Tuesday, February 6, 2007

自由と管理―パノプティコンと現代社会


パノプティコンと規律訓練権力



ミシェル・フーコーは、強制する権力、抑圧する権力、という従来の権力観を覆す新しい権力観を、ジェレミー・ベンサムが考案した監視塔=「パノプティコン」の例で示したことで有名である。

パノプティコンでは、囚人達はそれぞれ独房に入れられる。独房は円形に配置され、それぞれの入り口は円の中心に向けられている。円形の牢獄の中央部には監視塔がそびえ立っており、そこから各独房の内部が見えるようになっている。これに対して、囚人の側からは監視塔の内部をうかがい知る事ができない。それゆえ、実際に監視されているのか否かにかかわらず、囚人は常に監視されている意識を持たざるを得ない。囚人は監視の目を内面化して行動するようになり、自ら行動を律するような「主体」化を迫られる。ここでは、権力行使の主体は監視者や監視の構造であるとともに、監視の目を内面化した被監視者自身である。

フーコーが示したこうした権力の形は、学校、工場、軍隊、病院などあらゆる空間で現れる近代的な権力の在り方だとされ、しばしば「規律訓練型権力」と呼ばれている。その特徴は、支配の対象である各個人に特定の規範を内面化させ、自ら規範に従うよう仕向ける点にある。また、この権力は、規律・訓練される/する各個人にとって、必ずしも不利益になるものではなく、むしろ利益を増進するものである。学校教育に象徴的なように、規律・訓練された主体でなければ近代社会の中で生きていくことは難しいし、規律・訓練されていない主体ばかりでは近代社会は立ち行かない。その意味で、こうした権力は我々を「生かす」権力、我々の役に立つ権力である。


フーコー的権力観の失効?



ところで、近年では、パノプティコンの例を用いた規律訓練型権力の存在様式としては説明しがたい事態が出現していることが、盛んに議論されている。

例えば鈴木謙介は、一方的な可視性によって被監視者が不可避的に自律するように仕向けるフーコー的権力観によって監視カメラを捉えるとすれば、監視カメラが被監視者から見える位置にあることが重要であり、場合によっては「カメラのような形をしたものが天井からぶら下がっていさえすればいいはずである」が、「カメラが一見それとわからないような形状になったり、センサーや無線などを用いた「見えない」ものになっていく」傾向が見られる現状はそうした説明から逸脱するものである、と指摘している*1。確かに、ここには事態の変化がある。

そうした変化は、監視の目的が変化したことによる。新たに現れてきた「見えない監視」は、従来の監視のように被監視者の自己規律を目的としてはいない。新たな監視は、被監視者の行動を記録したり、情報を収集したり、資格を認証したりするために用いられる。そこでは被監視者を規律することよりも、その情報を記録して管理することが目的とされている。被監視者の内面よりも、データが重要なのだ。そして、今や監視と管理の技術は民間領域へと拡散している(「監視国家」から「監視社会」へ)。現代社会においては監視は遍在しており、決して国家の独占物ではない。

例えば、子どもの安全のために電子タグが利用され、交通の利便のためにsuicaやETCが用いられ、通信の利便のために携帯電話が使われる。suicaや携帯電話にクレジットカードを連動させて買い物をすることもできる。我々は、こうした安全や利便のために自らの位置情報や行動記録、消費記録を提供する。それは、市場メカニズムの中で、我々が消費者としての自由選択によって、監視され、管理されることを自発的に望むことを意味している。つまりそれはビッグ・ブラザーによる監視などではなく、いわば多数のリトル・ブラザーによる多元的管理である。我々は、自らの個人情報のデータベースがあらゆるところに存在することで、その場に応じた個人認証が可能になり、その場に応じたサービスを享受できるのである。

重要なことは、こうした管理社会が、人々の自己決定によって成立していることである。確かに、依然として国家による監視の問題は存在する。そして、国家=ビッグ・ブラザーによる監視と民間=リトル・ブラザーによる管理が結び付く危険も存在する*2。だが、その場合にも、監視と管理は、魅力的なサービスのために必要な対価としての個人情報の提供に基づいて行われるだろう。それは基本的には、あくまでも我々の自由を拡大し、多様な選択肢を可能にするために、我々自身の選択によって行われる。

それゆえ、この監視と管理は確かに権力ではあるが、人々の欲望に応じて、それを実現するために作動している。では、このように権力が人々の欲望を実現するために働くのであれば、そもそもそれにに抵抗する必要があるのだろうか。そこで失われているものは何なのだろうか。これは難しい課題である。抵抗の必要などない、という回答も十分有り得るだろう。抵抗するべきだと考える場合にも、なぜ、何に対して、どのように、抵抗すべきなのかについての答えは容易には見つからない。それゆえ、今回は棚上げにしておこう*3。


パノプティコンの第二の意味



我々がここで第一に確認しておくべきことは、現代型の管理社会においては確かに、パノプティコンを象徴とした権力図式が当てはまらない場面が多くなってきているということである。だが、実は、パノプティコンの象徴に見るべき重要な特徴は、一般的に強調されるような一方的な可視性による自己規律化だけにあるわけではない。パノプティコンには、「側面での不可視性」という第二の重大な特徴を見出すことができる。

それは、囚人たちが独房に収容されている点に示される。パノプティコンにおいて、各囚人は一人の人間として一個の部屋を与えられる権利を承認されている一方で、隣接する囚人と相互に交流や情報交換することを決して許されず、完全に孤立している。隣に収容されている囚人と深く知り合うこともできない以上、囚人が頼ることができるのは監視者以外に存在せず、彼は監視者への依存を深めていかざるを得ない。パノプティコンは、囚人に監視者との二者関係を迫ることによって、囚人が不可避的に監視者への依存を深めていくような構造を有しているのである。

この点は、特に現代において、きわめて示唆に富む。それは、価値の多元化が著しく進んだ現代社会では、人々に共通の価値を見出しにくいために社会の統合感が弱まり、不安が喚起されることで、 個人の公権力への依存が強まりやすいからである。


自由な社会における国家への依存



高度消費社会では、人々はそれぞれ異なる商品を異なるスタイルで消費する。第三次産業が盛んな都市社会においては、労働時間は一律ではない。発達した交通機関のために、居住/生活/労働の空間はそれぞれ異なっていることが多い。国際化によって外国人住民が絶えず流入してくる。結果として、ライフスタイルは多様化し、近隣住民同士の接触機会は減少する。匿名性が高く、相互に無干渉であるだけでなく無関心であることが多い。

こうしたライフスタイルの多様化は、家族や地域の結合力を弱め、流動性を高める。他方で、企業においても雇用の流動性が高まり、帰属意識は弱まっていく。総じて個人の「集団離れ」が進み、国家に対峙する存在としての「社会」における中間集団は、弱体化して統合力を失っていく。他方で、情報技術の発達が価値を共有する者との接触を容易にしており、個人は生活の大部分を同質的な仲間とだけ接触して暮らすことが可能になる(「島宇宙化」)。

すると人々は、価値を同じくする者同士、親しく接する者同士ではない相手は、得体の知れない人物であると感じ、容易に信用しないようになる。そうした社会では、現実の治安状況とは無関係に、側面での不可視性ゆえの不安が増大し、セキュリティ意識が上昇する。その結果、様々な場面で国家権力に依存するような状況が出現するようになる。


パノプティコンとしての現代日本



実際、1990年代末以降の日本では、体感治安が悪化していくのと並行して、従来国家権力が踏み込まなかった私的領域への国家的介入が進んだ。それは例えば、ストーカー、ドメスティック・バイオレンス、児童虐待、高齢者虐待、動物虐待などに関わる。浜井浩一によれば、近年の治安悪化論の根拠とされている犯罪認知件数の増加および検挙率の低下は、1999年の桶川ストーカー事件を契機とする警察の方針転換を反映したものである *4。警察の不手際や消極姿勢への批判に応える形で、2000年以降、警察は被害届の積極的受理や、事件通報およびトラブル相談への積極的対応の方針を打ち出し、さらに市民に対して被害やトラブルの相談を警察に持ち込むよう積極的に働きかけるようになった。その結果、認知件数が増加しただけでなく、従来は介入を控えていたレベルのトラブルにも対応せざるを得なくなったために負担が増大し、検挙率の低下に繋がったとされる。

こうした転換は、民事への介入をできるだけ制限するために事後対応を中心とする司法警察から、事前の予防を目的として国民生活への積極介入を旨とする行政警察への転換と見做すこともできる。それ自体、極めて重大な転換ではあるが、それよりも注目に値することは、こうした転換が国民によって要請されたものであるという事実である。その背景には、「社会」における紛争解決能力が衰弱したことと、個人の権利意識が強くなったこと、二つの要因の重なりが存在している。

「社会」の紛争解決能力の衰弱は、個人の「集団離れ」によるものである。ただ、従来は家族、地域、労働組合、企業といった中間集団が一定の紛争解決能力を有していたことが事実であるとしても、その「解決」の内実が権威的調停による和解や揉み消し、黙殺であった場合が少なくなかったであろうことは、想像に難くない。その点を加味するならば、そうした「社会」による権利侵害からの解放という面も含めて、個人の権利意識の強化を重く見るべきだろう。

例えば、人権保護法案や個人情報保護法といったイシューが個人の権利保護を名目として現れ*5、それに対して多くの人々が積極的に反対しないのは、マスコミを含む「社会」内における権利侵害や差別から個人を守るためには、国家権力に頼る必要がある、という認識が少なからず共有されているからであろう*6。家族や地域が流動性を増している現代においては、「社会」=「側面」の得体の知れない人々を頼るよりも、個人としての権利に基づいて国家の権力を頼った方が、より確実で安心できるのである*7。そして、権利の尊重と個人主義を基調とする限り、そうした意識に対しては、容易に逆らいがたいものがある*8。

結局、リバタリアン(あるいはポストモダニスト)が望むような多様な価値の自由な追求は、自由=多様であるがゆえの不安からセキュリティへの欲望を呼び起こし、強い国家権力への個人の依存を避けがたくする*9。それはリバタリアンが直面せざるを得ない内在的な困難である。ロバート・ノージックは、「全員が住むべき最善の社会が一つある」という考えを否定して、各人が「自由に随意的に結合して理想的コミュニティーの中で自分自身の善き生のヴィジョンを追求しそれを実現しようとする」ことを可能にするために、複数のユートピアの「枠」である「メタ・ユートピア」として最小国家を構想した*10。そうしたメタ・ユートピアは非常に魅力的であるが、その基盤を維持するためには結局、安全保障政策や治安政策を担う強力な国家が必要となる。それはとても単純でつまらない結論であるが、否定しがたい結論である。


治安共同体の病理



また、価値の多様化や、それに伴う家族や地域の流動化は、保守的ノスタルジーを喚起して、地域の連帯感や、何らかの共通価値(道徳、文化、伝統、ナショナリズム)への欲求を拡大する側面も持つ*11。

例えば、日本では最近、「子どもの安全」をテコにして地域防犯活動が活発化して様々な取り組みが行われている*12。それは地域社会の自主的取り組みであり*13、その活況を見る限り、時計の針を戻したような地域コミュニティの再生が実現しつつあるようにも思える。だが、現実には、そうした活動の基礎に一貫して不安と不信が横たわっているため、通学路に立って子どもの安全を守る防犯ボランティアの人々といえども、普段着で道を歩けば一転、不審者扱いされかねない。そうした「治安共同体」では、向こうからやって来る人物が子どもの頭を撫でようとしているのか、子どもの胸をナイフで突き刺そうとしているのか分からない、という不安におびえなければならない*14。自由な社会ゆえの根拠なき不安に基づく体感治安は、いつまでも好転しないのである。

地域の自発的な防犯取り組みは、目に付きやすい社会の異端者を、不審者として見とがめやすい*15。そして、そうした「不審者」の多くが、失業者、ホームレス、障害者、外国人である。こうした社会的弱者が大量に刑務所に送られることによって、現在、刑務所は過剰収容に陥っている。彼らの多くは刑務所での労務もおぼつかないため、社会に出ても働くことは難しい。もちろん、不審者を一掃しようとする地域に居場所はない。結局、彼らの多くが、最後のセーフティネットとしての刑務所で生涯の大部分を送ることになる。ここに至っては、パノプティコンはもはや比喩ではない。彼らは現実の牢獄に、深く依存せざるを得ない*16。


新自由主義の栄華かリベラリズムの完成か



ここまで治安の問題を中心に述べてきたが、他の面でも同じである。経済的な問題について見ても、個人の国家への依存は進むだろう。たとえ「小さな政府」となって福祉が削られたとしても、企業や家族、地域に頼れない人々は、公的福祉を頼るしかない。個人が「集団離れ」によって「社会」からの自由を手に入れたということは、一人では立ち行かなくなった時に「社会」に頼ることはできないということである。最後に残るのは、どんなに冷たくとも、それが刑務所という形であっても、国家しかない。

まとめよう。パノプティコンの第一の特徴である一方的な可視性による自己規律に注目するならば、確かに権力図式の描写にパノプティコンを用いることが有効である場面は、より限られてきている。だが、第二の特徴としての側面での不可視性による監視者への依存に注目するならば、権力図式の描写にパノプティコンを用いることには未だ現代的意味があると考えることができる。現代社会では、個人の権利は丁重に保護されるし、多様な価値の自由な追求が認められる。だが、個人はそうした自由な選択のためにリトル・ブラザー達による多元的な管理の下にあり、そうした多元的管理とビッグ・ブラザーによる一元的管理が結び付く危険性もある。また、自由=多様な社会であることゆえの不安からセキュリティ意識が肥大化し、様々な場面で個人の側から国家権力による積極的な介入や出動を要請するような事態が生じやすくなっている(あるいは共通価値を復権させようとする動きが生じやすくなる)。それは流動性の増大によって、もはや家族・地域・企業といった中間集団をはじめとする「社会」には個人を保護する受け皿としての役割を担うことが難しいからであり、個人が「社会」内部の様々な拘束からの自由を欲したためでもある。個人は、自らの欲望を実現してくれるリトル・ブラザー達に依存する一方で、そうした欲望充足を可能にする自由と権利を保護してくれる国家への依存を強めていくのである。

こうした事態は、リバタリアニズムが欲望したメタ・ユートピアの屈折した形での実現であると言うこともできるかもしれないし、経済的自由を徹底しようとする立場と保守的価値観を重視する立場との結託を重視するならば、リバタリアニズムと言うよりも新自由主義や新保守主義という言葉を用いた方がいいかもしれない。しかし、私はこの事態はある意味で(old/new)リベラリズムが追求してきた価値がかなりの程度で実現した事態、リベラリズムの完成とすら呼ぶべき事態なのかもしれないと考えている。その意味について立ち入って述べることはここではしない。ただ、繰り返すように、我々はまず、何に対して、いかなる理由で、いかなる方法によって抵抗するのかを問い直さねばなるまい。

最後に、二点ほど書き付けておく。一点目は、民間のリトル・ブラザー達による多元的管理とビッグ・ブラザーによる国家的管理が密接に結び付いた時、些細な法の踏み外しも許容しない「法の完全実行」が実現する可能性があるということ*17。それは望ましいだろうか。二点目は、セキュリティそのものが消費されるべき欲望の対象となってしまえば、それは選択の自由の問題であり、止めることは難しいということ。そこでは現実の治安状況がどうあれ、もはや問題にはならないであろう。



*1:鈴木謙介[2005]『カーニヴァル化する社会』講談社:講談社現代新書、70頁。

*2:例えば、住基カードが民間のサービスを受けるために必要なIDになるなど。その情報がNシステムと結び付くかもしれない。こうした様々な形での監視・管理の可能性や、そうした権力の性質についての詳細な議論は、東浩紀『情報自由論』を参照。

*3:この問題も含む興味深い考察を数多く行っているものとして、東浩紀・大澤真幸[2003]『自由を考える』NHK出版:NHKブックス、を参照。

*4:以下、浜井浩一・芹沢一也[2007]『犯罪不安社会 誰もが「不審者」?』光文社:光文社新書、第1章に拠る。

*5:「自己の情報をコントロールする権利」なるものの主張は、その権利の保護主体としての国家権力の強化を要請せざるを得ない。

*6:犯罪被害者保護の運動をこの文脈で捉えることもできる。

*7:こうした事態の背景に、リベラリズムは親密圏における問題に鈍感である、というフェミニズムによる批判のインパクトを読み込むこともできるかもしれない。ここには公私の分離やその境界の決定、すなわち国家が関わるべき範囲の是非という問題が横たわっているが、これ以上踏み込まない。

*8:個人の権利をよりきめ細かく保護しようとすると国家権力が肥大化しかねないというジレンマは従来の自由主義=立憲主義の土台に関わるものであり、こうしたジレンマゆえに、憲法に「国民の責務」を書き込むべきであるというようなロジックが入り込む隙間が出てくるのかもしれない。

*9:そもそも、多様な価値を尊重する社会を維持するためには、そうした多文化主義/文化多元主義の基盤を破壊するような者の排除、つまり最低限のセキュリティが不可欠なのである。

*10:ロバート・ノージック[1995]『アナーキー・国家・ユートピア』木鐸社、504‐506頁。

*11:そうした欲求に基づく保守的運動は、流動化に疲弊する人々を惹き付けて統合することで社会秩序を維持しようとするため、一層の流動化をもたらす新自由主義的立場と対立するようでありながら、共犯関係にあるようでもある。

*12:こうした活動を「日本の治安が悪化していることは間違いないと思います」「日本でもコミュニティの「社会的連帯感」が強いときは治安がよかったのです」といった誤った認識に基づいて称揚している最近の恥ずべき例として、菊池理夫[2007]『日本を甦らせる政治思想 現代コミュニタリアニズム入門』講談社:講談社現代新書、159‐162頁。

*13:あるいは、それは地域の治安対策を部分的に民間に委託しながら進められる、新たな行政警察の形かもしれない。

*14:以上、浜井・芹沢前掲書、第3章に拠る。

*15:以下、浜井・芹沢前掲書、第4章に拠る。

*16:日本の刑務所の現状についての興味深い報告として、浜井浩一[2006]『刑務所の風景―社会を見つめる刑務所モノグラフ』日本評論社、を参照。



Monday, January 22, 2007

責任論ノート―責任など引き受けなくてよい


道徳的責任の性質



人の道徳的責任を問う、という行為は、本来的に不安定性を伴う。道徳的責任がどのような場合に発生し、どのような場合に果たされたことになるのかについての判断は、社会ごと、個人ごとに異なる。これに対して、法的責任の場合は、その発生は法が確定するものであり、法的行為によってそれを果たしたことになるので、比較的明瞭である。そのため、規範的議論においてその所在、内容、範囲などについて問題となるのは、主に道徳的責任の方である。

一般的に、道徳的責任の所在、内容、範囲は、当該社会内における支配的な道徳的感覚に基づいて定まる。通常、AがBに対して、Bが事象Cについての責任を負っていることを認めさせるためには、論理や感情に訴えて、Bを説得する必要がある。だが、ここでBがその責任を負うことを拒んだとしても、当該社会のメンバーの多数がBに責任が帰せられるべきであると考えるならば、一般的には、BはCについての責任を負っていると見なされる。ここでBはこの責任を負うことをあくまで拒むことはできる。だが、それによって当該社会内におけるBの評価や地位は低下することになるだろう。社会一般によって認められた責任を負うことを拒むことは、現実にBを不利にするのであるから、責任拒否がもたらすコストがBにとって許容しうる範囲を超えるのであれば、Bは自らの責任を認めた方が賢明である。

ここから明らかになるのは、道徳的責任の追及を支えているのは、社会的権力によるサンクションであるということである。ある人がある責任を引き受けることを拒んだ際に、そのことを責め、その人の不利益に働き得る何らかの力による裏付けがなければ、責任が責任として機能することはない。その力は相手の道徳的感覚(良心)に訴えるような規範であってもいいし、評判や評価といったものでもいい。ともかく、そのような現実の力による裏付けがあってはじめて、道徳的責任の追及が可能になるのである。

当該社会において支配的である道徳が要請する責任を拒むことは、その社会内部で生活し続ける限り、非常に大きなコストを背負うことになるため、通常は責任を引き受けることが賢明である。それは、その責任を自らが負うことが正当であるか否かについての規範的判断とは区別される、合理的判断である。だが、ここで道徳的責任にまつわる規範的議論と切り離される形でこうした合理的判断が行われているのではない。合理的判断の前提となる社会的権力は、社会内における支配的な道徳的感覚に基づいているのであるから、そうした道徳的感覚を形成したり変化させたりすることができる規範的議論は、社会的権力と強く結び付いている。規範は権力の裏付けを必要とすると同時に、権力の矛先を定める基盤でもあるのである。

このように考えてくると、ある責任を引き受けるということがどういう意味を持っているのかも解ってくる。責任を引き受けるということは、賢明な処置としての処世術であり、通過されるべき儀式なのである。ある一定の条件下に置かれた人は、自らの責任を認め、その意思を何らかの行動によって示す。すると、その意思表示によって責任は消化されたと見なされ、社会的に一応の完結が図られる。この儀式が行われないままであると、批判や非難が寄せられることとなる。また、責任の規模が非常に大きいと見なされている場合には、こうした定型的な儀式を終えただけでは責任は消化されないと考えられる場合もある。逆に、儀式が終了し、一応の完結が見られた後で、さらに批判や非難が寄せられるならば、そうした声は過度の責任の追及として、不当であると見なされる。儀式を軽んじてはならないのである。


無限責任と無責任



規範的議論においては、当該社会における支配的な道徳的感覚が要求する以上に、道徳的責任が追及されるべき範囲を広く考えようとする立場がある。それは、「強い責任理論」とか「無限責任論」などと呼ばれる立場である。そうした立場によれば、私たちはあらゆる他者に対して「応答責任」を有していると考えられるが、こうした考え方は結果として「責任のインフレ」を引き起こすとして、しばしば批判される*1。この立場を極端にすれば、私たちはあらゆる存在に対して逃れられない責任を有しているのだから、特定の責任を殊更強調する必然性はないことになる。すると、他者に対する無限の責任を求めるということは、最終的には誰に対しても責任を負わないということと同じになる。無限責任論と無責任論とは、コインの表と裏なのである。

私は無限責任論よりもむしろ、その果てにある無責任論の方に魅力を感じる。道徳的責任の内容と範囲は、私たちが生きる社会内の人々の道徳的感覚と社会的権力作用の産物でしかないから、最終的には恣意的なものである。理論的には、それはどこまでも広がり得るし、どこまでも狭められる。ならば私は、ただ私の行為/不行為の帰結は全て私に降りかかって来るであろうという事実的な認識だけを有して、規範的には、あらゆる道徳的責任を引き受けることを拒絶したいと思う。

だが、そう言ってみたところで、現実を生きる私たちには、社会的権力としての道徳的責任の追及が常につきまとうのである。道徳的責任は、規範的にはそれを受け入れない者にも容赦なく適用される。道徳的責任は「規約」であり、それを受け入れる者には適用され、それを受け入れない者には適用されないものだ、というのは嘘である。正義や道徳はあくまで一つの権力として機能するので、「規約」の体を取りつつ、それを受け入れない者にも適用されていく。したがって、私は無責任論者として道徳的責任に規範的正当性を認めるわけではないが、賢明な処世術として、それらに従いながら生きていくほかないだろう。


*1:北田暁大[2004]『責任と正義』勁草書房。




Saturday, January 20, 2007

九条燃ゆ前に(2)


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現実主義的理想主義的護憲論



現代の護憲派を理論的側面でリードしている渡辺治は、大塚のような理想主義的な護憲論と、内田や長谷部のようにある程度現実を容認するような護憲論との、あいだを行く。渡辺は、9条は解釈改憲によってボロボロになっており、自衛隊を認めた上で野放図な海外派兵などを防ぐために新たに歯止めをかける必要があるとする「解釈改憲最悪論」に反論し、もし9条が何の役にも立たなくなっているのであればわざわざ改正する必要はないはずであると言う。改正しようとする動きがあるということは、9条に未だ力があるということを意味する、と。その上で渡辺は、憲法は現実と全く一致するということがないものだと主張する。憲法は現実と緊張関係を持っているからこそ、その実現に向けて努力すべき規範として意味を持つ。それは男女平等を定めた14条や生存権を定めた25条と同様である、と。

渡辺によれば、現代の改憲論の主要な目的は、多国籍企業のグローバル展開に伴い、アメリカとともにグローバル市場秩序の安定を確保するために、軍事大国化と自衛隊の武力行使目的の海外派兵を可能にすることにある。こうした「支配層」の思惑を長い間阻んできたのは9条とそれに基づく平和運動にほかならず、明白な憲法違反である自衛隊の拡大は9条が歯止めとなって抑えてきた部分が大きい。解釈改憲も強力な運動に対する余儀ない対応として採られてきた苦肉の策であり、例えば集団的自衛権の行使を認めるような解釈変更なども、心配されているように官僚の判断でいくらでもできるような性質のものではない。したがって、明文改憲を許さないことは今でも極めて大きな意義を持っており、「解釈改憲状態の方が、明文改憲よりずっといいに決まっているのである」*1。

最近、改憲論への包括的な反論を行っている愛敬浩二も、渡辺の議論に負うところが多い*2。特に、改憲に関わる「支配層」の思惑についてはほぼ渡辺の分析を丸呑みしている。もっとも、こうした分析は渡辺や愛敬だけでなく共産党や社民党も多くの部分を共有しており、精緻さを別にすれば比較的一般化しているとも言える*3。愛敬は渡辺と同じように自衛隊を違憲であると考えているが、それを制約するような「新しい九条」を制定したとしても、それが改めて解釈改憲にさらされない保証がどこにあるのかとして、「解釈改憲最悪論」に抵抗している。また、長谷部の9条=「原理」論に対しては一定の理解を示しつつも、9条が「準則」と了解されているからこそ実際は「原理」として働くのであるとして、その実践的問題点を指摘している。こうした「現実主義」的立場、現実政治的視点は愛敬の強調するところであり、こうした立場からすれば、「戸締り論」のように一般的・抽象的議論からいきなり軍備の是非に関する選択を迫る議論は、政治論として馬鹿げている上に改憲派(「支配層」)の思惑を隠蔽するものだとして、厳しい批判を受けることになる。

以上のような渡辺=愛敬の護憲論を一言でまとめるとすれば、「手段的絶対平和主義的護憲論」とでも言えよう。渡辺も愛敬も、自衛隊は違憲であると考えており、そうした現実の方を9条の理念に近づけていくことを主張しているので、その意味では絶対平和主義の立場に立っている(愛敬はそう明言している)。しかし、愛敬が一般的・抽象的議論としての軍備の是非論を扱うことを拒んでいることからもわかるように、現実問題として非武装が実現できるし実現すべきだと彼らが信じているようにはあまり見えない。むしろ彼らが強調するのは政治的な歯止めとしての9条の効力である。これは愛敬についてより顕著であるが、彼らは9条を厳格に(つまり絶対平和主義的に)解することによってこそ歯止めとしての効力が強まると考えており、その意味で彼らの絶対平和主義的立場は手段的に選択されていると言える。おそらく彼らも自衛力の必要を認めており、その点、内田や長谷部と大きく考えを異にするものではないが、9条と自衛隊を整合的に捉えるような一種の「譲歩」は政治戦略上望ましくないと判断しているものと思われる。

こうした理解の上で、彼らの議論の問題点をいくつか指摘したい。まず渡辺について。渡辺は14条や25条を引き合いに出しながら憲法と現実は常に緊張関係にあるものだと言うが、9条の現実との乖離を問題にする人々は単に「乖離」だけを問題にしているのではなく、9条の実現が「不可能」であることを問題にしているのではないか。14条も25条も完全な実現は不可能に近いが、その実現要求を個別のケースに応じて争うことができる。これに対して9条は個別的に争うことができず、(「準則」として解釈する限り)端的に実現していないとわかる。したがって、9条と性質を大きく異にする14条や25条を引き合いに出す論法は説得力に欠けるように思われる。渡辺自身も自衛隊を違憲だと言っており、その即時および近時の廃止を目指していない以上、9条は実現不可能ゆえに常に違憲状態を発生させる条文であることになり、この点を問題視する意見が根強いのは無理もないように思われる。

また、渡辺が分析する改憲派の思惑については大きく外れているとも思わないが、後に高橋哲哉の議論について改めて述べるように、「支配層」の思惑に問題の全てを還元するような議論は受け入れ難い。「支配層」と呼ばれるような人々でなくとも「国際貢献」やその他の海外派兵、軍事大国化などを支持する人々はそれなりに存在していると思われる。そして彼らは「支配層」に「だまされている」わけではない。この点を無視するならば、「支配層」ではない人々に広くアピールするような護憲論の展開は到底かなわないであろう。

愛敬については一点だけ述べておく。9条改正については抽象論ではなく現実を踏まえた議論をするべきであるという主張には確かに理があるが、それが一般的・抽象的議論を封じるような意味合いで述べられていることは批判されるべきである。愛敬自身が述べるように、立憲主義が多数決では覆しがたいようなルールを予め定めることによって通常政治の逸脱・暴走を防ぐ目的を持つとすれば、憲法に関する議論はかなりの程度一般的・抽象的性格を持たざるを得ないはずであり、持つべきでもあるはずである。通常の政治過程における現実的・政治的な判断に大まかな枠をはめるルールである憲法の規定については、想定されるあらゆる事態に応じた一般的議論を尽くすことが求められる。もちろん特殊日本的な歴史的文脈や政治的・社会的事情は有り得るとしても、(例えば「戸締り論」のような)一般的・抽象的設定から議論を始めることは、特段批判されるべきではない。むしろ「戸締り論」のような軍備の一般的是非を問うような議論を回避して「支配層」の思惑に焦点を絞り込もうとする愛敬の振る舞いこそが、それ自体として強い政治性を有するものであることは指摘しないわけにはいかない。


啓蒙主義的護憲論



高橋哲哉もまた、渡辺や愛敬と同様に「支配層」の思惑を過大視する。高橋は、国家の戦争とは、「国家の権力者たち、そして彼らと利益を共有する者たちが自分たちの権力や利益を確保し、あるいは拡大するために国民を犠牲にして行う」ものであると述べる*4。その証に、高橋によれば、彼ら国家の支配者たちは決して戦争の際に最前線に身を置くことはないのである。さらに高橋は、軍隊=自衛隊は決して国民を守るものではないと言う。軍隊=自衛隊の第一次的な任務は国家=国体を守ることにあるのであり、それはつまり「国家の支配層、権力者やそれにつながる人々」を守るために末端の国民を犠牲にしていくということを意味するのだ*5。

ここで高橋は迷いなく国家=国体=支配層と結んでしまっている。しかしながら、「国体」を一般化して「国家体制」と考えるのならば、それは政治体制や憲法秩序を意味するはずであり、特に根拠も示さずに直接に「支配層」と同一視するのは不自然である。例えば長谷部は、「憲法自身が一貫して守るよう要求できる「国」とは現在の憲法の基本秩序であり、日本国憲法の場合でいえば、リベラル・デモクラシーと平和主義である」と述べている*6。このような考え方を採るとすれば、自衛隊が守るべき国家=国体=憲法秩序とは(平和主義はともかく)リベラル・デモクラシーであることになり、より具体的に言えば「人権」や「自由」や「民主主義」であることになる(長谷部の考えに反対するのであれば、国体と「支配層」をイコールで結ぶ根拠をきちんと示さなければならない。最前線に赴かないことがその根拠として十分でないことは、近代戦の常識や議会制民主主義の原則に照らして明らかである)。つまり、軍隊が国民ではなく国家を守るものだとしても、民主主義国家における国家とはその民主主義的秩序そのものであることになるから、軍隊は(少なくとも理論上は)必ずしも「支配層」を守るものではない。むしろ、民主主義国家においては、軍隊は国家=リベラル・デモクラシー=人権・自由・民主主義を守るためにこそ、国民を犠牲にするのである。

高橋のように、また渡辺や愛敬のように、戦争の責任を全て「支配層」の権益に帰してしまうタイプの主張は、リベラル・デモクラシーや各々の国民を免責するイデオロギーとして働くと同時に、高橋たち自身の思想の「正しさ」を最終的に保証する装置としても働いてしまっている。高橋は「支配層=悪の元凶」論を採用することによって、国家のために国民が犠牲にされる醜悪な側面がリベラル・デモクラシーにも備わっていることに目を瞑り、民主主義下において国民が自覚的に戦争を選択する可能性を除外し、戦争一般を「支配層」が自らの利益のために国民を犠牲にする形に一元化してしまう。このような構図においては、たとえ国民が一見自覚的に戦争を選択したように見えても、それは何らかの形で「だまされた」結果であるとされてしまう*7。そして、「だます支配層」と「だまされる国民」というこの構図の中で、高橋のように「だまされてはいけない」と叫ぶ者たちは「支配層」の思惑を暴く啓蒙者(より露骨に言えば「正義の味方」)として確固たる地位を占めることになる。この地位が都合が良いのは、たとえ自分たちが少数派であってもそれは多くの国民が「だまされている」からであることになり、実際に戦争に突入するなどの最悪の事態においても、その責任を「だます支配層」と「だまされる国民」の両者に帰してしまうことができるからである。

高橋らが用いるこうした構図は、左翼や「進歩派」が伝統的に継承してきた構図である。そこでは、「だます支配層」、つまり国家権力者や大企業のトップなどがいつでも悪の元凶であり敵視される一方で、「だまされる国民」、つまり啓蒙されるべき大衆も軽蔑されている。高橋のような啓蒙主義者たちにとって、「正義の味方」である自分たちの「正しさ」を理解せず、「支配層」の思惑を見抜けずに「だまされる」蒙昧な大衆は、いつでも最大の障害なのである。こうした態度を私は左翼と進歩派の慢性的な病であると考えているが、この病についての議論は本筋から外れるものだろう。ただ、「現実におもねる」ことなく「思想」を持ち、「支配層」に「だまされない」ように歴史を学んで批判的思考を養わねばならない、と呼びかける彼らの姿勢は、多くの国民には「われわれのいる位置まで上がってきなさい」と偉そうに説教するうっとうしい存在にしか映らないだろうことは確かだ。


「新しい歯止め」論と護憲の方法



理論的に考えても、実践的に考えても、護憲派が最もアピールするべき相手は、平和のためにこそ9条改正が必要であると考える人々である。彼らは別に「支配層」に「だまされている」わけではなく、おそらく自分なりに平和実現の方法を考えた結果として9条を改正すべきであるとの結論に至ったのであろう(もちろん日本の「国益」や自分の身の安全を考えて9条改正を支持するに至った人々も別に「だまされている」わけではない、と私は思う)。こうした人々は解釈改憲最悪論をとっていることが多い。彼らは国際情勢や政治状況の変化に応じて、従来の歯止めとしての9条に代わる「新しい歯止め」が必要であると考えている。護憲を主張するのであれば、こうした主張に対して説得的に答えていかなければならない。

これまで私が批判してきた渡辺や愛敬、内田の議論は、実際のところ、それなりに説得力を有していないわけではない。だが、それが恒常的な違憲状態を維持する点で、難がある。あるいは、法的には解釈によって違憲は回避されているから問題はないと考える場合でも、解釈改憲最悪論の不安を十分に払拭しきれない点で、なお困難は残る。私自身は、解釈改憲最悪論に対して渡辺や愛敬が主張する「明文改憲最悪論」や、改憲すればそこから新たに解釈改憲の危険があるという主張には、一定の説得力があると考えている。この点については伊勢崎賢治も、軍隊の保持を禁止している現行憲法下でさえ軍事的な海外派兵が実現しているのであるから、「たとえ平和利用に限定するものであっても海外派兵を憲法が認めてしまったら、違憲行為にさらに拍車がかかるのではないか」として明文改憲に反対している*8。

しかしながら、おそらくそうした主張だけでは十分ではない。渡辺にせよ、愛敬にせよ、内田にせよ、伊勢崎にせよ、9条の歴史的・現実的歯止め効果を強調するのであるが、それだけでは「新しい歯止め」論を支持する人々に対する十分なアピールにはならないだろう。従来の歯止めとしての9条ではもはや十分ではないと考えている人々に対しては、従来の歯止めの効力が未だ残っているという(いささか消極的な)訴えかけをするだけではなく、また別種の「新しい歯止め」を積極的に提案していく必要がある。9条を改正することが平和に寄与しないことが確かであるとしても、9条を守っていれば十分であるという消極的な姿勢は説得的でない。9条改正以外の方法によって「新しい歯止め」が形成可能であることを示すことができれば、解釈改憲最悪論を支持する人々の中の一定数にはかなり説得的に訴えかけることができるだろう。もちろん、ここで言う「新しい歯止め」は従来の歯止めとしての9条やその他の積み上げを否定するような性格のものではなく、それらを生かし、それらと結び付きながら「新しい歯止め」として機能し得るものでなくてはならない。

明文改憲最悪論や9条の歴史的・現実的歯止め効果の強調に加えて、9条改正/遵守以外の形で「新しい歯止め」を構想し提案していく。これが私の考える説得的な護憲の方法についての結論である。けれども、実際のところ、私にはこの「新しい歯止め」がどのような内容であるべきなのか、皆目見当がつかない。無責任と言われるかもしれないが、この先は護憲派の読者自身による更なる思索に委ねたい。


(完)



*1:渡辺の主張は以下による。渡辺治[2005]『憲法「改正」』旬報社。今井一編[2004]『対論!戦争、軍隊、この国の行方』青木書店。

*2:愛敬浩二[2006]『改憲問題』ちくま新書。


*4:高橋・斎藤[2006]102頁。

*5:同、111‐114頁。

*6:長谷部[2006]23‐24頁。

*7:高橋・斎藤[2006]40‐141頁では、「だまされない」ようにするべきことが強調されている。

*8:伊勢崎賢治[2004]『武装解除』講談社現代新書、236頁。




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