グレシャム・メンチェン(第3章)にも章が割かれている。

佐々木毅は『現代アメリカの保守主義』(岩波書店(岩波同時代ライブラリー)、1993年)で、アメリカの保守主義者を(1)東北部の大企業などに足場を置く共和党エスタブリッシュメント(ウォールストリート保守派)、(2)中西部の小企業家などを中心とするオールドライト、(3)60年代後半から転向知識人によって形成されたネオコン、(4)黒人運動へのホワイトバックラッシュを契機に70年代初頭から若者を中心に活発な運動を開始したニューライト、(5)TVを通じた伝導と草の根の運動で70年代を通じて結束力を強めたキリスト教ニューライト(宗教右派)の5つのグループに分類している。『思想家たち』の中では、ゴールドウォーターの選挙戦(64年)を支え、レーガン政権を誕生させたバックリーが代表的なオールドライトの思想家であり、宗教右派の中心的な指導者であったビリー・グラハムとジェリー・フォルウェルは、ともにメンチェンの孫弟子である。カークら伝統主義的保守派は大衆的基盤を持っているとは言えず、オールドライト・ニューライト・宗教右派などと隣接しながらも、完全には重ならない位置を占めている。また、ポドレッツとフクヤマはネオコンに分類されるが、その思想的特徴が十分に把握されているとは言えないネオコンの来歴を詳細に描き、60年代後半から国内問題に限定して現実主義的なリベラル批判を展開した第一世代(N.ポドレッツ、A.クリストル、ダニエル・ベル、D.P.モイニハン、ネイサン・グレイザーら)と、そこに70年代後半からポール・ウォルフォウィッツやリチャード・パールなど外交問題のタカ派論客が合流することによって生まれた第二世代、レーガン政権を経てネオコンが保守派の主流と統合された後で登場し、第一世代の屈折を継承しない素朴な第三世代(ケーガン、W.クリストル、J.ポドレッツ、ディヴィッド・ブルックス、マックス・ブートら)の差異を提示する箇所は、本書の最大の読みどころの一つである。


折しも、バラク・オバマが大統領に当選を果たし、民主党が政権に復帰することとなった。イラク戦争の泥沼化によって既にネオコンの影響力は失墜しており、未曽有の金融危機の発生によって「新自由主義の終焉」がささやかれている。ある思想の「終焉」を安易に語ることは控えるべきであるが、30年程度続いたアメリカの思想潮流に重大な転機が訪れていることは確かであろう。ここで紹介した二冊は、過去を把握し、未来を推察する助けになってくれるはずである。

Sunday, November 9, 2008

かかわりあいの政治学3――出来事が持つ意味


(承前)


 個別の出来事が個別の出来事以上のものになることがある。直接には少数の人がかかわっただけの特異な出来事が、その特異性を維持したまま、その出来事が属する〈現在〉の全体を圧縮して代表することがある。日本の戦後史から例をとれば、連合赤軍事件がそのような出来事だったし、オウム真理教事件もそうであった。


大澤真幸「はじめに」大澤真幸編『アキハバラ発 〈00年代〉への問い』(岩波書店、2008年)、ⅴ頁


個別の出来事は、個別の出来事でしかない。それが個別の出来事以上のものに「思えるようになる」のは、出来事の外部からの視線が、出来事に何らかの「代表性」(ないし象徴性)を読み込むからである。「代表性」とは何だろうか。それは構成の代表なのか、利害の代表なのか、意思の代表なのか。「全体を圧縮して代表する」とは何だろうか。圧縮された全体が一個の事件によって代表されると言うことは、何も代表されていないということではなかろうか。その空虚な「代表性」の内部に、何でも好きなものを詰め込んで代表させて見せることができる、ということではなかろうか。「代表させっこゲーム」に興じる人々は、対象となる出来事を巡る言説に利害関心を持っているに過ぎず、出来事そのものに「かかわっている」わけでは、確かにない。


しかしながら、狭い意味では出来事にかかわっていない人間が、その出来事そのものに強い「かかわり」を持つことは、確かにある。TVを通して知る遠い彼方の出来事が、「自分のこと」としか感じられなくなるようなケースは、稀ではない。出来事から大きな衝撃を受け、深い悲しみの穴に落ち込む。あるいは出来事に激しい怒りを覚え、誰か/何かを強く憎む。そのいずれでもないにせよ、出来事に感情を揺り動かされ、出来事の行方に高い関心を寄せる。そうした人々は、その出来事に「かかわり」を持っていると言えるだろう。

もちろん、そこにも各人なりの「読み込み」が無いとは言えない。出来事についての言説に「かかわっている」人間と、出来事そのものに「かかわっている」人間との区別は、そうスッパリと付けられるものではない。それでも、スッパリと言えることはある。「個別の出来事が個別の出来事以上のものになることがある」とすれば――と言うよりも一層正確に言うなら:個別の出来事が「少数の人がかかわっただけの特異な出来事」に留まらず、それ以上の意味を帯びることがあるのは、それが何かを「代表」するからではなく、広い範囲の多数の人々と直接に結び付くからなのだ。


私は過去に、秋葉原無差別殺傷事件のような出来事について語ることは公的に必要なことではなく、「究極的には当事者にしか必要でない」ことだと述べた。そこで言う「当事者」とは、狭義の「かかわり」を持つ「少数の人」に限られるものではなく、それら「少数の人」と何らの接触も持たずして、図らずも出来事に「直接の結び付き」を持つことになった多数の人々を含み得る幅を備えた言葉である。より適切には、「関係者」と言い換えた方がよかろう。


この意味での「かかわり」は種類も程度も多様であり、「関係者」の範囲は無限に広がり得る。しかし、一般に認識される「当事者」が持つ狭義の「かかわり」と、「関係者」が持つ広義の「かかわり」の間に、自明な階梯が存在するわけではない。前者が後者よりも重視されるとすれば、それは何らかの社会的合意に基づくものであり、自然な序列ではない。社会の秩序は、その内外に存在する無数の「かかわり」の内で、何かを採り上げ、何かを打ち棄てることによって成立していく。だから、「かかわり」について掘り下げて考えることは、社会の構成を明らかにすると同時に、その組み換えの可能性に意識を向かわせる作業ともなる。

そのようなことを念頭に置きつつ、次回以降も細やかなことを考えていきたい。

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