Wednesday, December 7, 2011

民主党の組織と政策



今夏、書籍としてはほぼ初と言っていい、民主党についての実証的研究が出版された。若手の研究者を中心とする本書では、民主党の特徴を予め(1)理念や政策の曖昧さ、(2)政権獲得の追求、(3)組織戦略の不明確性の3つに見定めた上で、その曖昧な組織と政策についての分析を行っている。

1章では、地方議会における民主党所属議員の議席割合が自民・公明・共産各党などと比較して低水準であり続けていることや、党員・サポーター数が自民党の3分の1程度に留まっていることなどから、民主党の地方組織の脆弱さが示される。これは、国会議員を中心として結成されたため、院外の社会的基盤を欠いている同党の性格を現わすものとされる。

地方組織を分析した4章と5章はそれぞれ、地方組織が未発達な地域に同党所属の国会議員が誕生することで組織化が進む事例や、主要な支持団体たる労組内部の対立(旧総評系と旧同盟系)が局面によって表面化する事例を扱い、「上からの創出」に基づく民主党における社会的基盤の弱さと不安定さを裏付けている。

同党については結党以来「寄り合い所帯」との批判が付きまとってきたが、3章が明らかにするように、党内対立を促進しやすい「開かれた」党首選を行った新進党に対して、党員投票を伴う代表選があまり行われず、代表選後の処理も融和的に為された民主党においては、紛争の封じ込めが成功してきた。また、旧党派を持たない新人議員の増加が旧党派の対立を相対化する中で、党内グループ間のイデオロギー距離は縮小し、グループ内の立場は拡散している(2章)。


編者2人による1章では、「試論」と断りながらも、民主党を「資源制約型政党」であると性格付けている。既存の政党類型を踏まえた上で提出されるこの新類型は後に続く章では登場しなくなるが、同じ大衆的基盤を欠いた政党類型の中でも、効力・人員確保の両面で組織動員の縮小に直面するためにマーケティング的手法を用いる「選挙プロフェッショナル政党」や、党員減少による党財政悪化のために国家財政からの補助を求める「カルテル政党」などとは区別されるものだとされる。

そもそも無党派層の増大は、人々が今や政党に対する恒常的結び付きを持たないことを意味しており、党活動への参加、党費の納入、アイディアや情報の提供、公職への候補者の供給、選挙における投票といった諸資源を政党が社会から調達することが困難になったということである。社会からの資源調達が難しくなる中で形成されなければならなかった民主党はさらに、自民党による一党優位体制のため、国家からの資源調達も困難であった。政権交代も問題を解決しない。経済のグローバル化が国家による市場のコントロール余地を狭め、財源や規制権限などの国家資源を党派的に利用することへの制約が強まっているからである。

このように、国家からも社会からも十分な資源調達が困難な環境下に置かれていることが、資源制約型政党たる意味であるとされる。同類型については、自民党一党優位支配下の野党やグローバル化状況下の与党が民主党に限られないことや、政党交付金を通じた国家からの資源調達が為されていることなどから、カルテル政党との違いが解りにくい。また、資源制約型政党であることが、選挙プロフェッショナル政党であることと矛盾するわけでもないだろう。

それでも、社会から動員される政治的資源が乏しいことが利益集約能力の低さに結び付いているとの指摘は重要であり、同党が自民党的な利益誘導政治への批判をアイデンティティーの源泉としてきたことや、左右に振れる政策の中でも比較的一貫している普遍主義的政策傾向(8章)などは、この点と結び付くだろう。


政権交代は自民党に対する批判票の受け皿として民主党が受け止められた結果であり(7章)、民主党の支持率上昇は、政権交代の可能性および実現とそれに伴う報道量の増加に導かれている(6章)。これは政権交代を追求してきた同党の成功であり、「政権担当能力」をアピールしてきたことの正しさを示すものである一方、民主党の政策そのものへの支持は乏しいことを意味する。
自民党に対する「懲罰」を可能にする代替的選択肢と見なされる民主党には、政権獲得を通じて自民党との政策的差異の縮小が促される*1。子ども手当や高速道路無料化などに代表されるような、自民党型の利益誘導政治――斉藤淳の言葉を借りれば「エコヒイキ」――へのアンチとして生み出された普遍主義的な政策――いわゆる「バラマキ」――が(財源制約があるとしても)さほど支持を得ていないことは、民主党の存在が旧来の政治システムを敵視する一点で糾合された一種ポピュリスティックな政党であり、具体的な個別のニーズとは切り離されていることを意味するのかもしれない。

民主党の地方組織が未だに育っていないのは、国政におけるポピュリスティックなニーズと地方政治における個別具体的なニーズが直接結び付くものではなく、相互に分断されていることを示しているとは考えられないだろうか。本書4章の指摘によれば、民主党地方組織の形成を促し支持者を動員するにあたって共通する明確なインセンティブは、非自民の結集という以外にない。だが、非自民であることが普遍主義を志向することになるとは限らない。既存の利益誘導政治に対する様々な不満は、異なる形の利益誘導(エコヒイキ)への欲求であることが多いのである。

個別の異なる利害を糾合するポピュリズムがあくまでも疑似普遍主義にしかならないことを思えば、普遍主義的な負担と分配への支持不拡大も理解可能である。共通する敵を名指すことによって個別的な利害を糾合するポピュリズムが民主党政権として一度成功したとすれば、その果実に対する失望が次なるポピュリズムを生み出したとしても、不思議ではない。




*1:二大政党制への接近が事実上の「一党制」に近づくことはかねて指摘されているところである。例えば、吉田徹『二大政党制批判論』光文社新書、2009年。

Saturday, December 3, 2011

政治学方法論+現代政治読書会 第2回


要領



  • 日時:12月3日(土) 18:30開始

  • 場所:法政大学大学院棟 302教室

  • 文献:


    • 上神貴佳/堤英敬(編) [2011]: 『民主党の組織と政策』東洋経済新報社.


記録



  • 参加者:4名

  • 次回予定:未定

Monday, November 28, 2011

哲学的想像力の滞留――東浩紀『一般意志2.0』



東浩紀『一般意志2.0--ルソー、フロイト、グーグル』(講談社、2011年)を強いて言えば、公共哲学の本と言えるだろう。表題の通り、本書は、グーグルに象徴されるような高度に発達した情報技術環境に刻まれる行動履歴が人々のフロイト的な無意識(本当の望み)を統計的に可視化することを通じて、かつてジャン・ジャック・ルソーが『社会契約論』の中で示したような「一般意志」の新たな形態と言えるものが現れ得るのであり、またそうした「一般意志2.0」こそが従来的な政治過程を規律する原理になり得ると主張する。著者は「政治」(過程/イメージ)の刷新を志しているが、考えられているのは、狭い意味での政治にとらわれない未来社会像そのものである。

一般意志とは主権者の意志を意味するが、個々人の私的利害のような「特殊意志」を集積して得られる「全体意志」とは区別され、人々に共通の利益を示すもので、定義上誤ることがないとされる。著者はルソーの「二次創作」により、一般意志は理性的な熟慮と討議を通じてではなく、コミュニケーションなしに導かれると読むべきであることを主張し、そこから個々人の勝手なつぶやきが政治空間を規制する「ツイッター民主主義」を正当化するのである。政治システムに直接かかわる範囲で本書の主張を短く要約するなら、あらゆる政治過程(「熟議」)を公開した上で、それを見た人のコメントがニコニコ動画やツイッターのハッシュタグのようにリアルタイムで当の政治的アクターたち(政治家や官僚)の目に触れるようにすることにより、場の空気としての「みんなの均された望み」が議論の方向性を大まかに統御することができるのではないか、ということに尽きる。


ルソーやホッブズ、ロックらについての著者独特の解釈がどこまで妥当であるのかは、重要ではないだろう。実際のところ、先の主張を導き出すためにルソーは必要ない。本書の立場をより一般的な文脈に接続するなら、情報技術を通じて未組織大衆による利益政治の規律を可能にしようとするものだと言える。したがってそれは、流動性が高まった現代社会における利害伝達経路の再編を図ろうとする「ステークホルダー・デモクラシー」の一部として解釈することもできる*1。「当事者の専横は、非当事者の欲望によって自ずと限界づけられる」(162頁)という期待は、狭く濃いステークホルダーの議論に広く薄いステークホルダーへの応答性を確保しようとするものだと言えるだろう。

そのように解釈できるということは、著者の議論が結局それなりに穏当なところに落ち着いたということであり、それ自体は十分な評価を与えられるべきであると同時に、最早その議論に刺激的な部分は見出しにくいということでもある。私は本書の基本的な主張に賛成するものである。それゆえにこそ、本書の元となった連載を一通り読み終えたときに私が感じたのは、失望であった。回が進むほど同じ内容が繰り返され、想像力の枯渇を感じさせた。そして部分的な加筆が為された本書においても事情は基本的に変わらず、「具体的な実装や制度論は、読者のみなさんの想像力に委ね」られることとなった(4頁)。

むろん改めてまとまった形で読んでみると、有益な発見がないではない。ツイッター民主主義が、無意識レベルでの選好を自動的に集計して最適な均衡を図ろうとする純粋に功利主義的な立場ではなく、無意識を政治アリーナ上で可視化することそのものを重視するという意味で、あくまでも民主主義を志向していることが明確にされた点は、著者の立場自体を理解する上では重要である。こうした議論を積極的にフォローしてこなかった人々にとって、本書は大いに刺激的であろうし、便宜に適うと思われる。


さて著者は、国家や企業の「外部者」が、いかなる決定権も持たないにもかかわらず、その国や企業内部の人々に大きな影響を与え得ることを指して、新しいタイプの政治と呼んでいる。そして、コミュニケーションを重視する政治観と対立を重視する政治観の双方を退け、政治の概念を「ある特定の共同体への所属を前提とする活動という意味から解き放つ必要がある」と語る(249頁)。だが、既存の境界線を越えた政治の可能性については(ステークホルダーという言葉がそれであるように)最近30年程の間にかなり頻繁に語られ続けてきた。それにもかかわらず政治が最終的には必ず境界線と結び付き、(排除を含む)コミュニケーションを帰結するものであることは、既に明らかと言ってよい。著者は無意識を数えると言う。では、無意識を数えられる主体はどのようにして定まるのだろうか。そこには既に対立が、政治の分断線が横たわっているのである*2。

一般意志は「数学的な存在」であり、それは「人間の秩序にではなくモノの秩序に属する」と言われる(67頁)。繰り返し示される「数学」に対する著者の信頼は奇妙なほどだが、人々の行動履歴さえあれば、そこから人々の本当の望みが自動的に生成されるという意味で、本書の議論はこの信頼に大きく支えられている。しかし言うまでもないことだが、数学は人間が作り出した論理体系であって自然そのものではない。それは人工的な秩序に属する。数学が幾つもの規約と仮定から出発するように、誰のどこまでのデータを集め、どのように均衡させて可視化するかといった「一般意志2.0」のシステムを設計・運営するのは、人でしかない。実は著者自身が、一般意志は「そこに共同体がある限り」存在すると書いてしまっている(67頁)。「数学的存在としての一般意志」が「友敵の分断線を決して作らない」(78頁)のは、それが分断の後の共同体でしか立ち現れないからではないだろうか。

著者は「主権は一般意志に宿っている」とするが(50頁)、逆である。一般意志があるから主権があるのではなく、主権という具体的な(定義上、至高かつ単一不可分とされる)統治権力が存在するからこそ、その行使を左右する一般意志の所在や成り立ち、内容が問題とされるのである。従来の一般意志概念を実在しない「抽象的な理念」としか捉えていない点で、著者の感覚には決定的に貧しい部分がある(それを私は「政治学的想像力」と呼んだことがある)*3。非凡な哲学的想像力の成果である本書が50年後、100年後にどう評価されるのか、私は知らない。ここに記したのは、同時代の読者たる私自身の個人的な感想である。


参考






*1:ステークホルダー・デモクラシーについては、拙著「ステークホルダー・デモクラシーの可能性」(政策空間、2010年9月29日)を参照。そこで私は、こうした立場をステークホルダー・デモクラシーの「数理的解釈」と呼んだ。

*2:リチャード・ローティの議論を持ち出すことは、何の解決にもなっていない(13章)。想像力を規制するものは共同体への帰属であり、情念の成立は理性の働きを通じて可能になる。例えば、以下を参照。

*3:一般意志が主権に基礎付けられるのではなく、むしろ主権の観念が誤って一般意志に還元されてしまうために、権力は道具主義的にしか理解されなくなる。権力がそれ自体として存在する動かしがたいものとして認識されておらず、道具主義的にしか理解されないから、政治の概念が簡単に刷新できるものと思われてしまう。この政治学的想像力の貧困が著者個人の問題なのか、現代の日本社会の問題なのかは、検討の余地があるかもしれない。


Share