少年法第61条に関して、柔軟な運用を求める立場がある。要するに、少年犯罪でも場合によっては実名報道したってよいではないか、という主張である。
その論拠は大まかに言って3つ程あるだろうか。
(1)マスメディアには表現の自由が、国民には「知る権利」があるので、たとえ少年犯罪でも一律に報道を規制するべきではない。
(2)非公開となっている少年事件の詳細を知ることができれば、背景の分析を通じて、同様の事件を防ぐための社会的施策を取ることができる。
(3)実名を公表することにより、自分が行ったことに対する責任を少年に自覚させる(ことを通じて再犯の予防にも役立つ)。
私は「知る権利」などあるのか疑問に感じているし、事件報道などほとんど必要ないと考えているので、(1)と(2)に関しては非常に嘘臭く思えてしまう。
少年による事件であっても、加害者の情報をある程度報道することには反対しない。だが、ほとんどの事件において、わざわざ加害者の実名(や顔写真)を公表する必要は何ら存在しないはずである(被害者についても同様)。
主張者は、少年の氏名が「合理的な公的関心の対象となる場合」、表現の自由や知る権利と少年の利益を比較衡量した上で少年の氏名の公表が許容される可能性は、否定されるべきではないと言う(松井茂記『少年事件の実名報道は許されないのか――少年法と表現の自由――』日本評論社、2000年、131頁)。しかしながら、私には加害者の「氏名」そのものが「合理的な公的関心」の対象になる事態が、ほとんど想定できない(これは、成人についてもそうである)。辛うじて、加害者が凶器を携帯して逃走中である場合や、加害者が既に公知たる著名人である場合を考え得るに留まる。これら以外の一般の事件については、加害者の実名が重要であることは、まず無いと言ってよい。だから、報道しなくてよい。
ところが、主張者によれば、少年の氏名そのものに価値があるかどうかは問題ではないのだと言う。少年の住環境や家族構成、通学している学校や生育環境、犯行事実、その背景などについて報道を行えば、いずれ本人を特定することは可能になる。そのため、事件の詳細を知るために氏名それ自体は不可欠でないとしても、加害者の情報を報道することを一旦是とすれば、氏名の公表を禁止すべき理由は乏しいとされるのだ(松井前掲書、142頁)。
これは、論理になっていない論理である。特定可能な情報を伝えることと、特定情報そのものを伝えることは違う。たとえ結果的には特定され得るとしても、直接に氏名を公表しないことには意味がある。その他の情報をいくら報道したところで、氏名(や顔写真)を報道しなければ、周囲の人々には特定されてしまうとしても、社会一般の人々には特定されずに済む。固有名が流れてしまえば、社会一般からも特定されてしまう。この違いは大きく、「どうせばれてしまうんだから…」などという消極的な理由で実名を垂れ流してしまおうとする主張者の軽率さを示している*1。
敢えて社会一般の人々に対しても特定情報そのものを流そうとすることの意味は何なのか。社会にとっては、犯罪の背景は重要であり得るとしても、個別の事件の犯人の固有名など、何の意味も持たないはずである。歴史に刻まれるような重大事件であっても、せいぜいイニシャルか仮名でよいと、私は思う(成人についても同じ)。
4人を射殺したとして1969年に逮捕された少年について実名報道を行った朝日新聞は、「事件の社会的意味が大きく、少年の人柄、育った環境などを詳しく報道しなければ事件の本質を解明できないと判断した場合は、氏名を明記、写真を掲載する方針」であると、当時の社告で述べている(高山文彦編『少年犯罪実名報道』文藝春秋(文春新書)、2002年、173頁)。見事なまでに意味不明な文章である。「事件の本質を解明」するために、なぜ「氏名」と「写真」が必要なのかが、全く説明されていないからだ。
なぜ、これ程までに「氏名」が重視されるのであろうか。私には、先の(3)に類する考え、とりわけ実名公表を通じた「社会からの応報」が必要だとする考えが根強いためではないかと思える。実際、今や少年は権利主体として尊重されるべきであり、パターナリズムから解放して自己責任の下に置くべきであるから、犯罪に際しては「保護」よりも「罰」を与えるべきであるとの認識を前提に(松井前掲書、212-213頁、高山前掲書、22頁)、社会による非制度的な応報/処罰機能を評価する見解が示されている(松井前掲書、ⅳ頁)。それならば応報が目的なのだと潔く述べればいいと思うのだが、必ずしもその意思が明らかにされないために、分かりにくくなっている*2。そういうことなのだと思う。
その論拠は大まかに言って3つ程あるだろうか。
(1)マスメディアには表現の自由が、国民には「知る権利」があるので、たとえ少年犯罪でも一律に報道を規制するべきではない。
(2)非公開となっている少年事件の詳細を知ることができれば、背景の分析を通じて、同様の事件を防ぐための社会的施策を取ることができる。
(3)実名を公表することにより、自分が行ったことに対する責任を少年に自覚させる(ことを通じて再犯の予防にも役立つ)。
私は「知る権利」などあるのか疑問に感じているし、事件報道などほとんど必要ないと考えているので、(1)と(2)に関しては非常に嘘臭く思えてしまう。
少年による事件であっても、加害者の情報をある程度報道することには反対しない。だが、ほとんどの事件において、わざわざ加害者の実名(や顔写真)を公表する必要は何ら存在しないはずである(被害者についても同様)。
主張者は、少年の氏名が「合理的な公的関心の対象となる場合」、表現の自由や知る権利と少年の利益を比較衡量した上で少年の氏名の公表が許容される可能性は、否定されるべきではないと言う(松井茂記『少年事件の実名報道は許されないのか――少年法と表現の自由――』日本評論社、2000年、131頁)。しかしながら、私には加害者の「氏名」そのものが「合理的な公的関心」の対象になる事態が、ほとんど想定できない(これは、成人についてもそうである)。辛うじて、加害者が凶器を携帯して逃走中である場合や、加害者が既に公知たる著名人である場合を考え得るに留まる。これら以外の一般の事件については、加害者の実名が重要であることは、まず無いと言ってよい。だから、報道しなくてよい。
ところが、主張者によれば、少年の氏名そのものに価値があるかどうかは問題ではないのだと言う。少年の住環境や家族構成、通学している学校や生育環境、犯行事実、その背景などについて報道を行えば、いずれ本人を特定することは可能になる。そのため、事件の詳細を知るために氏名それ自体は不可欠でないとしても、加害者の情報を報道することを一旦是とすれば、氏名の公表を禁止すべき理由は乏しいとされるのだ(松井前掲書、142頁)。
これは、論理になっていない論理である。特定可能な情報を伝えることと、特定情報そのものを伝えることは違う。たとえ結果的には特定され得るとしても、直接に氏名を公表しないことには意味がある。その他の情報をいくら報道したところで、氏名(や顔写真)を報道しなければ、周囲の人々には特定されてしまうとしても、社会一般の人々には特定されずに済む。固有名が流れてしまえば、社会一般からも特定されてしまう。この違いは大きく、「どうせばれてしまうんだから…」などという消極的な理由で実名を垂れ流してしまおうとする主張者の軽率さを示している*1。
敢えて社会一般の人々に対しても特定情報そのものを流そうとすることの意味は何なのか。社会にとっては、犯罪の背景は重要であり得るとしても、個別の事件の犯人の固有名など、何の意味も持たないはずである。歴史に刻まれるような重大事件であっても、せいぜいイニシャルか仮名でよいと、私は思う(成人についても同じ)。
4人を射殺したとして1969年に逮捕された少年について実名報道を行った朝日新聞は、「事件の社会的意味が大きく、少年の人柄、育った環境などを詳しく報道しなければ事件の本質を解明できないと判断した場合は、氏名を明記、写真を掲載する方針」であると、当時の社告で述べている(高山文彦編『少年犯罪実名報道』文藝春秋(文春新書)、2002年、173頁)。見事なまでに意味不明な文章である。「事件の本質を解明」するために、なぜ「氏名」と「写真」が必要なのかが、全く説明されていないからだ。
なぜ、これ程までに「氏名」が重視されるのであろうか。私には、先の(3)に類する考え、とりわけ実名公表を通じた「社会からの応報」が必要だとする考えが根強いためではないかと思える。実際、今や少年は権利主体として尊重されるべきであり、パターナリズムから解放して自己責任の下に置くべきであるから、犯罪に際しては「保護」よりも「罰」を与えるべきであるとの認識を前提に(松井前掲書、212-213頁、高山前掲書、22頁)、社会による非制度的な応報/処罰機能を評価する見解が示されている(松井前掲書、ⅳ頁)。それならば応報が目的なのだと潔く述べればいいと思うのだが、必ずしもその意思が明らかにされないために、分かりにくくなっている*2。そういうことなのだと思う。
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