Sunday, December 21, 2008

かかわりあいの政治学4――連接の長さと権利的優位


(承前)


ある晴れた日のこと。私は真っ直ぐな歩道を歩いている。すると、100メートルほど前の横路から出てきた中年女性が、同じ歩道を、こちらに向かって歩いて来る。私も彼女も歩道の建物側を歩いており、徐々に近づいている。私はこの道に入ってからずっと建物側を歩いてきたし、彼女もそれを見ているはずだから、そのうち避けてくれるだろう。普通そういうものだし、そうでなければおかしい。

だが、彼女は建物側を歩き続け、一向に車道側にずれる気配を見せない。決して私の存在に気づいていないわけではない。その内に、彼女との距離は10メートルを切った。私は違和感を覚える――場合によってはやや不快感をさえ覚えるかもしれない――けれども、そこは大人である。意地を張っても仕方が無いので、自分が車道側にずれて衝突を回避する。擦れ違う際の気配からして彼女には意に介した風も無い。私としては、まぁそんなものかと歩を進めるしかない。


さて、このような感覚をどれだけ一般化できるのかは分からない。しかし、私は問うてみたい。この時に私が抱いた「そうでなければおかしい」という感じは、どこから来たのだろうか。私はずっと建物側を歩いてきたのだから、「建物側を歩くこと」については私の方が優先されるだろうし、されるべきだという、この「感じ」。これは、どこから生まれたのか。

ずっと同じ道の同じ片側を歩いてきたという事実、つまり時間が重要なのだろうか。しかし、なにゆえに。ある対象を巡るイシューにおいて、当該対象とより長い時間の接触を持った人の方が、優先的な地位ないし権利を得ると(感じると)すれば、それはなぜなのか。哲学的な言葉の使い方をするなら、この「時間」を、より正確に言えば「時間軸の上に位置付けられた事実」を、一種の「功績」と呼ぶことが可能だろう。呼び方が重要なわけではない。肝心なのは、その「功績」が、あるイシューについて然るべき決定を下す際に考慮されるべき条件であると「感じられる」理由なのだが、その点についてはちっとも明らかでない。


この例では、ピンと来ない人が多いかもしれない。同じようなことは他に幾らでもあるので、別段歩道にこだわる必要は無い。スーパーやコンビニのレジに並ぶ場合でも、トイレで順番待ちをする場合でもいい(これは一般化できそうだ)。そこで私たちが律儀に並んで、順番を守ろうとするのはなぜだろうか。早く来た人が先に用事を済ませて、後に来た人はその次の番に回るべきだ、と。そう考えるのはなぜだろうか。横入りなど不当であり、そんな事をするのは許せないという、その「感じ」はどこから来るのだろうか。

直ぐに思い付くところでは、家庭や学校などでそう教わってきたから他の仕方を考えもしないのだ――規律訓練――とか、そうした方が効率的で社会が上手く回るからそう決めたのだ――調整問題――とか、そうすることが皆にとって利益になると誰もが何となく感じているからそうなったのだ――convention――とか、色々と説明を加えることはできる。しかし、ここで私が問題にしたい「感じ」は、そんな在り体の説明ツールで処理可能な範囲を超えたところに在る気がするのだ(ただし、もっとも核心に近づいているのはconvention論だとは思う)。それが何なのかを、知りたい。


先の歩道の例について、別のバージョンを考えてみよう。仮に、同じ状況の下に近づいてきた女性が、私と擦れ違う目前でその歩道に面した建物に入ったとしたら、どうだろう。その場合、何も無い時よりも、私は納得する部分が大きいように思う。店に入ろうとしていたなら、建物側からずれようとしないのも仕方が無いか、と思うかもしれない。それは非難し得ないと思うかもしれない。しかし、それはなぜだろう。店に入る事情があれば建物側を譲らなくても仕方無いと感じるのは、どういう理由によるものなのか。同じ立場なら私でもそうするだろうという共感ゆえだろうか。ならば、なぜ共感できる場合には非難し得ないことになるのか。

別の例を出そう。長い行列が出来ているトイレに音速で駆け込んできた男性が、寸分の誇張も無く今にも決壊しそうなんだと切迫した表情で訴えながら、順番を無視して空いた個室に駆け込んだとしても、私たちは彼を強く責め得ないのではないか。その態度は、万一にもカタストロフィに巻き込まれたくないという直接の利害認識にも支えられているのかもしれないが、より中心的な構成要素は、彼が言語的・遂行的に訴えた便意の深刻さへの認識と、彼が置かれた事態に対する一定の共感であろう。つまりそこでは、空いた個室を誰が先に利用するかについての決定においては、単に並んだ順番(功績)のみが考慮されるべきではなく、各人が催している便意の深刻度合も考慮されてよいと考えられたのだし、著しく深刻な事態に対する共感も決定に影響を及ぼす可能性があると示されたのである(もっとも、現実にはこのようなケースは多くないだろうが)。


……。しかし、これは違う。共感の話を拡げたのは失敗だった。これでは功績から共感へと論の対象がすり替わっただけで、功績がなぜ重視される(べきだと感じられる)のかという肝心の問いへの答えは導けそうにない。問題となる対象とどれだけ長くかかわりを持ったか。その事実がなぜ私たちの道徳感覚を規定するのか。この点を掘り下げる必要があるが、その掘り下げ方が難しい。私の知る限り、類似の問題について最も包括的かつ根本的な思考を展開して見せたのはD.ヒュームだと思うが、彼の哲学を横目に見ながら、もう少し踏み込んだところへ行けないかと思う。どうもこの連載は、こうしたフワフワした感触のまま進んでいくことになりそうである。


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