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Tuesday, March 18, 2014

掲載告知: 「関係と制度――規範の存立において特別の地位を占めうる事実についての政治理論的探究」



  • 松尾隆佑 [2014. 3] 「関係と制度――規範の存立において特別の地位を占めうる事実についての政治理論的探究」『法政大学 大学院紀要』72: 49-73.


拙論が掲載された紀要が刊行されました.

今回の論文は,これまで同じく紀要に掲載してきた「権力と自由」,「理性・情念・利害」に続く概念論で,利害関係(stake)概念研究の「三部作」の締めくくりにあたります.

これらはいずれも2008年提出の修士論文の一部を再利用したものですが,特に今回の関係論については,以前ブログに連載したものの途絶した「かかわりあいの政治学」を違うかたちで完結させることが,当初の執筆企図にありました.

結果的には,その試みは失敗に終わったと思います.色々と模索はしてみたものの,思うようにはまとまりませんでした.

とはいえ,模索の過程が現われている散らかった駄文であればこそ,何か拾い物があるやもしれません.ご関心の向きにはご笑覧頂ければ幸いです.また,門外漢ながら法学的議論を大幅に扱っておりますので,専門家の方から誤りのご指摘など頂けると嬉しいです.

なお,この論文には一般的な意味で「政治理論」的な議論はほとんど出てきませんので,あしからずご了承ください.われながら,かなり謎な論文に仕上がっています.

目次と抜粋を以下に載せておきます.しばらくするとリポジトリでも公開されることと思いますので,その際には改めて告知いたします.

  • 目次
    • 1. 問題の所在――権利の言説と関係の概念
    • 2. 関係とは何か――意義・定義・類型
    • 3. 関係性と規範――法的権利義務の諸相から
      • 3. 1. 人格
      • 3. 2. 所有
      • 3. 3. 時効
      • 3. 4. 相続
      • 3. 5. 親族
      • 3. 6. 責任
    • 4. 制度の周縁――関係の言説は機能するか


  • 抜粋
 もっとも、意思決定に参与すべき当事者の把握が、本人体験性や関係によらずニーズ概念から一元的に為しうるとの立場から、当事者性概念(ひいては当事者概念)の分析上の意義が解体されるなら、紛争状況に分布する多様なニーズや、より広範な「利害関心interest」の比較衡量に基づいて自己決定権の絶対性も否定可能になるはずであり、そこでは関係のような曖昧な語を用いる必要はなくなる。「人工妊娠中絶や終末期医療をめぐる意思決定過程においては、家族や医療従事者その他のニーズないし利害関心も考慮されるべきである」などと述べればよいからである。また、意思決定過程において各主体の利害関心がどのように反映されているかを経験的に分析するためには、「権力power」概念を利用することが可能である。日常語としての関係から権力概念に還元しうる部分をも除くとすれば、なお残余の部分がありうるかは、ますます頼りない。
 したがって関係概念の分析は、同概念の意味内容に利害関心や権力には還元しきれない部分が存在し、かつそれが意思決定過程の分析において無視できない固有の意義を持つことを解明しながら進められる必要がある。そこで以下ではまず、デイヴィッド・ヒュームの考察を手がかりに関係概念固有の意味内容を見出し、さらに当事者研究における「環状島モデル」を参照することを通じて、この関係が意思決定過程において利害関心や権力に劣らない分析上の意義を有することを示す。その上で、これを新たに「関係性connection」概念として定式化・類型化することを図る(第2節)。次に人格、所有、時効、相続、親族、責任の六項目にわたって具体的法制度の存立根拠を検討しながら、そこにおいて関係性が重要な機能を果たしていることを明らかにする(第3節)。法的権利義務の存立において関係性が占める地位についての検討成果は、制度一般の存立をめぐる考察へと援用されることで、若干の理論的含意を導くであろう。それらを踏まえ、「関係の言説」が権利の言説に並立して用いられる可能性へのささやかな展望を行って、稿を閉じたい(第4節)。

※追記(10/6):リポジトリにて公開されました.

Monday, May 10, 2010

公訴時効廃止に何を見るべきか


先月末、重大な罪の公訴時効を廃止・延長する内容を含む改正刑事訴訟法および改正刑法が成立した。これに伴って全国犯罪被害者の会(あすの会)が発表したコメントによれば、今次の改正は「犯罪被害者の多年にわたる悲願」である。

だが、『法律時報』5月号で白取祐司氏が指摘するように*1、改正案の提出に先立つ法務省法制審議会刑事法(公訴時効関係)部会等での議論においては、公訴時効の存在意義にまで遡った根本的な討議が闘わされた形跡は薄い*2。今次の改正を後押ししたのは、そうした原理的なレベルでの刑罰観の修正であるよりも、むしろ犯罪被害者(遺族)たちの「声」に共鳴・共振する「世論の声」であり、政府側もその事実が法案成立の推進力であると公然と位置付けていた*3

多くの人々が公訴時効廃止・延長を支持した/していることには、もちろん本人の自発的感情も無視できないとはいえ、メディアを通じて表象される犯罪被害者(遺族)の感情に影響されたところが大きいと思われる。これは感情による選好形成という意味で、まさに「情念」に基づく政治過程の実例である。そして、ここで重要なのは、政治を動かす世論を形成する情念が、自分自身から発する以上に他者の情念に「共感」することで増幅された情念であるということだ。このように観察される社会的現象が持つ理論的意味は小さくないように思う。


さて、時効制度については当ブログでも何回か採り上げていて、2009年5月には時効廃止論議が進む中で「時効はなぜあるのか」を問い直したエントリを書いている。そこでは刑事・民事両面にわたって時効制度の根拠と機能を整理しているのだが、通時的な連続性の中で個人の人格同一性が相対化されていくとする比較的広く共有されていると思われる感覚と時効制度の存在を結び付けて考え、それにもかかわらず時効を排そうとする動きが出てきたことの由縁を簡単に考察してもいた。

この点はその後「社会の個人化と個人の断片化」と題するエントリで、多少敷衍してみてもいる。その部分を引いておこう。


でも、そういう個人の断片化みたいな話は理解しやすいんだけど、私が混乱するのは、その一方で時効制度への否定的見解が強まっているのをどう考えたらいいんだ、ということ。時効制度の有意義性を否定するということは、個人の通時的流動性を軽んじて統合性を重んじ、人格的同一性を絶対的に捉える立場に連なることを意味する。それは個人の断片化傾向と矛盾するではないか。この問題は結構前から気になっているのだが、あまりきれいな答え方はできそうにない。

時効制度への否定的見解が力を得ている背景については、既に一応「司法がより個人的な単位への応答性を高めることが要請される一方で、個人の通時的流動性よりも一貫性が重視されており、こうした事態の両面は、社会が本質化された個人の単位に完結した形で自己理解されるようになっているとの解釈可能性」を提示してみたことがある。

二つの傾向を整合的に理解するための一つの選択肢としては、ポストモダン的な流動性上昇というものは、あらゆる単位に対して、より小さな単位への離合・分解を迫るものだ、と考えることはできるだろう。それが(企業や家族を含む)社会に対しては個人化を、個人に対しては個別のキャラ/ペルソナ、あるいは刹那的な「意識」へとバラけていくことを促しているのだ、と(さらに原子化した個人は「本質化」に向かいやすいことでもあるし)。だから、内的には断片化(刹那化)しつつある個人が、対他的・対外的には統合的人格観を押し出すようになるのは、決して矛盾ではないのだ、と。


おそらくは、社会の個人化を背景にして個々の主体に結び付けられる属性が本質化される――個人の特性がある集団への帰属によってではなくその個人生来の「宿命」と見做される――ために、他方で主体は刹那性を増して一層細密に分節化された形で捉えられているにもかかわらず、いやむしろ、そのような刹那化が主体の通時的連続(存在)性を弱めたためにこそ、本質化された罪が過去の刹那と現在の刹那をショートして、今・此処の私たちの前に再想像される*4。そのように考えた方がよい。そこでは、法制の根拠となっていたはずの社会学的現実、積み重ねられた時間とその間の生活という現実が、もはや罪を終わりにするだけの説得力を持たなくなったのである。



参考




*1:白取祐司「公訴時効制度「見直し」法案への疑問」(『法律時報』2010年5月号(通巻1021号)、2010年4月27日)。


*3:法制審議会第162回会議 配布資料5「公訴時効制度に関する世論調査について」。

*4:このように考えると、宇野重規『〈私〉時代のデモクラシー』の議論とも接点を持つだろう。


Sunday, May 31, 2009

精神障害者をどう裁くか


良書である。既に多数の著作を持つ現役の精神科医が、とりわけ法に触れた精神障害者の扱いに焦点を当てながら、社会が精神障害者にかかわる仕方について検討を加えている。

まず精神障害の定義と分類から始まり、データに拠って触法精神障害者の実態が描写された後に(第1章)、精神障害者処遇の歴史を遡ることで刑法39条を支える思想の形成過程が辿られる(第2章)。既に良く読まれている芹沢一也の著作と併せて読むことを薦めたい。



次に、日本の精神保健福祉法と医療観察法の成り立ちと運用実態について詳細な解説が加えられる(第3章、第4章)。コンパクトな整理の意義もさることながら、触法精神障害者の処遇に関心を持つ諸論者から立場を超えた批判にさらされた医療観察法への比較的高い評価が注目されるところである。

臨床に携わってきた立場から人道主義的見解の「非現実性」や精神医学への誤解を正す終盤からは、さらに刺激的な収穫が得られるだろう(第5章、第6章)。特に39条との関わりでは、異なる立場の論者によって編まれた論文集と包括的な批判論を併読することで論点の理解と思考の深まりを一層期待できるはずである(併せて参照)。


個人的には、末尾近くで引かれている弁護士の証言がなかなか衝撃的であった。孫引きとなるが、一部を抜き出しておこう(209-210頁、強調は引用者)。

 例えば放火罪の場合は、放火罪は非常に立証が難しいんですね。現行犯でやらないといけない。現場近くでにやにやして立っている。あいつはいつも立っているなと。おかしい、捕まる。で、当然のことですけども、IQはぎりぎりです。五〇いくか、六〇いくかよくわからないけれども、簡易鑑定にかかるわけですね、大体、放火というと。ちなみに簡易鑑定は大体二五万ぐらいするんですけれども。放火だと割合と簡易鑑定というのはとりやすいという傾向があります。というか、大体とりますね。それをやりますとIQの値というのはぎりぎりが出ます。

 ぎりぎりが出たときに、じゃあ裁判所はどうするか。で、さっきの世間体の話をすると、放火罪で捕まえましたと、で、捕まえた人間を刑務所に送らないとたたかれるだろうと。一つはそういう恐怖心みたいなのを裁判所は持ちます。検察官も同じです。これは責任能力を争わないというか、そこを問題にしない方向で行こうという、一種の談合的なものが生まれます。

 じゃあ弁護側はどうするか。一応争うふりをします。ふりをしていて、僕がそうやったということを言いたくはありませんけれども。一応争うということをとったとしても、しょせん材料がない。じゃあどうすればいいかという方向が正直言って見えないのです。で、刑務所に行ってしまう。弁護人のほうはどうするかといったときに、さっき言ったのは、横でにやにやしているという状況で、もしかするとこれは無罪なんじゃないかというケースがあるのです、正直言って。責任能力がないという方向での無罪で争うことはもちろんあるんですけど。話を聞いていて全然支離滅裂なんですね、被告人の言っていることというのは。


本書全体の議論にふくらみを与えているのは、豊富な実例の描写である。触法精神障害者の処遇に関心を持つ人は多くないかもしれないが、被害者感情の重視に基づいて39条への批判が高まる一方で、現在の刑務所が居場所を失った精神障害者で溢れていることも知られるようになっている。裁判員制度もスタートした今、手元に置いておきたい一冊であることは疑いがなかろう。


Sunday, May 10, 2009

かかわりあいの政治学6――時効はなぜあるのか


承前


近年、刑事上の公訴時効制度について、その存在理由を疑問視する声が高まってきている。同制度については、犯罪被害者遺族の感情への配慮や捜査技術の発達などを背景として、2004年に公訴時効期間を延長する内容の法改正が行われたばかりである。それにもかかわらず、法務省は2009年1月から「凶悪・重大犯罪の公訴時効の在り方に関する省内勉強会」を設置し、制度の更なる改廃についての検討を始めている。5月3日には、公訴時効の廃止を求める「殺人事件被害者遺族の会(宙(そら)の会)」が初の全国大会を開催し、時効制度の廃止、進行中の時効の停止、時効成立後の遺族への国家賠償などを訴えている。

かように加速度的な状況の展開は目を見張るものがあるけれども、ここでは時事的な事柄について直接考えることはしない。そもそも時効なるものが、なぜ存在しているのかについてだけ、考えることにしよう。


法理論上、公訴時効制度を支えているのは、大きく分けて次の3つの根拠である*1。(1)時間の経過とともに犯罪の社会的影響力が失われ、犯人を処罰する必要性が消滅する(実体法説)。(2)時間の経過とともに証拠が散逸し、事件の解明が困難になる(訴訟法説)。(3)一定の期間起訴されなかったという事実状態を尊重し、その間に犯人が構築した社会生活上の諸利益を保護するべきである(新訴訟法説)。

本連載の第2回では、人格の同一性が相対的であるとの主張に少し触れた。D.パーフィットの議論を整理・敷衍している森村進が唱える「人格の同一性の程度説」によれば*2、人格の同一性は――記憶・欲求・信念・性格・意図などの――心理的状態の結び付きが弱まるにつれて小さくなるものであり、たとえ「同一人物」であっても、現在の人格と遠く離れた時点の人格とはある程度まで異なっており、その限りで別人格である。したがって、過去の行為に対する功績および責任の程度は、行為時の人格との心理的結び付きが密接な程大きく、希薄になる程小さくなると考えられる。現に、遠い過去の行為については責任が軽減されてしかるべきであるという発想――「昔の話だろ」「もう時効ということで」――は私たちの多くが共有しているし、公訴時効制度の根拠にも採り入れられているように思える。

3つの根拠の内で、時間の経過による人格の変容に伴って行為に対する責任も軽減されるとの発想と共通点を持つのは(1)である*3。(2)の理由だけでは証拠が存在すれば時効を認めなくてもよいことになるし、そこに(3)の理由を加えても、法定刑の軽重によって時効期間を区別している理由を十分には説明できない*4。それゆえ、刑事上の公訴時効の存在理由として(1)を外すことはできないだろう。つまり、時の経過とともに犯罪行為時点での犯人と現時点での犯人との同一性が失われていく、あるいは犯罪行為と犯人との「かかわり」が薄らいでいくとの認識に基づいて罪に対する罰を免ずることが、公訴時効制度の主要な要素なのである*5

パーフィット=森村的な主張に対しては、そのように考えるならば過去の行為の責任を問うことが不可能になってしまうとの批判が寄せられることがある。だが、多くの場合には過去の自己と現在の自己は部分的に心理的結び付きを維持しているし、自己にかかわる利害関心を大部分で共有している上に、社会的な観点からして著しく強い結び付きを有していると見做されている以上、人格の同一性が相対的であることを認めたからといって、責任制度が揺らぐようなことは考えられない。公訴時効の存在は、そのことの証明であるように思われる。


民事にも目を向けてみよう。4月28日に下された最高裁判決の影響を俟つまでも無く、一般に民事の時効と言えば、損害賠償請求権の行使についての除斥期間が言及されることが多い。しかしながら、民法にはこの他に取得時効と消滅時効が定められている*6。民事上の時効の存在理由も大きく分けて3つ考えられる*7。まず、(a)義務者(本来の権利者ではない者)を本来の権利者であると信じて取引した第三者を保護するなど、取引安全の保護および法律関係の安定を図るため。次に、(b)義務者といえどもいつ権利を行使されるか分からないという不安定な状態にいつまでも置かれ続けるべきではないという考えに基づき、義務者の利益を保護するため(「権利の上に眠る者は保護に値しない」)*8。最後に、(c)真の権利者を証明する困難を救済するため。

これら民法上の時効制度の存在理由は、公訴時効における(2)や(3)の理由と共通する部分が大きい。(a)には市民社会内部における私的自治を円滑にするための制度設計として民事法の特有性が認められるが、(b)は一定期間持続した事実状態の尊重という観点において、(c)は訴訟上の問題回避という観点において、それぞれ刑事上の公訴時効の存在理由(3)と(2)に対応する。ただし、一定期間継続した事実状態を理由として本来の権利者と事物との間の結び付きが薄れていくという発想においては、犯罪行為者と犯罪との間の結び付きが薄れるがゆえに公訴の提起が封じられると考える(1)とも共通性がある。

連載第4回で、対象とのより長い接触が権利的水準における優位を生み出すことについて考えた。そこでは権利的優位を生み出す「功績」が問題となったわけだが、他方ここで問題となっている責任とは、いわば「負の功績」である。犯罪者が権利を制限・剥奪され、処罰されるのは、犯罪行為に対する彼の「負の功績」(結び付き・かかわり)が、権利を失い義務を課されるに値する程度に達していると判断されるからである。すると、犯罪行為者と犯罪行為の結び付きが時の経過とともに薄れることを以て、公訴の提起を可能とする期間に制限を設ける刑事上の公訴時効は、民法上の取得時効や消滅時効において、本来の権利者が事物との結び付きが疎遠化した結果として権利を失うことと、相似的に理解できる。


別段私は刑事上の時効と民事上の時効が同じであると主張したいわけではないが、時効という文言に留まらない共通性を持っている以上、公訴時効や除斥期間ばかりを熱心に採り上げるだけではなく、取得時効・消滅時効にももう少し気が払われてもいいのではないか、とは思う。公訴時効の改廃論議では刑法上の刑の時効(有罪確定判決が言い渡された後で刑の執行を受けずに一定期間が経過した場合に刑の執行を免除する制度)との整合性が論じられることはあるが、民事上の時効との整合性はどのように考えられ得るのだろうか。事は単なる「正義の実現」に留まらない、権利の生滅にかかわる問題である。



*1:公訴時効は、犯罪行為終了時点から一定期間内に公訴が提起されないと、その後で被疑者が起訴されても有罪無罪の判断が行われず、免訴判決が言い渡される制度である(井田良『基礎から学ぶ刑事法』第3版(有斐閣、2005年)、222頁。福井厚『刑事訴訟法』第5版(有斐閣、2006年)、216-217頁。上口裕ほか『刑事訴訟法』第4版(有斐閣、2006年)、108-109頁)。

*2:森村進『権利と人格』(創文社、1989年)、第1部第5章。

*3:ただし、実体法説には二通りの解釈が可能なように思える。処罰の必要性が罪への非難に基づいていると解するなら、その論理は人格変容による責任軽減の考え方と結び付いていると言えるが、純粋に社会秩序維持の観点から「処罰の必要性」を解するなら、問題となるのは行為主体ではなく罪と罰の「社会的影響」のみであり、同説を人格の変容と結び付けて考える必然性は無かろう。そして、現今の制度改廃要求の主たる根拠を構成しているのは、前者の純然たる罪への非難(処罰感情)以上に、後者の「社会的影響」の中でもとりわけ被害者遺族等の処罰感情を考慮した「必要性」であるように思われる。そこでは司法がより個人的な単位への応答性を高めることが要請される一方で、個人の通時的流動性よりも一貫性が重視されており、こうした事態の両面は、社会が本質化された個人の単位に完結した形で自己理解されるようになっているとの解釈可能性を思わせる。

*4:罰すべき罪の重さと保護すべき犯人の利益の衡量に基づき、それぞれの罪に応じた時効期間が定められている、と考えることはできる。

*5:ただし、実体法説を中心に据える場合、処罰の必要性が無くなるのなら無罪にすべきなのに、なぜ免訴の形式を採るのかとの疑問は残る。

*6:民法上の時効制度は、所有権や債権など一定の財産権について、占有や権利不行使などといった事実状態が一定期間継続した場合に、それが真実の権利状態と一致するか否かを問わず、この事実状態に即して新たな権利関係を形成する制度であり、事実上権利者であるような状態を継続する者に権利を取得させる取得時効と、権利不行使の状態を継続する者の権利を消滅させる消滅時効とがある(山田卓生ほか『民法Ⅰ―総則』第3版(有斐閣、2005年)、200頁。四宮和夫・能見善久『民法総則』第7版(弘文堂、2005年)328頁)。

*7:山田前掲書、206-207頁。四宮ほか前掲書、328-331頁。

*8:財の効率的利用の観点から事実状態継続の利益を保護すべきとの主張も、ここに接合し得る。


Sunday, March 15, 2009

刑法39条について


もう2年半も前のことになるようだが、過去に「刑法39条を擁護してみる」というエントリで、触法精神障害者に対する刑罰の減免を定めた刑法39条への批判論をやや詳細に検討したことがあった。そこでの私の結論は、保安処分的拘束の問題性を避けるためには、あるいは同条を削除して精神障害を情状の一種として扱った方が良いのかもしれない、というものだった。今の私は当時よりさらに削除を容認する方向に寄っている気がするけれども、別に法改正まで踏み込むことはないかもしれない。芹沢一也さんの新刊『暴走するセキュリティ』(洋泉社(新書y)、2009年)には、精神科医の井原裕による極めて理にかなった提言が紹介されている(76-77頁)。



精神障害者に人権を認めるのであれば、当然責任も課していかなければならない。人権も認め、かつ、39条によって刑事責任免責の特権をも付与されるとなれば、国民の誰一人として納得しないだろう。今後、精神障害者の人権の尊重とともに、刑法39条は、その対象を狭めていくべきである。「精神障害」と呼ばれる人々のなかで、刑事責任を負えないほどに是非弁別の認知能力が低下している人は、一部にすぎない。大部分の障害者は、「二級市民」扱いされるべきではなく、刑法39条の埒外にある。しかし、だからといって、筆者は、単に厳罰化傾向を強めよというつもりはない。不幸にして認知機能の低下が著しく、是非の弁識が不能となってしまった障害者もいる。こういうごく一部の精神障害者に対しては、正しく刑法39条を適用しなければならない。〔井原裕「精神鑑定における精神科医」九七頁、『司法精神医学』三巻一号、日本司法精神医学会、〇八年三月〕



 このように主張する精神科医の井原は、さまざまな問題の根源となっている刑法三九条の適用に、厳しい謙抑を求める。代わりに、状況の検討や心理の道筋の解明など、鑑定人の作業の力点を、責任から情状に移すべきだと訴えるのだ。つまり、精神の障害を「二級市民」化の根拠にするのではなく、情状を考慮するさいに検討される、数多の要素のひとつにしようということだ。

 日本の刑事制度の現状にあって、筆者はこの提言がもっとも現実的に思われる。



芹沢さんのブログには、井原論文のサマリーが引用されている。せっかくなので、そこからも転載させて頂こう。


刑法39条は、乱用されがちである。被疑者・被告人のなかには、病気を演じる人もいる。弁護人によっては鑑定を「法廷戦略」ととらえている。鑑定人はしばしば責任と情状の区別がつかない。裁判官は、責任能力を、力と力の対決の渦中で判断することを余儀なくされている。現状の打開のために、鑑定人に可能な提案を2点。①39条適用(参考意見)において謙抑的に、②情状検討において積極的に、である。①39条適用には「謙抑性」が必要である。39条を適用すると、被告人に残存する人格性は否定され、通常の酌量減軽の埒外に置かれる。39条は「二級市民特別枠」にすぎず、安易な適用は「被告人の利益」にならない。②情状は、従来も鑑定において論じられていたが、しばしばそれが責任能力論に混入していた。ここに精神科医側の混乱、とりわけ「心神耗弱」乱用の元凶があった。今後は、参考意見の力点を、意識的に責任から情状に移すべきであると思われる。


なお、『暴走するセキュリティ』は、『論座』連載をまとめたものに萱野稔人との対談を収録して構成されている。また同著者については、藤井誠二『重罰化は悪いことなのか――罪と罰をめぐる対話』(双風舎、2008年)に収録されている藤井との対談も参照の価値が有る。

Monday, September 1, 2008

犯罪報道に実名など要らない


少年法第61条に関して、柔軟な運用を求める立場がある。要するに、少年犯罪でも場合によっては実名報道したってよいではないか、という主張である。


その論拠は大まかに言って3つ程あるだろうか。


(1)マスメディアには表現の自由が、国民には「知る権利」があるので、たとえ少年犯罪でも一律に報道を規制するべきではない。

(2)非公開となっている少年事件の詳細を知ることができれば、背景の分析を通じて、同様の事件を防ぐための社会的施策を取ることができる。

(3)実名を公表することにより、自分が行ったことに対する責任を少年に自覚させる(ことを通じて再犯の予防にも役立つ)。


私は「知る権利」などあるのか疑問に感じているし、事件報道などほとんど必要ないと考えているので、(1)と(2)に関しては非常に嘘臭く思えてしまう。


少年による事件であっても、加害者の情報をある程度報道することには反対しない。だが、ほとんどの事件において、わざわざ加害者の実名(や顔写真)を公表する必要は何ら存在しないはずである(被害者についても同様)。

主張者は、少年の氏名が「合理的な公的関心の対象となる場合」、表現の自由や知る権利と少年の利益を比較衡量した上で少年の氏名の公表が許容される可能性は、否定されるべきではないと言う(松井茂記『少年事件の実名報道は許されないのか――少年法と表現の自由――』日本評論社、2000年、131頁)。しかしながら、私には加害者の「氏名」そのものが「合理的な公的関心」の対象になる事態が、ほとんど想定できない(これは、成人についてもそうである)。辛うじて、加害者が凶器を携帯して逃走中である場合や、加害者が既に公知たる著名人である場合を考え得るに留まる。これら以外の一般の事件については、加害者の実名が重要であることは、まず無いと言ってよい。だから、報道しなくてよい。


ところが、主張者によれば、少年の氏名そのものに価値があるかどうかは問題ではないのだと言う。少年の住環境や家族構成、通学している学校や生育環境、犯行事実、その背景などについて報道を行えば、いずれ本人を特定することは可能になる。そのため、事件の詳細を知るために氏名それ自体は不可欠でないとしても、加害者の情報を報道することを一旦是とすれば、氏名の公表を禁止すべき理由は乏しいとされるのだ(松井前掲書、142頁)。

これは、論理になっていない論理である。特定可能な情報を伝えることと、特定情報そのものを伝えることは違う。たとえ結果的には特定され得るとしても、直接に氏名を公表しないことには意味がある。その他の情報をいくら報道したところで、氏名(や顔写真)を報道しなければ、周囲の人々には特定されてしまうとしても、社会一般の人々には特定されずに済む。固有名が流れてしまえば、社会一般からも特定されてしまう。この違いは大きく、「どうせばれてしまうんだから…」などという消極的な理由で実名を垂れ流してしまおうとする主張者の軽率さを示している*1


敢えて社会一般の人々に対しても特定情報そのものを流そうとすることの意味は何なのか。社会にとっては、犯罪の背景は重要であり得るとしても、個別の事件の犯人の固有名など、何の意味も持たないはずである。歴史に刻まれるような重大事件であっても、せいぜいイニシャルか仮名でよいと、私は思う(成人についても同じ)。

4人を射殺したとして1969年に逮捕された少年について実名報道を行った朝日新聞は、「事件の社会的意味が大きく、少年の人柄、育った環境などを詳しく報道しなければ事件の本質を解明できないと判断した場合は、氏名を明記、写真を掲載する方針」であると、当時の社告で述べている(高山文彦編『少年犯罪実名報道』文藝春秋(文春新書)、2002年、173頁)。見事なまでに意味不明な文章である。「事件の本質を解明」するために、なぜ「氏名」と「写真」が必要なのかが、全く説明されていないからだ。

なぜ、これ程までに「氏名」が重視されるのであろうか。私には、先の(3)に類する考え、とりわけ実名公表を通じた「社会からの応報」が必要だとする考えが根強いためではないかと思える。実際、今や少年は権利主体として尊重されるべきであり、パターナリズムから解放して自己責任の下に置くべきであるから、犯罪に際しては「保護」よりも「罰」を与えるべきであるとの認識を前提に(松井前掲書、212-213頁、高山前掲書、22頁)、社会による非制度的な応報/処罰機能を評価する見解が示されている(松井前掲書、ⅳ頁)。それならば応報が目的なのだと潔く述べればいいと思うのだが、必ずしもその意思が明らかにされないために、分かりにくくなっている*2。そういうことなのだと思う。


*1:松井によれば、社会的に重大な事件に関する公共的な討論が意味あるものとされるためには、十分な事実が報道されなければならず、そのためには「どうしても少年の氏名は明らかになってしまうものである」(松井前掲書、151頁)。かくも無邪気に必然性が偽装されていることに、驚きを禁じ得ない。

*2:松井は性犯罪について書いた本でもそうだったが、最初から自らの立場が明確でありながら、ある程度まで中立を装うように書くので、非常にうっとうしい。あと、この人は文章が下手だよな。繰り返しが多いし。いや、本自体は情報として勉強になる部分が多いけども。


Saturday, August 16, 2008

続・「刑罰は国家による復讐の肩代わり」という神話


未だ当たっておくべき文献は残っているのだが、もとより論文を書くわけでもないし、それなりに文献を渉猟する中で既にある程度言えることも出て来たので、ひとまず書いておくことにしよう。なお、本エントリは以下の二つのエントリの続きとして書かれるので、予め参照を乞いたい。





「国が仇を討ってやるから、勝手にやるな」



まず、全国犯罪被害者の会で代表幹事を務める岡村勲の手になる文章の一節を引いておきたい*1


 人問誰しも犯罪、特に重大な犯罪の被害者や遺族になれば、加害者に対して応報感情を持つのは当然だ。

昔は「仇討ち」という制度があった。殺害された被害者の近親者は、休職して仇討ちに行く。捜査費用は本人持ちだ。首尾よく目的を達して帰国したら、武士の鑑として賞賛され、復職する。途中の艱難辛苦に堪えかねて、脱落した者もいたろうが、それはともかく被害者の応報感情を満たす道は開かれていた。この制度は明治になっても続き、同15年公布の旧刑法で禁止となった(石井良助『大系日本史叢書4法制史』314頁)。私的制裁を許すと法秩序が保てない、国が仇を討ってやるから、勝手にやるな、ということだったのだろう。


注目したいのは、最後の一文である。「国が仇を討ってやる」との「契約」が国家と国民の間に交わされた事実の存在を裏付ける根拠は示されていない。そのような「契約」は、あくまでも岡村の想像の中に在るに過ぎない。これまで私たちは、岡村同様に「契約」の存在に注意を促し、「だから」国家による刑罰は被害者による復讐を肩代わりする装置として在るのだ、との語りを多く耳にしてきた。だが、思えば奇妙なことに、そのような「契約」の存在が明示された例は聞かない。それは、実際には「契約」など存在しなかったからではないのか。私にこのエントリを書かせている中核的な疑念は、このようなものである。タイトルに据えられている言葉も、そのような意味を持つ。

この出発点を忘れないで欲しい。つまり、私の関心が最も強く向けられているのは、近代化に伴って刑罰権を回収していく国家が、犯罪の被害に遭った者による復讐の代行を引き受けるような姿勢を明示的/黙示的に採ったという歴史的事実が確認できるかどうかなのである。そのような事実が確認できるのならば、「だから…」と主張されることには裏付けがあると認められる。逆に、そのような事実が確認できないのならば、当該の言説は神話を拠りどころにしていると判断せざるを得ない。最終的に私は(前回に引き続いて)後者の立場に傾くことになるのであるが、そうした結論に至るまでの道程を以下で順に辿っていこう。


日本刑事法制史の中の復讐



ここでは、日本における刑事法の歩みと各時代の特徴を、かいつまんで押さえておきたい。


上代・上古における「つみ」とは、神に対して「包み/慎み」隠さねばならないような、神の忌み嫌うもの・神聖を害するものの意味であり、その内容には悪事・悪行の他に疾病・不具・災厄・災難・醜穢なども含まれていた*2。「つみ」に対しては、それによって生じた「けがれ」を「はらふ」ことによって、神の怒りを鎮めなければならない*3。かくのごとく当時の犯罪観は宗教的なものであり、「犯罪者」に対して行われるのは今あるような刑罰と言うよりも、宗教的儀式としての「はらへ」であり「みそぎ」であった。

その後、律令制が整備されて以降には、儒教的道徳が犯罪観の基盤を成した。刑事政策の眼目は道徳的秩序の維持・回復に据えられていたから、一般予防のみならず、犯人の教化などを通じた特別予防も重視され、その両方が刑罰の目的であった。また、刑罰は公権力が行うものとする公刑主義が採られていたため、私刑は当然に制限されていた*4

鎌倉期に入ると、刑罰の目的として一般予防に重点が置かれるようになる。その背景には、律令制を支えた儒教的道徳から武家社会を支配する封建的道徳へと、刑事政策の基盤が移ったことがあろう。犯罪者の内面を顧慮する姿勢を保つことは、武断的色彩が濃くなるにつれて困難になるのだろうか。室町期から戦国期へと、時代を下るごとに一般予防主義への傾きは強くなっていくことになる*5。戦国期に喧嘩両成敗法が登場するのも、このような文脈の中でのことである*6。室町期に至る武家政治においても公刑主義は変わらず、私刑・敵討は禁止されていた。戦国期も同様だが、この時期に部分的ながら敵討を許容する例が現れ始め、それが徳川幕府の採用するに至って、江戸期の敵討公許制が形作られることになる*7

江戸期においても公刑主義が原則であり、一般的には私刑は禁止されているのであるが、所定の手続きを経て幕府の許可を得る限りで、親や兄などの敵を討つことが許された*8。以前のエントリで私は、敵討を為し得たのは基本的に武士階級の者だけであっただろうとの推測から、日本においても私的刑罰権が承認される範囲には階層的な限定性があったのではないかと想定を示した*9。現に、敵討は「主として武士につき」認められた制度であるとの解説もあるが*10、他方で庶民もほぼ同様の手続きを通じて敵討が可能であったとの伝もある*11。後者によれば、庶民による申請は容易に許されなかったものの、江戸末期においてはむしろ庶民による敵討の方が多くなったとされるので、日本における復讐の階層的限定性はあまり強くなかったのであろう。なお、江戸期においても一般予防が刑罰の主目的と見做されていることは変わらない*12

明治3年に制定された「新律綱領」には、「闘殴律」なる条文が見られる。これは、祖父母ないし父母を殺された者が敵討を行って犯人を殺すと笞50の刑に処するけれども、現行犯の時点で犯人を殺して官に告げれば罪を免ずるという規定である。明治6年2月の37号布告が復讐を禁じたことによって同条文の免罪規定は廃されたが、反発が大きかったのであろう、同年4月の122号布告で復活を見た。敵討を許容する規定の全廃は、明治13年公布(15年施行)の旧刑法の制定による*13。この時ようやく、近代国家的な刑罰権の独占が完成したと言えよう*14


敵討の「違法」性



以上は、日本法制史学の主流的見解である。ポイントは、ひとまず二点ある。第一に、刑罰の目的は一貫して一般予防を主としていること。つまり、歴史的に見れば、刑罰は常に何らかの意味での社会秩序の維持・強化のために科されてきたということである。第二には、敵討が制定法によって認められていたのは、江戸期とその前後の短い期間に留まること。中世においては復讐が自由だったと言うのは、それこそ神話であるに過ぎない。

もっとも、第二点については『喧嘩両成敗の誕生』を著した清水克行の反論がある*15。清水は、敵討を公権力が公認していた事実は「近世以前の日本ではほとんど確認できない」と述べて、敵討が制定法の上では禁止されていたことを認める*16。だが、社会通念としては敵討が「違法行為」であるとは考えられていなかったし、現に室町政府内には父祖の敵討を無罪とする判断を示す者が現われていることが確認できると言う*17。清水の記述によっては室町期以前の「社会通念」がどうであったのかは不明であるが*18、「現存する公権力の制定法がいずれも敵討を禁止しているからといって、それが必ずしも中世社会全体の中で敵討が違法行為であるとみなされていたことの証拠にはならない」との主張は確かに正しい*19。正しいのだがしかし、それは「戦後の法制史学の最大の誤り」と言うよりも、法制史研究の射程ないし範疇をどこまでに設定するかという方法論上の問題と見るべきだろう。

無論、清水が指摘するように、公権力による制定法に限らず社会内に存在している多元的な法慣習に着目することは重要であるが、「法制史」なるものを描く場合に、多元的な法慣習にまで目配りをすることがどこまで可能であり、どこまで目指されるべきなのかは、簡単に答えが出せる問題ではない。「もっと目配りをするべきだ」との主張なら受け容れ易いが、目配りをしていないから事実認識としても間違えていると主張するなら、粗雑に過ぎるだろう。憶測を含むことになるが、「戦後の法制史学」は多分、敵討が制定法上は長く認められていなかったことを記述してきただけで、「だから敵討は現実にも行われていなかった」とまでは言っていなかっただろうから、いわば強調点の相違が在るに過ぎない。少なくとも私は、公権力による制定法と社会内の法慣習を同水準で扱うべきだとは考えないし、それゆえに多元的な法慣習の中で認められていたから敵討が「違法」であるとは考えられていなかったとの主張に対して、すんなりと首肯する気にはならない。社会内の法慣習は、実定法によって採用されている部分を除けば基本的に実定道徳と見做すべきであり、その道徳――広い意味での「法」――に適っていることと、実定法――「法律」や「法規」――によって認められていることは最低限区別が必要である*20

だから、近世以前の日本においては敵討は制定法上は違法であったけれども、現実には社会内部の様々な法慣習に基づきながら盛んに行われていた。そう言えばよいだけである。前回のエントリでは農民からフェーデの権利が剥奪されていった中世ヨーロッパの歴史を書いたが、現実には禁止されたフェーデを農民が行うケースはしばしばあったという*21。かくのごとく現実は多面的であるが、しかし制定法への違背が存在するからといって制定法の存在が直ちに無意味になるわけではないのであって、その内容をそれとして捉えておくことは軽視できることではない。したがって、江戸期目前に至るまで敵討が公権力には認められたかった事実の意味は――加えて、公権力の許可を得ない敵討が認められたことはないという事実の意味も――、小さくならない。


中世における復讐の意味



ヨーロッパについての話が出たところで、前回のフォローの意味も込めて、このまま少し舞台を移そう。

古代から中世までのヨーロッパにおける復讐の主体になったのはジッペ(氏族)であり、個人ではなかった。個人に向けられた攻撃は、ジッペ全体への挑戦と見做され、加害者側のジッペとの私闘=フェーデを引き起こす。フェーデを行うことは単なる権利であるだけではなく、義務でもあった。その際に問題になるのはジッペ全体の名誉であり栄光であったから、被害者本人やその家族/遺族の感情はあまり重要でなかったと思われる。実際、フェーデにおいて標的とされるのは加害者本人であるよりも、相手方のジッペにおける主だった者や、被害者と同等の地位にある人間であった*22

また、宗教上の犯罪や、夜間の窃盗、放火、強姦などの「破廉恥罪」のように国家や人民全体の法益を損なうような特別な違法行為(アハト事件)に対しては「平和喪失」が宣言された。これは加害者が法の外に放逐されることを意味し、以降、彼は単なる「狼」として追い立てられ、狩られる対象となる。誰もが彼を殺してもよい、と言うよりもむしろ、「狼」は狩らねばならないとされるのである。平和喪失者については、その殺害を妨げるべく彼の氏族が保護を与えることは許されない*23。アハト事件とは、フェーデが許されない種類の犯罪なのであり、それゆえに国家的刑法の萌芽とされる*24

アハト事件において問題となるのは、社会秩序の毀損である。犯人は国家および人民全体の敵と見做されることになるが、それは毀してはならない秩序を毀したからである。犯人が法の外に置かれてジッペの保護も失い私刑の対象とされるのは、社会秩序に対する重大な毀損を行った者を社会全体の敵として適切に処理することによって、社会内の秩序を回復するためである。その際、犯人に対する刑の執行は、宗教的儀式の性格を帯びている。すなわち、社会の構成員が共同して犯罪者を処理する儀式を通じて、社会秩序が回復されたとの見做しが行われる。そのような機能が働いていると考えられるだろう*25。だとすれば、これはいわば「社会からの復讐」、すなわち応報としての刑罰の現れであると見做せることになる。

以上のような中世ヨーロッパ事情から、中世における復讐の観念が、現代の私たちとはやや違った意味合いを持っていることがうかがえる。その違いを端的に言えば、現代の復讐観念は(近代化を反映して)個人単位であるのに対して、中世の復讐観念は集団単位、共同体単位である、ということである。そして、この点については、日本も概ね同様のことが言える。中世日本社会に見られる「衡平感覚」「相殺主義」は*26、中世ヨーロッパと似ている。敵討において重視されるのが相互の共同体の名誉である点も、敵討の標的にされるのが加害者本人であるよりも被害者と同等の地位にある者である点も、フェーデと同じである*27。そこでは、被害者本人やその家族/遺族の感情は置き去りにされることが少なくないし、加害の事実がどうであったかや、加害者が誰であるのかといった事実なども重視されないことがある。つまり、中世における復讐は、被害を受けた個人のためにあるのではなかったし、復讐を為し得る権利が帰属するのは個人であるよりも彼が帰属する共同体であった。このような事実を無視して、近代的個人主義を前提とする現代の私たちが、「中世においては復讐が認められていたが、国家がその権利を奪った」と語り、国家が無ければあらゆる個人の手に復讐の権利が渡っているはずであると想定するのは、現代的眼差しから過去を錯視するアナクロニズムと言わざるを得ない。


「刑罰は国家による復讐の肩代わりである」と語ることの意味



長い論述になった。強調しておいた出発点を覚えているだろうか。問いはこうだった。歴史的に見て、近代国家が刑罰権を独占するにあたって国民に復讐の肩代わりを約束したという事実は確認できるか。答えは、「確認できない」。それは日本の刑事法制史を辿って見せた段階で既に明らかだった。統治者はただ淡々と、復讐を禁じ、私刑を廃しただけである。制定法を見る限りは、そうとしか言えない。

しかし、社会内部の実定道徳としては敵討が許容されてきた長い歴史が在るし、直前の江戸期においては公権力も敵討を容認していたのであるから、被治者の側に「復讐を禁じるなら、国家が代行してくれなければいけない」との強い要望が広く存在していたことは想像するに難くない。だから、「刑罰は国家による復讐の肩代わりである」との見解が現代まで引き継がれて流通していることには、それなりの理由があるとは思う。とはいえ、制定法の意味を軽視できないことは強調した通りであるし、現に「契約」は見出せないのであるから、そうした言説はやはり神話なのである。

私が「刑罰は国家による復讐の肩代わりである」との言説が神話であると指摘するのは、そうした言説を語ってはいけないということを意味しないし、言説の内容そのものを論駁したことにもならない。歴史的にはともかく、「刑罰は国家による復讐の肩代わりである」べきだ、と主張することは妨げられないからである。私が示したのは、例えば岡村が想定しているような「契約」は歴史的に確認できないので、「契約」の存在を前提としながら「だから刑罰は…」と語るなら、それは妥当しないということに留まる。歴史的事実においては「刑罰は国家による復讐の肩代わり」として措定されたことはないが、規範的主張の一つとして「刑罰は国家による復讐の肩代わり」であるべきだと主張するのは自由である。ただ、その主張が歴史的裏付けに支えられない独立した主張であることについての認識を求めたい*28



*2:石井良助『体系日本史叢書4 法制史』(山川出版社、1964年)、25頁。大久保治男・茂野隆晴『法律学全書8 日本法制史』(高文堂出版、1983年)、34頁。

*3:石井前掲書、26頁。大久保・茂野前掲書、38-39頁。

*4:石井前掲書、73頁。大久保・茂野前掲書、90-91頁。

*5:石井前掲書、137-138頁。大久保・茂野前掲書、159-160頁。

*6:石井前掲書、138-139頁。大久保・茂野前掲書、168頁。

*7:石井前掲『法制史』、213頁。石井良助編『法律学演習講座 日本法制史』(青林書院、1959年)、285-286頁。

*8:石井前掲『法制史』、213-214頁。大久保・茂野前掲書、227-230頁。石井編前掲『日本法制史』、286-287頁。

*9:このような想定は、岡村の文章を見ても、決して特異でないことが分かる。だが、復讐を為し得たのが武士階級だけであったとするなら、近代において国家がその権利を剥奪したからといって、なぜ国家が国民全体について復讐の肩代わりを引き受けなければならないのだろうか(前回のエントリにおいて私が階層的限定性に注意を促した意味はどこまで理解されたのだろう)。岡村においては、この論理的齟齬が齟齬と見做されていない。もとより、この国では誰もが無根拠に特権的階級(サムライ!)の末裔の心づもりで居るのだ。

*10:石井前掲『法制史』、314頁。

*11:石井編前掲『日本法制史』、287頁。

*12:牧英正・藤原明久編『日本法制史』(青林書院、1993年)、147、225-226頁。

*13:高柳真三『日本法制史(二)』(有斐閣(有斐閣全書)、1965年)、198頁。石井前掲『法制史』、314-315頁。

*14:川口由彦『新法学ライブラリ‐29 日本近代法制史』(新世社、1998年)、160頁。

*15:同書をご教示して頂いた「とおりすがり」さんに感謝する。

*16:清水克行『喧嘩両成敗の誕生』(講談社(講談社選書メチエ)、2006年)、37頁。

*17:同、37-39頁。

*18:同書を読む限り、清水は室町期の事例のみを語りながら日本中世の全体像について描こうとする無理を為しているように見える。

*19:清水前掲書、40頁。強調は原文傍点。

*20:私は、法についての認識態度において法実証主義に与する。

*21:ハインリッヒ・ミッタイス『ドイツ法制史概説』(世良晃志郎訳、創文社、1954年)、323頁。

*22:ミッタイス前掲書、43-44、46頁。阿部謹也『刑吏の社会史』(中央公論新社(中公新書)、1978年)、42-43頁。

*23:例外はある。

*24:ミッタイス前掲書、44-47頁。阿部前掲書、44-45頁。

*25:阿部前掲書、95-96頁。

*26:清水前掲書、119頁。

*27:清水前掲書、169頁。

*28:こうした規範的主張を打ち出したい者が、それでも何らかの裏付けを得ようとして採る方法は幾つか考えられる。社会契約説的な論理を援用するのも、その一つであろう。それについては以前に検討し、否定的な評価を与えたが、おそらく今回の論述はその評価を補強しているはずである。詳細については、また機会があれば検討して述べることにしよう。


Monday, July 7, 2008

「刑罰は国家による復讐の肩代わり」という神話


さて、藤井誠二『殺された側の論理』(講談社、2007年)に収録されている座談会で、小宮信夫が「中世の時代は被害者に復讐する権利や決闘という方法」があったけれども近代国家になると被害者からは力が奪われて、「当初は被害者の代わりに国が復讐する役割をして」いたが「いつの間にか国は秩序を乱すという理由で加害者を罰するというようになった」と発言している(252-253頁)。これは「被害者及び死刑」でも取り上げたように、しばしば見られる見解なのであるが、果たして小宮はどういった根拠に基づいて言っているのであろうか。仮にも犯罪社会学者という専門家の言うことであるから無根拠であるはずがなかろうと思うが、とりあえず自分なりに確かめられる部分は確かめようと思い、法制史の教科書をところどころ読み直してみた。



細かい部分まで詳述することは避けるが、この本にある記述を読む限りでは、国家による刑罰が被害者による復讐を肩代わりするものとして成立した歴史的事実は見当たらない。


確かに元々、ゲルマン社会では「通常の窃盗、姦通、傷害、公然たる殺人などの事件」は「親族の復讐または訴訟に委ねられ」ていた(47頁)。この「全自由人に許された、親族集団相互の血讐」を「フェーデ」と言うのだが、この権利はしかし、身分制社会の成立とともに、騎士と都市共同体のみに限定され、一般の農民からは剥奪されていったという(108頁)。同じ頃から、フェーデは従来の意味を越えて、騎士に認められた広範な私戦権を指すようになり、無軌道なフェーデの横行によって、治安秩序が乱されるようになった(108-109頁)。そこで、12世紀以降のドイツ皇帝は、恣意的なフェーデを抑止しようと幾度か「ラント平和令」を定め、規定への違反を処罰の対象とした(111-112頁)。これがヨーロッパにおける公権力による刑罰の明示的な起源であるとされる。15世紀末には、領邦君主らと諸都市との闘争が生み出す無秩序を改善するため、フェーデの全面禁止を定めた「永久ラント平和令」が発布され、国家による私戦権の回収が進んだ(171、73頁)。


少なくとも以上の流れを追う限りでは、国家による刑罰はその最初期においても被害者による復讐を代替するものではなかったようだ。むしろ始めから、刑罰は社会全体の治安維持という一般的法益を確保する目的のためにあった。そう言わざるを得ない。そもそも、中世においては復讐が自由だったという事実そのものが、きわめて限定された階層についてのみ言えることでしかない。日本について詳しいことは分からないが、似たようなことを言える部分はあるのではないか。


国家による刑罰の独占は、元々被害者に認められていた復讐権を剥奪した結果であるから、刑罰は復讐の代替として在るものだし、そう在るべきだ。このような言説が、まことしやかに語られてそれなりの時が経過している。私は以前にその思想史的な根拠について疑問を投げかけたが、今回は法制史的な根拠も薄弱ではないかとの疑いを提起した。無論、私は素人であるから確言することは避けたいのだが、思想史的にも法制史的にも明確な根拠が見当たらないように思える以上、「刑罰=国家による復讐の肩代わり」という言説は、要するに神話の類なのではないかという印象を強くしている。




被害者が負うもの・負わないもの


藤井誠二が犯罪被害者に密着し過ぎていることは既に明らかだが、この本の第1章での本村洋への同一化の程度は甚だしい。私は別にそれを批判しようとは思わないけれども(藤井は研究者ではない)、ノンフィクションライターとしても結構ギリギリの線を歩いているような気がする。

タイトルが示す通り、本書は「殺された側」に固有の論理があるという前提で編まれている。だが、ざっと読んだ限りでは、その論理を彫り出して見せようとする藤井自身がどういう立場性で以て、どのような「論理」あるいは「倫理」で以て「殺された側」の論理に寄り添っているのかが、ほとんど語られていないように思う。そういう観点からすると、書かれている内容に賛同するかどうかとは別のところで、作品としての本書は完結性を得ていないと言うか、不十分な面が大きい。題された強い言葉を、内容が消化しきれていないという印象を受ける。


「殺された側の論理」がどのような内実を持つものなのか、それ自体も整理された形で提示されているとは言い難いが、目を留めざるを得ない興味深い記述は在る。特に私が強い印象を受けたのは、とにかく「罪」に対して「罰」が下されればよいのだ、という徹底した応報観念だった。


 この流れをどう受け止めるかは立場や思想によって考え方があるだろうが、被害者遺族は一貫して罪に見合った罰を求めているのに対して、「殺した側」が「更生の可能性」を持ち出してきても一方通行になってしまう。

 なぜならば大多数の遺族にとって、加害者の「更生」は(するにこしたことはないが)二の次三の次の問題であって、かつ「真の」更正など期待はしていないのである。もっと言えば「どうでもいいこと」なのだ。私は100家族以上の犯罪被害者遺族の方々に会ってきたが、これが遺族の心情であると断言することができる。

 更生しようが、しまいが、やった罪に対するフェアな罰を望んでいる。更生しているから減刑してもいい気持になるのではないかとか、寛大な処分を司法に求めてもいいという心情になるのではないかというのは、勝手な第三者の想像である。


[45-46頁]


「[地下鉄サリン事件の被害者遺族高橋シズヱの発言]……加害者が反省しているかどうかなんて裁判官にわかるはずがない。どんな犯罪をなしたのかという、事件時の加害行為だけを見て裁いてほしい。……」

[中略]

 2006年、東京高裁は控訴趣意書を期日までに提出しないことを理由に、首謀者・松本智津夫の公判を打ち切り死刑が確定したが、弁護団の主張通りに裁判を引き延ばしていたら、いったい何年かかったのだろうか。だが「事実」を知るということは、社会のためにも必要なことだと私は思う。

 しかし、殺された側から見れば「加害者の本当の気持ちや動機」など知りたくもない場合が多いし、とくに「反省の心」など信用できるはずがないのも当たり前である。

 そもそも加害者の「心」の読み合い合戦をしたところで誰かに真実がわかるのだろうか、という意見ももっともだと思う。それこそが裁判を長引かせているのだ、と。この命題と被害者の権利をどう両立させればいいのか。議論を尽くす必要がある。


[214-215頁]


犯罪の「理解」から、端的な処罰へ。その是非は措くにしても、こうした流れが強いものとなっていることは明らかであろう*1。本書の各所で表明される精神障害者の不可罰ないし減刑を定めた刑法39条への厳しい視線も、この流れと一体である。


ところで、「私は100家族以上の犯罪被害者遺族の方々に会ってきた」から、「これが遺族の心情であると断言することができる」と述べられることは、看過できることだろうか。藤井は、死刑の維持と執行は犯罪被害者遺族共通の望みであるかのように語る中で、犯罪被害者遺族でありながら死刑廃止を訴える原田正治を「例外中の例外である」と断じる。そのような被害者や遺族は「ごくわずか」であり、「100家族以上の被害者遺族を取材した経験がある私は、そのような方にじっさいにお目にかかったことはない」、と(217頁)。何だ、それは。率直に言って、私はイラッとした。犯罪被害者が抱える何らか固有のものを抽出しようとする際に、紛れもなく犯罪被害者の一人である人物の経験と立場を、「例外」の一言で簡単に排除することが許されるのか。「殺された側の論理」を提示する作業とは、多数派の犯罪被害者の立場を一般化して押し出すことを意味するのだろうか。それは身勝手な「第三者の想像」よりも幾分かマシかもしれないが、果たしてどれほどの違いがあるだろう。「100家族以上の犯罪被害者遺族」に会ってきた経験を過小評価するつもりはないが、それが何の保証になるわけでもない。原田のような例外に「お目にかかったことはない」と言う。それでは、原田に会いに行けばよい。なぜ、会わないのか。ここでは、そのことを問わざるを得ない。


少し脱線(?)した。最後に、個人的に最も重要だと感じる点を引いておく。


 仮に「償う」という行為があるとしても、それは殺された側と殺した側の何らかの形での交わりを意味する。それははたして安全なのか。安全は誰が保証するのだろうか、両者の間に介入して調整をする立場の人間はいるのか……。

 加害者が「生きて償う」ことは、殺された側にとってみれば高いリスクを伴うことだということを、私たちは想像してみるべきなのだ。


[220頁]


そう、当事者同士が直に接触することには、大きなリスクが伴う。例えば自力救済としての復讐にせよ、返り討ちにされるリスクは小さくない。裁判という仕組みは、一面ではそういったリスクを縮減する機能を果たしている。確認するが、「裁判」とは、当事者間の紛争に対して第三者的な立場から公権力が裁定を下すことである。国家が裁判を行って加害者を罰するのなら、そうでない場合と比べて被害者が行うことは少ない。被害者が負うリスクも、小さくなる。国家が行う「裁判」なる仕組みの中で被害者の権利を拡充し、また被害者の望みを判決に反映しようとすることは、被害者のリスクを小さく保ったまま、「得られる」ものを最大化しようとすることになる。それが悪いと言いたいわけでは、必ずしもない。ただ、そうした流れの先では国家の影響力がずっと大きいままに保たれ、当事者/利害関係者を主体とした紛争解決という方向性での可能性は育たないだろうな、と。そう思うのである。


以下、参考まで。


被害者及び死刑

http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20071206/p1

死刑の非論理性、または「罪を憎んで人を憎まず」の(不)可能性について

http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20080224/p1


*1:以前、「何も解らないまま麻原を死刑にしてもいいのか」との問いに答えた江川紹子が、「もう十分だ、事実が解明される望みが薄いのにこれ以上時間をかける意味はない」という趣旨のことを述べていたのを思い出した。


Tuesday, March 4, 2008

死刑の現在性



浜井浩一「死刑という「情緒」の前に データでみる日本社会の実情」

芹沢一也「犯罪季評 ホラーハウス社会を読むcase8 変容する権力と死刑の関係」


既に先月号になったが、『論座』2008年3月号から、死刑についての論考二本。
この内、芹沢の連載では、近代以降の死刑の変質を、①矯正を主たる目的とする近代的刑罰観の確立とともに、死刑の存在役割が「矯正不可能な者」を消去する作業に移行していったこと、②それゆえに死刑の執行が公開の場から閉ざされた密室への「退行」を余儀なくされたことによって*1、特色付けている。これは丸々フーコーの描いた図式を用いたもので、以下で採り上げたような宮崎哲哉の発言の補足として読まれるといいだろう。


被害者及び死刑

http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20071206/p1


矯正不可能だから殺そう、と言うのは、まさしく「死の中に廃棄する」ような権力の働きである。前のエントリで私は罰を「二度と罪を犯さないようにする」ための処置であると定義≒解釈し、そうした前提に基づいて死刑を自己破壊的な刑罰と断じたが*2、これに対しては次のような反論が可能かもしれない。曰く、矯正不可能な犯罪者(異常者)に対しては、二度と罪を犯さないようにすることが「できない」のであって、仮にこれを死刑とせずに収監して矯正の対象としても、矯正が完了してはじめて釈放され得るという論理に従えば、彼は結局死ぬまで釈放されないだろう(実質的終身刑)。「結果」が同じならば、最初から死刑にしてしまって、被害者感情の慰撫に多少なりとも役立てた方が、随分とマシなのではないか?

このタイプの反論は、私が指摘したような死刑の特質(刑罰としての非論理性)を認めた上で成り立ち得る、一種プラグマティックな死刑擁護論だ。重要なのは論理の一貫性よりも別なところに在る、という立場においては素朴な被害者感情慰撫論と共通だが、いわゆる「情緒」へのコミットの度合いでは少し違う角度からの立論として見做せる。これに対する有効な再反論があり得るだろうか。よく解らない。そもそも論理の問題を一旦棚上げにしてしまう(と言うより煮詰め尽くしてしまう)と、後はもう選択の問題、決断の問題、意思の問題に尽きてしまうようにも思える。森達也の暫定的結論も、「私は~したくない」だった。しかし、意思の問題に還元してしまう手前には、未だ考えてみる必要と余地が残されているようにも、思える、ので、どうしたらいいのかな…、というところで留まっているんだが。


*1:しかし、看過できない例外として、アメリカはどうなる?

*2:死刑の非論理性、または「罪を憎んで人を憎まず」の(不)可能性について http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20080224/p1


Sunday, February 24, 2008

死刑の非論理性、または「罪を憎んで人を憎まず」の(不)可能性について


森達也『死刑』朝日出版社、2008年。


死刑について、安易な二項対立や「べき」論に陥らない形で考えを巡らすために、恰好の良書。基本情報は押さえられているし、死刑囚、元死刑囚、被害者遺族、弁護士、裁判官、検事、刑務官、教誨師、政治家など、様々な立場の人間の語りが登場するので、当該テーマにおける現時点での基本書の一つとして扱っても構わないように思える。特徴は、終盤に近づくほど、論理ではなく情緒こそが死刑問題の核心であるという認識が強調されていく点にあり、この認識はほぼ完全に正しいと私は思う。それだけに、そうした認識を強く押し出すまでの過程が過半を占めている本書だけでは、やや物足りないという感も抱かれる。死刑論議の本質を情緒の水準に見出した上で、さらに何を語ることができるのか。著者の継続的な模索が次回作の形で現れることを期待したい。


ここでは特に、以下に引用する部分から触発された考えを書き留めておく*1


 歩きながらふと思いだす。ドイツ生まれのユダヤ人で政治哲学者のハンナ・アーレントは、ホロコーストの実行責任者だったアドルフ・アイヒマンの裁判を傍聴して、その罪を「凡庸な悪」と形容しながらも、アイヒマンへの死刑執行を肯定した。ただしその理由は、「数百万人の人々を殺したから」ではなく「人類の秩序を破ったから」であると、その著書『イェルサレムのアイヒマン』(大久保和郎訳、みすず書房、一九六九年)で主張した。

 刑事司法における個的な報復を否定した彼女のこの思想は、「許しの反対物どころか、むしろ許しの代替物となっているのが罰である。許しと罰は、干渉がなければ際限なく続くなにかを終わらせようとする点で共通しているからである。人間は、自分の罰することのできないものは許すことができず、明らかに許すことができない者は罰することができない」(『人間の条件』志水速雄訳、ちくま学芸文庫、一九九四年)に、さらに明確に表れている。つまり「処罰」と「復讐」とをアーレントは徹底して峻別したからこそ、アイヒマンを処刑する理由を、報復ではなく処罰であらねばならないと考えた。

 ある程度の説得性はある。でもある程度だ。もしも「処罰」が「赦し」を意味するのならば、そして「死刑」が「処罰」の一環であると考えるのなら、「死刑」は「赦し」と同義であるということになる。赦しながら処刑する。ここには明らかに論理の破綻がある。[130-131頁]


アレント説が「ある程度」しか正しくない理由を考えよう。思うに、罰することと赦すことに共通の性質を見て、これらと復讐/報復を峻別するまでは、アレントの言うことは当たっている。言葉の意味を遡ってみれば、そのことは解る。「罰する」とは、対象を「こらしめる」ことである。「こらしめる」とは、相手が二度と当該行為をしないようにすること、当該の事態が二度と起こらないようにすることを意味する。他方、「ゆるす/許す/赦す」とは、対象をもう「とがめない」と決めることである。「とがめる」とは、何かについて相手を非難するとか、その責任を追及するなどといったことを意味する。

ここから、処罰と赦しの機能的接続関係が直ぐに知れる。何かの罪を犯した主体は、二度と罪を犯さないようにするための処置を施される(「罰せられる」)が、その処置が遂行されて以後は、過去の罪を採り上げた非難を再び受けないことを期待できる(「赦される」)。罰を与えることで罪は償われたと見做され、赦しが与えられる。したがって、機能面から言えば、処罰とは実質的には赦しに等しい(より正確に言えば、処罰とは赦しが与えられる条件の提供である)。

さて、ここで重要なのは、処罰≒赦しが与えられる「対象」の問題である。つまり、処罰≒赦しは罪を犯した「人」に与えられるのか、「罪」そのものに与えられるのか、という問いだ。答えは明らかに後者であろう。「とがめ」=非難の対象は、人の存在自体ではあり得ず、その人が犯した罪であるとしか考えられない。だから「赦し」は、人ではなく罪に向けられなければならない。同様に、「こらしめ」=再発防止の対象も罪そのものである。したがって、刑罰の目的を不正義を非難することに求めるにせよ、その再発を防ぐことに求めるにせよ*2、罪と人は論理的に分離されなければならない。私たちは、人を罰することができないのだ*3


そして、ここが分かれ道になる。アレント説には一理があるものの、十理ぐらい無い。それは、彼女が刑罰一般と死刑を質的に区別していないからだ。処罰≒赦しは人ではなく罪に対して向けられるものだが、死刑は人そのものを消す。処罰≒赦しの際には罪と人が分離されなければならないのに、死刑は罪と人を串刺しにして葬ろうとする。しかし、罪人の存在を消すことは、二度と罪を犯さないようにすることではなく、「犯せないようにする」ことである。それは処罰ではない。処罰であるためには、その後に「残余」が必要である。それが個別的・自己目的的に完結する復讐/報復ではなく、未来に向かうため(に「なにかを終わらせ」るため)の一般的・社会的手段であるためには、罰の後を生きる者が残されていなくてはならない*4

死刑は罰ではない。死によって罪は償えない。だから、赦しは与えられない。罪人を罪のゆえに葬れば、「もうとがめない」というメッセージの受け手は、永遠に失われる。赦しを受け取る人がいなくなる。死刑に処せられた罪人は、赦されることがない。罪とともに冥界に突き落とされるだけで、罪を抱え続けなければならない。つまり、死刑は罪人に償いの余地を与えない。罪を償わせないままにすること、償いの可能性を摘むことこそが、死刑の特質である。


何かを「償う」ことは、「責任」をどう引き受けるかにかかわっている。これについては、以前、次のように書いたことがある*5


何かあれば責任を取らなければならないものである、という強迫意識は誰にでも植え付けられている。責任とは取るべきもの果たすべきものである、と。そして、そこで想定されている「責任を取る」行為とは、儀式である。しかし、これはあくまで儀式であり、これによって責任を取ったことにしましょう、という取り決めである。そこでは中身は取り残されたまま、形式が合意される。賠償はあくまで賠償であって、過去のそのままの原状を実際に回復するものではない。過去に戻ることもできず、行為/不行為とその結果は常に断絶してしまっている。そこでは「責任(の中身)を取る」ことはできず、儀式(=「責任(の形式)を取る」こと)を行うことで、現在から未来への関係再構築を図る。メディアに限ることはなく、責任とは初めから取れるものではなかったのである。あるいは、そこに何らかの中身を期待するのであれば、それはもはや責任とは異なる何かである、ということになるのかもしれない。

そう考えてくれば、自分が轢き殺した被害者の遺族から「許し」の手紙を受け取ってもなお、毎月遺族に送金し続ける男(「償い」さだまさし)の姿とは、まさしく責任(=形式)に安住せず償い(=中身)を模索し続ける人間の姿だったのかもしれない。


責任って何かね http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20051105/1131175610


死刑は、形式的な意味での償いの可能性を拒否すると同時に、実質的な意味での償いを試み得る主体を消し去ってしまう。それは未来を向いていない。どこかの地点に、留まろうとする。何も終わらせることができない。そう見える。


つまるところ、死刑は刑罰でありながら、罰としての性質を自ら破壊していく、非論理的な刑罰である。死刑が償いの余地を奪う機能を果たすとすれば、それは絶対的に「赦し≒処罰」の思想と対立するとすら言える(「明らかに許すことができない者は罰することができない」)。
では、死刑が存在するのは何故か。被害者及び被害者遺族が自然権として有する「報復権」を、国家が肩代わりしたからと考えるべきなのか。しかし、私は報復権が自然権であるとの見解には与しない*6。そして、あくまで個別的・主観的な問題である復讐/報復は、国家が肩代わりし得る性質のものではない。刑罰は復讐/報復の国家による肩代わりであるとの見方が出て来るのは、刑罰が有する応報的機能の実質的効果としての被害者感情の慰撫が、誤って本質的機能として再解釈された結果ではなかろうか*7
すると今や、死刑の存立根拠は、被害者感情の慰撫を中心とするように思える*8。これは本来、刑罰の結果としてある程度まで副次的に期待できる類の効果であるに過ぎない。それゆえ、論理的には、死刑の存立根拠は失われている。こうして、死刑問題の核心は情緒の水準にあるという「前提」を、私たちは確認することになる。しかし、求められるのは、ここから先の議論なのだ。


さて、最後に付随的な問題を一つ片付けておく。罪人の死によって遂行が確認される刑罰という意味では、終身刑もまた死刑と同じ性質を持っている。ここまでの論理を貫徹するなら、死刑のみならず終身刑も否定されなければならないように思える。それは一般的に言って、受け入れられ得る立場ではないだろう。私自身もやや抵抗感がある。だが、ここまでの論理に不備がないと仮定するなら、この結論を受け入れないわけにはいかない。もとより、刑罰の本質的目的は犯罪予防と再発防止にしかないという私の立場からすれば*9、無条件で死ぬまで自由を拘束し続けるという処置には合理性が無いことになる。十分に更生したとは見做せないとか、再犯の可能性が高いなどといった理由によって拘束を続け、その結果として実質的に終身刑があるのと同じであるという事態はあり得るが*10、どんなに反省しても更生しても社会復帰の可能性が十分でも釈放しないという制度は、採るべきでない。したがって、死刑の代替として終身刑を導入することを求める主張は、支持できない。



*1:なお、死刑をどう捉えるかについては、以下も参照のこと。被害者及び死刑 http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20071206/p1

*2:罰することの主意が「こらしめ」―制裁による更生と予防―に、赦すことの主意が「もうとがめない」と決めること―非難の終結―にあるという事実は、刑罰をめぐる問いの核心にかかわっていてとても興味深い。

*3:人を裁くことはできない。裁くことができるのは、罪だけである。

*4:この辺り、上手く言えていないかもしれない。私が抱いているのは、罰の後に―たとえわずかでも―何らかの余地・余白が伸びていることこそが、罰が罰であるための条件ないし基盤になっているのではないか、という少し漠とした感触である。

*5:責任の本質については、以下の方がまとまっている。責任論ノート―責任など引き受けなくてよい http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20070122/p1

*6:思想史的裏付けが希薄に思えるためである。

*7:なお、誤解されがちだが、復讐/報復なるものは、罪の応報ではない。「同じ目にあわせてやろう」という類の意思は、応報=非難=「とがめ」の意思とは、全く性質が異なる。

*8:あるいは、一般的観点からの非難の主体たるよりも、被害者への共感・一体化を通じた疑似報復による充足感を欲せんとする一部大衆のための疑似慰撫もこれに加えるべきか。

*9:司法論ノート―利害関係者司法に向けて http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20070115/p1

*10:そうした事態を規範的に許容し得るかについては議論の余地があろうかとは思うものの。


Monday, January 7, 2008

民主主義は裁判員制度を支持しない


2008年を迎えた。次に迎えるのは2009年である。2009年には、裁判員制度の開始が予定されている。裁判員制度は、国民の司法参加の名の下に導入されたものであり、いわば民主主義の理念をその基礎に据えていることになっている。だが実際には、裁判員制度が民主主義理念の実現の一環として推進されるのは、論理の筋を違えた話である。

「民主主義」と言った場合に何を意味するのかは、それによって議論の内容の過半が左右される程に重要である。ここでは、しばしば語られているように、「治者と被治者の同一性」こそが価値理念としての民主主義の内実に当たるものであると考えよう*1。これは要すれば、ある政治的決定から影響を被る者はその決定作成に参与することができるべきである、という考え方である。この考え方を政治分野に限らない決定一般に拡張すれば、その論理の型は、いわゆる自己決定原理と重なる。以上から、統治権力の在り方・用い方について自己決定原理を適用しようとする理念こそが民主主義である、との理解が得られる。

通俗的な民主主義理解においては、それが何であれ、国家が担ってきた仕事の中に一般市民が参入していくことが実現したり、国家権力の運用に市民の手が加わることが可能になったりすれば、民主主義の具体化であると考えられがちである。しかしながら、それは民主主義がいかなる内容を持つ思想なのかということをじっくりと省みて考えた経験を持たない者による、空虚な民主主義礼賛に過ぎない*2。現に、裁判員制度導入の理由として第一に挙げられることが多いのは、「市民の健全な常識」を司法の場に注入できること、という具体性を欠いた意味不明の論拠である。

民主主義の内実を治者と被治者の同一性に求める理解に立つならば*3、複数の主体間で何らかの紛争が生じた場合の解決は、当事者間による交渉か、そこに重要な利害関係者を交えた協議によって図られるのが理想となるはずである。第三者による権威的調停は、自己決定の原理に違背するものであるから、民主主義理念それ自体からは出て来ることのない考え方である。このことは、権威的調停に携わる第三者が専門性を備えた官僚裁判官であろうが、無作為に抽出された一般市民であろうが、変わることは無い。ここから、裁判員制度を民主主義によって基礎付けようとする論理の無理が、直ちに理解されるだろう。

無作為抽出の市民は、裁判の対象となる事件の利害関係者ではなく、選挙によって選ばれた代表者でもない。第三者性において官僚裁判官と等しく、専門性において官僚裁判官に劣り、代表性を帯びることもない*4。そうした立場の人間が司法権力の行使に携わることを正当化する余地は、少なくとも民主主義理念の観点からは存在しない。裁判員制度を価値理念としての民主主義から導出したり正当化したりすることは、論理的な不可能事である。

では仮に、裁判官を選挙で選ぶことにする、という司法制度改革案であったとしたら、話は違っただろうか。同じ国民の司法参加を掲げるにしても、選挙を経た代表者が司法権力の行使に携わるのなら、それは民主主義理念の具体化として正当化できるのではないか。だが、そもそも特定の個別的紛争を扱う裁判の場での決定は、広範な人々に影響を及ぼすことが一般的である政治的決定とは性質が異なるため、地理的に区切られた選挙区から選出された代表が裁きを下すべき理由は乏しい。政治的決定とは異なり、判決によって影響を被る「被治者」の範囲は、より限定されている。民主主義の理念を司法分野に適用するならば、地域の代表者が裁きを下すよりも、当事者中心の紛争解決を専門性の備わった第三者が支援する制度の方が、より理想的である。

結局、民主主義理念は裁判員制度を支持しない。ここでは、裁判が迅速化するとか、難解な専門用語が解り易くなって裁判が身近なものになるとか、口頭主義によって調書偏重が正されて従来の99.9%の有罪率が維持できなくなるとか、市民の社会運営に対する責任の自覚が促されるなどといった、その他の制度推進理由については触れないことにする*5。だが、それらのいずれも、裁判員制度を支持する理由としては不足であると思う。私には、裁判員制度を導入すべき積極的な理由が見出せない。もし、私が間違っているか、民主主義理念の理解を違えるかで、民主主義の観点から裁判員制度を導出ないし正当化することは可能であると考える人がいるならば、是非ご教示願いたい。実際、多くの国で陪審制や参審制が用いられているという事実は、民主主義理念の異なる理解の仕方の所在をうかがわせる。


なお、司法制度全般についての私の考え方は、以下の①にまとめてある。また、誰が決定を下すべきなのかという問題を考えるための整理として、②が多少は役に立つことがあるかもしれない。


①司法論ノート―利害関係者司法に向けて

http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20070115/p1



②政治過程または一般的決定過程におけるステージ・アクター・評価

http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20070909/1189335617



*1:こうした理解は私見とは異なる。私自身は、民主主義理念の中核を占めるものは「自己決定の最大化」を積極的に肯定する思想であり、それは治者と被治者の同一性原理とは相容れないと考えている(この点については、私の学士論文「利害関係者の討議と決定」第3章第2節を参照。より詳しくは、近日提出予定の修士論文「利害関係理論の基礎」補論で論じている)。しかし、いずれの理解を採っても民主主義理念は裁判員制度を支持することは無いので、ここでは問題にしない。

*2:『裁判員制度』の著者である丸田隆は、国民が選挙に参加することは「主権の行使の一つ」であると述べているが(丸田隆『裁判員制度』(平凡社:平凡社新書、2004年)46頁)、ここから裁判員制度推進論者の民主主義理解の程度が概ね知れる。単一不可分の主権は国民一人一人には分有されず、選挙による代議士の選出が、主権の行使の在り方を定める一般意思の形成のための一過程に過ぎないものであることは、憲法学・政治理論において常識に属する。国民一人一人は主権を行使することはできず、ただ行使の過程に部分的に参与することができるのみである。無闇に民主主義や国民主権を謳う人間ほど、その観念の理論的実態について知ることが少ない。ひとまずルソーの『社会契約論』だけでも読むべきだろう。

*3:政治理論においては、こうした理解は比較的一般的なものである。

*4:厳密には代表と言えるものではないが、選出されるメンバーの社会的属性を当該地域・集団の社会構成に近似させることで代表性を代替する方法(いわゆる「社会学的代表」)も主張し得る。だが、6名の裁判員の中でそれを為すことは現実的ではないだろう。

*5:最後の推進理由については過去に批判したことがある。責任と自由―2.必要と負担 http://d.hatena.ne.jp/kihamu/20060921/1158839150


Thursday, December 6, 2007

被害者及び死刑


宮崎哲弥・藤井誠二『少年をいかに罰するか』講談社:講談社+α文庫、2007年


 過去の少年法をめぐる議論は、法務省や検察、弁護士、矯正施設など制度として少年犯罪に関わる立場の人間が、年齢引き下げなどで少年犯罪が減るかどうかという社会効果の観点からしか議論をしてこなかった。当時の新聞の投書も、その「効果」について自分はあると思う、ないと思うという二者択一的なものばかりです。社会的に「効果が期待できない論」が支持されたのだと思います。

 今回も少年法改正に反対した人々――弁護士や学者などの専門家――の論理はほとんど当時と変わっていなくて、厳罰化は効果があるとか、ないとかをずっと言ってきた。ところが、犯罪被害者やその遺族の人々が訴えてきたのはそういうことではなく、、せめて自分たちにも加害者側と同等の権利や情報がほしい、適正で公平な手続きをしてほしいということなのです。少年法の不公平さや不適正さを問題にしてきたのです。

 つまり、言っていることがまったくかみ合わないわけで、効果論でうねりを押し戻そうというのははじめから意味がなかった。与党は効果論を持ち出していましたから、それに反論する必要はあったのですが、本流はちがうところにあったといえると思います。[119-120頁、藤井の発言]


この指摘は、統計上は犯罪が増加したとも凶悪化したとも言い難いと指摘したとしても、必ずしも厳罰化を求める声や体感治安の悪化に対する歯止めにはならない、という過去の私の指摘とパラレルに読める*1。犯罪被害者遺族自身が望んでいるところとは必ずしも一致しないとは言え、被害者の権利向上への支持拡大と治安悪化・厳罰化言説とは、その土壌において繋がっている。治安悪化言説への批判や厳罰化効果の過大視への反論はそれとして必要であるとしても、何かそれだけでは足りないものが残ってしまう。土壌のところまで、届かないのである。

公平さや適正さというのは、一つのポイントだろうと思う。被害者の権利向上を訴える立場は、国家が個人に対して当然に認めるべき正当な地位・権利が認められていない、という見方に拠っている。この考え方が、従来の憲法学や刑事法学、あるいはリベラル左派や「人権派」弁護士などの考え方と摩擦する。摩擦するのだが、それは決して保守的な考え方ではなく、むしろ人権という観念を推し進めた進歩的なものである。ここには自由主義‐個人の権利‐国家権力の役割をめぐる逆説的と言うのか、ねじれたと言うのか、曲がりくねったような立ち位置の割り振りが見出せるが、煩瑣になるので、詳しくはいずれ別の形で議論することにしよう。

なお、本書では治安悪化言説への詳細な批判が行われるとともに、そうした言説が盛り上がる要因についても若干の検討が為されている。宮崎は現代の少年犯罪に「質的変化」を見出すかについて、概ね慎重な見方を採っているが、藤井は犯罪の動機や背景に対する「理解可能性」が失われてきており、それは少年が社会から「離脱」した結果ではないか、という宮台真司に近い見方を示している。もっとも、少年の内面が実際に変化しているかどうかを争わなければ、かつては「理解」の対象と見做されてきた少年が、ある時期から理解不能な「モンスター」と見做されるようになったという指摘は芹沢一也も繰り返し行っている。芹沢はそうした変化の立役者が宮台にほかならないと見做しているのだが、少年の内面が実際に変化したにせよ、言説が変化しただけであるにせよ、それらが変化した理由をより遡って考える必要があることを否定する余地は無い。


他に気になったものとして、宮崎の発言から取り上げたい部分がある。まず、自らが死刑反対派であると述べながらも、「死刑廃止論者は権力の走狗だ」との池田清彦の言に同調しつつ、宮崎はこう続ける。


 まったくその通りで、犯人を殺したいと思っている被害者やその代理人たる被害者遺族にとって、死刑廃止国家は「その野蛮な感情をコントロールせよ」「加害者を許せ」と命じる権力主体に他ならないんだよ。そういう意味では菊田幸一氏や安田好弘氏なんか、完全に権力の補完装置に出しているといえる。

(中略)

 整理しておくと、こういうことね。

 権力というのは元々「死なせる権力」に他ならなかった。命を奪い得る、殺し得るという機能によって人々を規律し、統制する。これを政治権力と呼んできたのです。

 死刑はその最も象徴的な事例で、国家は一罪人を合法的に殺害することができるわけです。他の誰一人として法に抵触することなく、人を彩めることはできない。たとえ、被害者遺族であっても。これが近代社会の原則です。つまり合法的に人命を奪い得る可能性こそが、近代的な国家権力の本体だったのね。

 ところが、この権力観は時代遅れになりつつある。むしろ「生かす権力」の作用が大きくなってきているということを、歴史思想家のミシェル・フーコーが看破した。彼は「死なせる権力」に対し、「生かす権力」、「生―権力」という権力概念を提示しました。

(中略)

 要するに、死の恐怖によって人々を従わしめていた古い権力から、健康な生を予め規格化し、それへの欲望を煽ることで管理やコントロールを強めていく新しい権力へと重心をシフトさせているというわけ。

 池田清彦氏の死刑廃止論批判もおよそこの視角に添ったものです。私が我慢ならないのは、多くの死刑廃止論者がこういう権力側のシフトにまったく鈍感だということ。

 その鈍感さこそが、犯罪被害者を徒に体制の側、権力サイドに追いやってしまっているのに、そこにぜんぜん気づいていない点。これが救い難い。[21‐23頁]


実際には、フーコーは以下のように述べている。


 私は別のレベルで、死刑を例にとることもできただろう。死刑は長い間、戦争と並んで、剣の権利のもう一つの形態であった。それは、君主の意志、その法、その人格に危害を加えるものに対する君主の対応をなしていた。死刑場で死ぬ者は、戦争で死ぬ者とは正反対に、ますます少なくなっている。しかし後者が増え前者が減ったのは、まさに同じ理由によるのだ。権力が己が機能を生命の経営・管理とした時から、死刑の適用をますます困難にしているものは、人道主義的感情などではなく、権力の存在理由と権力の存在の論理とである。権力の主要な役割が、生命を保証し、支え、補強し、増殖させ、またそれを秩序立てることにあるとしたなら、どうして己が至上の大権を死の執行において行使することができようか。このような権力にとって死刑の執行は、同時に限界でありスキャンダルであり矛盾である。そこから、死刑を維持するためには、犯罪そのものの大きさではなく、犯人の異常さ、その矯正不可能であること、社会の安寧といったもののほうを強調しなければならなくなるのだ。他者にとって一種の生物学的危険であるような人間だからこそ、合法的に殺し得るのである。[ミシェル・フーコー『知への意志』渡辺守章訳、新潮社、1986年、174-175頁、強調引用者]


宮崎の発言だけを読むと、生‐権力へのシフトが進めば必然的に死刑が廃止されるとフーコーが考えているように理解してしまいかねないが、そうではなく、要は、死刑が維持されるとしても、その機能は変質すると言っている。

それから、多くの死刑廃止論に一種の鈍感さが伴っているという指摘には首肯できるところもあるが、権力が以上のようにシフトしているからといって死刑廃止を訴えることが「権力の走狗」になることかと言えば、疑問である。左翼であろうが「人権派」であろうが、国家権力にある一定の機能を期待していることは、その他の立場と変わりが無い。死刑廃止を訴えているからと言って、国家権力を否定していることにはならない。テレビ番組の中で某ジャーナリストが、死刑廃止を訴えているくせに国家の裁判を利用しようとするのは矛盾だとの旨を述べているのを見たことがあるが、これは暴論である。死刑廃止論は国家廃止論ではない。在る法に従うことと在る法を改善しようとすることは矛盾しないし、死刑廃止を訴える言論人やら弁護士やらが国家の法に頼ることは言行不一致ではない。彼らは国家権力の機能の在り方を変えようとしているに過ぎないからである。翻って、死刑廃止国家が被害者に感情の統制を命じる権力を行使するとしても、死刑廃止論者が「権力の走狗」とまで呼ばれる筋合いは無い。何らかの局面で国家権力の機能を肯定し、支持し、利用し、促進するような態度を採ることが「走狗」たることであるのなら、国家廃止論者を除く死刑廃止論者はもとより「権力の走狗」である*2


宮崎は以上の議論と絡んで、以下のようにも述べている。すなわち、国家は社会契約によって人々から復讐の権利を含む自然権を移譲されることで刑罰という暴力を独占する権利を得ているが、国家が抽象的な「法益」なるものの保護に徹し、具体的な被害者やその遺族の利益を保護し、移譲された復讐権を代行していないのであれば、復讐権を個々人に返還して自力救済が認められなければならない。それゆえに、被害者および被害者遺族に対して、国家に報復という権利を代行して実現することを求める「人権」を保障することが重要になってくる、と(29-31頁)。

しかし、ここで疑問なのは、国家はそもそも「復讐権」を代行実現する義務を負っているのか、ということである。宮崎は殺人罪の保護法益である「人の生命」が非常に抽象的で具体的な「その人」の利益を直接に示しているわけではないことを指摘しているが、法がその内部で具体的な個々人を名指ししてその利益を保護すると宣言することができるのだろうか。社会契約説を採って国家の役割が自然権の代行実現にあるとしても、それが具体的な個々の紛争における復讐の代行を含むと考えるのは、多分妥当していないだろう。宮崎は、本村洋との出会いによって「被害者に人権は認められない」という従来の立場を変容させざるを得なくなったと述べているが、おそらくはそのために、ここでの宮崎の論理は滅裂しているように見える。

ちなみに、ロックは以下のように述べている。


 このようにして、自然状態においては、各人が他人に対する権力を得るようになる。けれどもそれは、その掌中に属する罪人を処分するに当って、自分の激しい感情や法外なでたらめに依ってするというような絶対的恣意的な権力なのではない。それはただ冷静な理性と良心とが、罪人の違反に釣合うものとして指示する程度のものを、いいかえれば賠償、抑制として役立つであろう範囲のものを、その者に酬いるだけの権力に過ぎない。なぜなら、賠償と抑制というこれら二つだけが、一人の人間が他人に対して、われわれの刑罰と呼ぶ害悪を、合法的に加え得る理由なのであるから。自然法を犯すことによって、犯則者は、神が人間の相互的安全のために、彼らの行為に加えたところの制限である理性と一般的衡平の規則以外の、別の規則に従って生きることを自ら宣言する。このようにして人々を傷害と暴行から保護すべき紐帯は、彼によって軽侮破壊されるのであるから、彼は人類にとって危険なものとなるのである。これは、全人類および、自然法によって設けられたその平和と安全とに対する、侵害である。したがって各人は、人類全体を維持するためのその権利によって、彼らにとって有害なものを制止し、必要な場合には破壊することができる。かくして、何人であれこの法を犯した者に対して、その行為を悔悟させ、これによってその者、およびこれに倣ってその他の者が同様の悪を為すのをやめさせるような罰を加え得るのである。こういう場合に、またこういう根拠によって、各人は、犯罪者を処罰し、かつ自然法の執行者となる権利を有するのである。[ロック『市民政府論』鵜飼信成訳、岩波書店:岩波文庫、1968年、14‐15頁、傍点を省略]


国家はこうした自然権を回収して成立するわけだが、自然法の段階で既に「人類にとって」という観念が持ち出される。果たしてこれは抽象的な法益たる「人の生命」とどう違うのか。具体的な個々人の利益に基づいた復讐権なるものは、そもそも想定されていたのだろうか*3。ロックが社会契約説の全てではないが、私は疑問に思う。そういうところから被害者の人権を持ち出すのは無理があるのだ。


少年をいかに罰するか (講談社プラスアルファ文庫)

*2:お互い「権力の走狗」とか何とか、そういう言い方、いい加減に止めにしないか。つまらんから。

*3:個人から国家へと自然権が移譲されたことと、国家によって自力救済が禁止されて合法的な暴力が独占されたこととが結合されて理解された結果、個人的な復讐権も国家に移譲されたという考えが出てきたのかもしれない。だが、復讐権は移譲されたのではなく、端的に禁止されたのではないか?。この点につき不勉強な私はご教示を賜りたい。


Monday, January 15, 2007

司法論ノート―利害関係者司法に向けて


刑罰の意味と役割



刑罰とは、社会秩序の維持を目的として、定められた「罪」が行われることを予防するために設定されているコストである。したがって、刑罰は基本的に目的刑でしか有り得ない。事前に罪とそれに応じた刑罰が定められている(罪刑法定主義)という前提の下で、合理的選択の結果として違法行為を為した者は、定められたコスト=刑罰を負わなければならない。多くの場合、既定の社会秩序に対する違反行為は社会道徳に対する違背行為と意味的に大きく重なり合って受容されるため、刑罰の執行は社会的には道徳的非難として受け取られる。こうした刑罰の社会的意味は、道徳的規律として副次的に社会秩序の維持に資するため、秩序維持を目的とする上では、刑罰=コストという認識が普及するよりも都合がよい。したがって、刑罰=道徳的非難という社会的意味の理論的外皮としてのみ(だが半永久的に)、応報刑論が維持され得る。だが、刑罰の中心的意味が違法行為についての強制的な対価徴収にあることを忘れてはならない。

しかしながら、ここで注意すべきは、コストとベネフィットを冷静かつ合理的に判断し、その判断に基づいた選択の結果として違法行為を為す者は、実際には多くないという点である。現実には、家庭環境、生育過程、教育程度、経済状況、交友関係、健康状態、精神状態など、さまざまな社会・経済的および個人的要因、また間接的および直接的要因、あるいはそれらの絡み合いによって、合理的判断が不可能または困難であったり、選択の範囲や時間的余裕が著しく限定されていたりすることから違法行為を為す者がほとんどである。したがって、裁判および処罰の過程においては、これらの個別事情(情状)に応じて既定のコストを削減した上で、削減したコストの代替として、再犯予防を目的とした教育・訓練・実践・治療などのフォローおよびケアを刑務に並行させなくてはならない。個別事情を考慮せずに違法行為だけに着目してコスト=刑罰を与えることは、非現実的な合理的人間像に基づいて個人だけに犯罪の責任を帰することを意味し、到底受け入れ難い措置である。


近代的刑事司法と被害者保護



現在、犯罪被害者の保護を訴える運動が盛り上がりを見せているが、その背景には、これまでは犯罪者の人権ばかりが守られて被害者の人権が無視されてきた、という認識が存在している。確かに、近代刑法は犯罪者の人権を保護することを大きな目的として、国家の権力濫用を防止するようにつくられている。それは、近代国家および近代刑法の成立過程に由来している。近代国家は、復讐その他の自力救済を禁じ、個人や社会に本来備わっている紛争解決能力の大部分を取り上げた。このため、処罰権力が国家に一元化され、犯罪は被害者に対する犯罪ではなく、国家に対する犯罪として扱われるようになった。 その結果として、刑事司法のプロセスは基本的に国家と犯罪者の二者関係となり、被害者が占める地位は極めて限定的なものに留まってきたのである。

犯罪被害者の地位向上は確かに重要な課題であるが、こうした歴史的経緯を踏まえると、現在の被害者保護運動の危うさも指摘せずにはいられない。近代的な刑事司法プロセスにおいて被害者が疎外されるのは、紛争解決能力を国家に一元化した結果であった。そこでは、加害者もまた受動的な立場であるにすぎないのであって、紛争解決に主体的に関わることができる地位は与えられていない。つまり、従来の刑事司法プロセスにおいては、当該紛争の当事者である被害者と加害者、その他の利害関係者は、当該紛争解決についての主体的な関与を制約されているのである。

そうであれば、犯罪被害者の地位向上は本来、国家から当該紛争の利害関係者全体に紛争解決能力を部分的に取り戻そうとする文脈の中に位置づけられるべきである。だが、現在の被害者保護運動の多くは、他の利害関係者から切り離す形で被害者だけに特別の地位を与えようとしているように見える。それは、被害者に対する国家による「保護」を求めようという発想に由来するものである。こうした発想においては、依然として国家が独占的な紛争解決主体であり続けるのであって、紛争解決プロセスにおける利害関係者の役割を極めて限定的なものに留める従来的刑事司法の性格は何ら変わらないことになる。

例えば、被害者が法廷で被告に直接質問ができるようになったとしても、両者の上位に位置する裁判官が独占的に裁きを下す構造は何も変わっていない。それは確かに被害者の地位向上ではあるかもしれないが、刑事司法の基本構造を組み替えるほどの変革ではない。もちろん多くの被害者保護運動は刑事司法のパラダイム転換など求めていないだろう。だが、国家による「保護」という形で被害者の地位向上を進めることが生みかねない危険は、十分に自覚しておく必要がある。実名報道/匿名報道の問題において顕著に見られるように、現在、国家の裁量余地が個人の「保護」を名目として拡大する傾向にある。被害者の地位向上の方法を国家による「保護」に求めることは、紛争解決能力の国家による独占を強めることで、国家の権力拡大傾向に棹を差しかねないのである。それゆえ、被害者の地位向上という課題は、国家中心の刑事司法から利害関係者中心の刑事司法への部分的移行という全体の文脈の中で達成されるべきものとして、再認識されなければならない。


修復的司法と利害関係者司法



利害関係者中心の刑事司法を建設するための基礎となるのが、修復的司法という考え方である。ハワード・ゼアによれば、従来の「応報的司法」においては刑罰が国と加害者との勝負によって決定されたのに対して、修復的司法においては、犯罪は人々の関係の侵害と把握され、被害者・加害者・地域社会の主体的関与による関係の修復が目指される*1。修復的司法プロセスにおいては、犯罪による侵害の修復という観点から、被害者と加害者が主体的な紛争解決主体と見做される。被害者と加害者は、地域社会や第三者の協力の下で継続的な対話を行い、被害の回復と加害者の更生を実現するための方法についての合意形成が図られる。

利害関係者中心の刑事司法は、基本的にこうした修復的司法の延長線上に構想することができる。加害者と対話などしたくないし会いたくもないと考える被害者の意思は尊重されるべきであるから、応報的司法を完全に放棄することはできない。だが、被害者をはじめとする利害関係者の希望によって選択可能な形で、応報的司法プロセスと並行する修復的司法プロセスの制度設計を行っていく必要がある。被害者と加害者の対話を重視する修復的司法は、被害者に「赦し」を強いるのではないかと危惧されることがあるが、応報的司法と修復的司法を制度的に並立させることによって、被害者に対する「赦しの圧力」が強まることを回避することができるだろう。修復的司法は応報的司法と対置されて語られるが、むしろ紛争解決主体としての被害者と加害者のニーズを重視する点を修復的司法の本旨と捉えて、応報的司法と狭義の修復的司法を並立させる制度の全体を広義の修復的司法として再定義することも可能に思われる。ただ、それでは「修復」を重視する修復的司法固有の特徴が希薄化されてしまうので、並立的制度の全体はやはり利害関係者司法とでもしておくのが妥当であろう。

修復的司法に対しては、加害者の更生など「被害者側にとってみればどうでもいいこと」であり、「加害者と被害者を同列にしている」ことは疑問である、といった批判が向けられている*2。だが、最初に述べたように、刑事司法は本来的に社会全体の秩序維持を目的としているのであって、道徳的非難や応報、被害者感情の慰撫といった役割を担うものではない。したがって、司法制度上、被害者だけを特別扱いすることはできない。それは、利害関係者を中心に据える刑事司法プロセスにおいても同様である。利害関係者司法は主要な利害関係者全てのニーズを重視するもので、被害者だけを特別視することがあってはならない。加害者と「「ああだこうだ」のやりとりは一切したくない」、「伝えたいことを伝えさえすればそれでいい」という被害者の感情は自然なものであろう*3。だが、相手に何かを伝えたいならば相手から何かを受け取らねばならず、加害者から何も受け取りたくないのであれば応報的司法を選択するしかない。修復的司法は加害者と被害者をはじめから「同列」に扱うものとして存在しているのだから、加害者に対する一方的な断罪や非難が修復的司法では困難であるというのは、欲求実現の方法の求め先を誤っただけであって、修復的司法に対する批判としては筋違いと言わざるを得ない。

さて、応報的司法プロセスは公的機関の運営によるほかないが、修復的司法プロセスは、法的枠組みの中で公的機関の協力を得ながら、民間主導で運用していくべきである。利害関係者間の対話を仲介するメディエーションや、利害関係者のケアといった役割を担うのは、非国家的主体の方が適している。利害関係者を中心に据えた司法プロセスの設計は、国家の役割を必要最低限に限定することを求める。そこでは基本的に、被害者や加害者は「保護」されるのではなく、紛争解決に「関与」していくのである(ただし、利害関係者自身の意思を尊重する本旨から、積極的な関与が強いられるようなことは避けられなければならない)。

なお、ゼアをはじめとする修復的司法の唱道者は、地域社会の役割を強調するが、現在の日本において地域社会の役割に大きな期待を寄せるのは非現実的であるし、地域社会の介入が望ましくない場合もある。紛争解決能力を国家から社会へと部分的に取り戻していくことは重要であるが、単純に中間団体や地域社会の影響力を増すことで個人への前近代的介入を招くようなことがあってはならない。国家と社会、双方からの個人への影響力を適度に制限するためには、利害関係者中心の司法プロセスの運営を、法的に権限と役割を明確化された専門的なメディエーション機関に委ねる必要がある。利害関係者司法の実現のためには、こうしたメディエーション機関やメディエーターの整備・養成が急務である。



*1:ハワード・ゼア[2003]『修復的司法とは何か』新泉社。

*2:藤井誠二編[2006]『少年犯罪被害者家族』中公新書ラクレ、116頁。

*3:同、117頁。




Tuesday, August 8, 2006

刑法39条を擁護してみる


刑法第39条「①心神喪失者の行為は、罰しない。②心神耗弱者の行為は、その罪を減軽する。」


この条文は近年激しい批判にさらされているが、私にはどうも改正する必要が強く感じられないので、少し擁護してみる。先に参考文献を挙げておく。


呉智英・佐藤幹夫編『刑法三九条は削除せよ!是か非か』洋泉社、2004年

芹沢一也『狂気と犯罪』講談社プラスアルファ新書、2005年

芹沢一也『ホラーハウス社会』講談社プラスアルファ新書、2006年

佐藤直樹『刑法39条はもういらない』青弓社、2006年

宮崎哲弥・岩波明・久坂部羊「法と病の隙間に逃避する犯罪者を許すな」『諸君』2006年7月号


さて、39条について述べる前に、まず私の刑法/刑罰観について述べておく必要がある。なぜなら、39条についての議論は必然的に刑法全体についての認識を問われる性質を持っているからだ。

私見によれば、刑罰とは社会秩序の維持を目的として、定められた「罪」が行われることを予防するために設定されているコストである。ここから、読者は私の刑罰観の基底に目的刑論が敷かれていることを了解するだろう。事前に罪とそれに応じた刑罰が定められている(罪刑法定主義)という前提の下で、合理的選択の結果として違法行為を為した者は、定められたコスト=刑罰を負わなければならない。多くの場合、既定の社会秩序に対する違反行為は社会道徳に対する違背行為と意味的に大きく重なり合って受容されるため、刑罰の執行は社会的には道徳的非難として受け取られる。こうした刑罰の社会的意味は、道徳的規律として副次的に社会秩序の維持に資するため、秩序維持を目的とする上では、刑罰=コストという認識が普及するよりも都合がよい。したがって、刑罰=道徳的非難という社会的意味の理論的外皮としてのみ(だが半永久的に)、応報刑論が維持され得る。だが、刑罰の中心的意味が違法行為についての強制的な対価徴収にあることを忘れてはならない。

しかしながら、ここで注意すべきは、コストとベネフィットを冷静かつ合理的に判断し、その判断に基づいた選択の結果として違法行為を為す者は、実際には多くないという点である。現実には、家庭環境、生育過程、教育程度、経済状況、交友関係、健康状態、精神状態など、さまざまな社会・経済的および個人的要因、また間接的および直接的要因、あるいはそれらの絡み合いによって、合理的判断が不可能または困難であったり、選択の範囲や時間的余裕が著しく限定されていたりすることから違法行為を為す者がほとんどである。したがって、裁判および処罰の過程においては、これらの個別事情(情状)に応じて既定のコストを削減した上で、削減したコストの代替として、再犯予防を目的とした教育・訓練・実践・治療などのフォローおよびケアを刑務に並行させなくてはならない。個別事情を考慮せずに違法行為だけに着目してコスト=刑罰を与えることは、非現実的な合理的人間像に基づいて個人だけに犯罪の責任を帰することを意味し、到底受け入れ難い措置である。

以上のような立場からは、ほぼ完全に合理的判断が可能であるか、ある程度まで合理的判断が可能であり、違法行為以外の選択を為す余地(他行為可能性)があったにもかかわらず違法行為を選択した者が、その他行為可能性の程度を考慮された上で罰せられるのは当然と言える(この点につき、佐藤前掲書168頁のように確信犯や常習犯も他行為可能性を持たないと考える立場は、他行為可能性の意味を理解しないものである)。逆に、合理的判断が全く不可能であり、他行為可能性を有しなかった者は罰せられるべきではないから、刑法39条は削除するべきでないように思われる。さらに踏み込んだ私見を述べれば、むしろ一律に14歳未満の者を罰しないことを定め、個別事情を考慮することを阻むような41条こそ削除に値するように思われる(刑法第41条「十四歳に満たない者の行為は、罰しない。」)。


さて、このような私見を前提にした上で、39条に対する個別の批判意見を簡単ながらいくつか検討していこう。まず、精神障害者だけを特別視して裁判および処罰の過程から排除するのは不平等である、という主張について(例えば芹沢前掲『狂気と犯罪』8頁など多数)。もし刑法について、違法行為者には責任能力者=合理的人間と責任無能力者=非人間の二種類が明確に画されて存在するものである、という二元論に立つのであれば不平等であるとの批判も成り立つが、上で述べたように両者が連続的であると捉える立場を採るのであれば、心神喪失者は程度問題の最も極端なケースとして免責されるだけであるから、精神障害者の非人間視や差別を意味することはないと言える。

次に、起訴便宜主義(不親切ながら、説明は省く。刑法初心者には井田良『基礎から学ぶ刑事法』を薦める)や起訴前鑑定を問題視する主張、あるいは精神鑑定そのものをいい加減であるとする主張について(やはり多数)。まず、起訴便宜主義は精神障害者だけに限った問題ではないし、それ自体は維持すべきものであろう。確かに、起訴便宜主義、起訴前鑑定、精神鑑定そのもの、いずれも多くの問題をはらんでいることは認めるが、基本的には運用の問題であるように思えるため、39条を削除するまでの理由としては弱いだろう(個別の論点については、呉・佐藤前掲書の滝川一廣論文などを参照)。

続いて、犯罪者の個性や内面を詳しく調べ上げ、彼を理解しようとするような近代的刑事裁判のあり方そのものを批判する主張について(芹沢前掲『狂気と犯罪』131頁以下)。この点については現行刑法に対する批判者内でも意見に隔たりがあるようだが(佐藤前掲書36‐37頁などではむしろ個別の情状が重視されている)、個別事情を考慮することが適切な処罰を与えるために必要不可欠であることは明白であり論を俟たない。繰り返すように、違法行為だけに着目して個別事情を考慮しないならば、非現実的な合理的人間像(佐藤の言葉を借りれば「自由意志‐理性的人間像」)を前提とすることになるだろう。芹沢は「社会はともかく、刑事裁判が犯罪者の個性に注意を払うというのは、かなり問題があるのではないか」と述べているが(同、136頁)、私はむしろ逆ではないかと思う。刑事裁判は個別事情を詳しく吟味しなければならないが、社会が個別の犯罪者への理解欲望にとりつかれることは危険である。社会は個別の犯罪者についてではなく、その犯罪の一般的要因や社会的文脈にこそ注意を払うべきである。

最後に、従来の措置入院制度や「心神喪失者等医療観察法」(2003年7月成立)による、違法行為を犯した精神障害者の保安処分的拘束を問題視する主張について(佐藤、芹沢が再三強調)。細かい説明は省くが、批判者はこうした現行制度が実際の犯罪事実によってではなく、「再犯のおそれ」という曖昧な理由で精神障害者その他を拘束できる仕組みになっていることを危険視する。観察法については、司法の関与が無かった従来の措置入院に対して司法的合議体の判断に基づいて拘束が行われることや、一般の精神病院から専門の病棟・施設に収容するようになったことなど、利点もあったと思われる(岩波明は観察法の利点を強調している)が、保安処分としての性質が変わらず、むしろ強まったことは確かであろう。

私は、この点を39条にまつわる議論の中で最も尖鋭な部分だと考える。もし対象となっている精神障害者が犯したとされる違法行為について「犯罪」が成立しているということを前提にすれば、再犯予防のための治療行為として専門の施設に収容する処置は十分肯定し得る。しかしながら、現実には観察法や措置入院の対象は、39条を理由にして不起訴処分や無罪となった精神障害者たちである。裁判が行われていない者を犯罪者と見做すことはできないし(推定無罪)、現に無罪となった者を罰することはできない。それにもかかわらず保安処分によって彼らの身体や行動を拘束するのは矛盾している。つまり、39条によって心神喪失者は「罰しない」はずであるのに、保安処分によって実際には罰が与えられているのである。こうした矛盾を回避するためには、あるいは確かに39条を削除し、精神障害をあくまでも情状の一つとして扱うことが最もすっきりとした方策であるかもしれない。その場合には、罪を犯した精神障害者は既定のコストを負う代わりに、再犯防止を目的とした治療のために医療刑務所のような専門の施設に収容されることとなり、我々は彼らを司法の枠組みの中で整合的に拘束することが可能になる。

読者は多少面を食らったかもしれないが、私は、最終的に39条を削除する方が整合的で望ましいかもしれないとの結論に達した。私は依然、それほど強硬に削除を支持するものでもないが、さりとて強硬に削除に反対する理由もないように思われるので、とりあえず暫定的な結論としてこのようなところに落ち着いてもよいかなと思っている。皆さんはいかがであろうか。


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